玄関の靴


 翌朝、真実は登校しようと玄関に向かう。

 父親の靴が無い。


 真実は高校の早朝講座のために一番に家を出るので、いつも玄関には家族全員の靴が揃っているはずだ。

 父親は今日は珍しく早かったのかな? 昨日も遅くまで帰らなかったし。仕事が忙しいのかな? と真実は想像を巡らせながら、家を出た。


 学校は楽しく過ごした。文化祭の準備は楽しい。

 一つでも楽しいことがあると、学校の他のこともあまり嫌じゃなくなるから不思議だ。前より授業にも身が入るようになった。


 帰宅して、母親と美奈と三人で夕飯を食べ、風呂に入り、三人でテレビを観て笑う。

 今日も父親にお休みが言えなかったな。

 そんなことを眠る前に真実は思う。




 その翌朝も、父親の靴は無かった。

 不思議に思いながらも、真実は登校する。


 学校は楽しい。文化祭の準備時間が待ち遠しい。授業もそんなに嫌じゃない。


 帰宅して、母親と美奈と三人で夕飯を食べ、風呂に入り、三人でテレビを観る。


「お父さん仕事忙しいの?」


 美奈が母親に訊く。


「そうみたい」


 母親が明るく言う。

 何か引っかかる。

 でもそれが何かは分からない。


 テレビを観終えて自室に向かう。

 星が綺麗だ。

 真実は眠りにつく。


**


 その翌々朝も、父親の靴が無い。


 おかしい。


 漠然とした不安が真実の中に広がる。



 でも学校に着いてクラスメイトの顔を見ると、そんな不安は消えてしまった。

 クラスメイトと楽しく一日を過ごす。

 帰宅する。

 夕飯を母親と美奈と三人で食べる。


「あのさ、お母さん」


 真実が切り出す。


「お父さん、帰ってる?」


 母親が笑顔を取り繕って答える。


「ええ? 何言ってるの。帰ってますよ。仕事が忙しいから、遅く帰って早く出てるの」

「うそ。朝、お父さんが起きてる音しないよ?」

「それは。あなた達がぎりぎりまでぐっすり寝てるからでしょ? 二人が寝てる間に出勤してるのよ」


 母親が二人の目を見ないようにして答える。


「じゃあ、明日は休みだから、起きたらお父さんいる?」


 真実が訊くと、母親は動きを止める。

 何か思案している。


「明日は……もちろん。お父さん、いるわよ」


 母親が力無く答える。なんだか、変だ。


「うそ。どうなってんの?」


 美奈が遠慮無く問いただす。

 母親は狼狽し、言葉を探す。


「……お父さんは。お仕事が忙しいのよ。今日は泊まり込みで週末もお仕事かもしれない。……とにかく忙しくて、お母さんにも分からないの!」


 最後、母親は叱るように言い放った。

 もうこれ以上訊くな、訊いても答えない、そんな意志が伝わってくる。

 いよいよ変だ。


「うそ。お父さん帰ってこないんでしょ。家出?」


 本当に美奈は容赦無い。

 母親が立ち上がり、美奈を睨みつける。

 あぁこの顔、自分以外に向けられているのは初めて見る、と真実は思う。


「そんなことありません! 子どもの分際で分かったような口きかないで‼」


 母親が怒りを顕わにする。


「もうやめなよ、美奈」


 真実は初めて家族の仲裁役になる。

 ふと、自分と母親が喧嘩をしている時、父親と美奈はこんな気分だったのか、と思う。

 悪いことをしていたかもしれない、と思う。


 美奈も立ち上がり、母親を睨みつける。

 真実は母親と美奈の間でオロオロする。

 美奈は何か言おうとするが、何も言わずに口を強く結び、二階の自室へ駆けて行く。


 母親が、力無く椅子にへたり込む。

 食卓に肘を付くと、顔を両手で覆う。

 泣きたそうだ。


 でもそれを我慢している。自分がいるからだろう。

 真実は片付けられるだけの皿を流しに置き、自室に向かう。階段を上っていると、母親がすすり泣く声が聞こえた。


 美奈の部屋に行く。美奈は布団に潜りこんでいる。

 真実は何も言わず、その傍に座る。

 しばらくそうしていると、美奈が口を開く。


「お父さん、なんで帰ってこないのかな」


 なぜだろう。なぜだろう。なぜ。


 どんなに考えても、真実には分からない。


「……なんでだろうね。分かんない……」


 真実にはそう言うのが精一杯だった。


 美奈の部屋から外を見る。

 星が綺麗だ。


**


 翌日。

 起きると父親の姿は無かった。


 休みの日、父親は決まって朝寝する。午前中寝て、昼食時に起きてくる。

 玄関に父親の靴は無い。

 部屋を覗いても父親の姿は無く、母親だけが寝ている。


「お母さん、おはよう」


 真実は母親に声をかける。

 母親からの返しは無い。


「お母さん、大丈夫?」


 もう一度声をかける。

 やはり返しは無い。

 真実は諦めてリビングのソファに向かう。


 こんなことは初めてだ。

 どうすればいいのか。

 分からない。


「おはよう」


 美奈が起きてきた。


「お父さん、いる?」


 真実は首を横に振る。


「いない」

「そっか」


 美奈と二人でソファに座る。

 真実も美奈も、何も話さない。


 グウ。こんな時も腹は鳴る。

 グウ。美奈の腹も鳴る。


「ははは」

「へへへ」


 顔を見合わせて笑う。

 二人で朝食を作ることにする。簡単に牛乳と、バタートーストだ。

 母親の分も作る。

 焼けるパンの、いい匂いが広がる。唾液が出てくる。


 母親も部屋から出てきた。

 昨夜は泣きはらしたのか、目が腫れている。


「おはよう」


 真実が声をかける。


「……おはよう」


 母親が力無く返す。


「おはよ」


 美奈もあいさつする。


 三人で朝食にする。何も話さずもくもく食べる。


 バタートーストおいしい。牛乳と合う。二枚じゃ足りない。

 もっと焼いて次はジャムパンだ。チョコパンも食べたい。

 でも食パンが無い。

 真実は冷蔵庫を漁る。


「……食パンはもう無いわよ」


 冷蔵庫を漁る真実を見ていた母親が、口を開く。


「ご飯ならあるから、卵でも焼きましょうか?」


 母親が立ち上がろうとする。

 それを見て、真実は反射的に行動する。


「いいって。それくらい自分でできるから。二人の分もやるよ。食べる?」


 立ち上がろうとする母親に、座れとジェスチャーをして座らせると、真実の口からは思わぬセリフが飛び出した。

 こんなセリフを言うなんて。自分が自分じゃないみたいだ。

 その状況に、真実だけでなく母親も美奈も驚いている。


「いいの真実ちゃん? じゃよろしく」


 美奈はすぐ我に返り、真実の提案に乗ってくる。


「……じゃあ、私もお願い」


 母親も驚きつつもお願いしてくる。


「おっけ。じゃあ少し待って」


 真実は家で料理したことがほぼ無い。

 専業主婦の母親が完璧にやってくれるからだ。

 小さな頃は好奇心で手伝おうとしたが、その度に母親から、こんなことをする暇があったらお勉強しなさい、とか、習い事のお稽古をしなさいと言われていた。


 そんな真実でも、学校の調理実習で卵を焼くくらいはやった。

 簡単だから、目玉焼きにする。

 フライパンを取り出し火にかけ、油を引き、人数分の卵を割り入れる。


 あれ? 油がジュッと言わない。早く入れ過ぎたか? まぁいい、蓋しよう。

 冷凍ご飯をレンジに入れる。何分か分からない。まぁいい、自動ボタンを押そう。


 フライパンのジュージュー音が激しくなった。

 急いで蓋を外す。蒸気が一気に広がる。


 ヤバイ。焦がしたか?

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