夏休み 三者面談の夜
「……ただいま」
「お帰り。きっちり夕飯前ね」
母親は嫌味だ。
母親は家族と言い争いをしても長くは引きずらないタイプだが、今日はそうではないらしい。
相当な怒りがあると推測された。
「……。今日は、ごめん」
珍しく謝る気になった。
母親が驚いて料理の手を止め、真実を見る。
「いいわよ。文系って決められたんだし。手、洗ってらっしゃい」
母親はそう言うと、料理に戻る。
真実は洗面所で手を洗い、軽くうがいをし、二階の自室へ戻り、着替える。
「ただいまー」
美奈が帰ってきた。玄関の方から聞こえる。
「お帰りー!」
母親が元気よく返す。
夕飯は、真実の好物だった。
スープは母親が普段作りたがらない、キャンベルのチキンクリームスープ。
おかずに鳥の唐揚げ。
美味しかった。
**
「ねえ。今日、母さんと何かあった?」
真実が寝ようと布団に入ったところに、美奈が来て傍に座った。
真実も横にならず、座って美奈と話す。
「……何も。なんで?」
「だって今日の夕飯、真実ちゃんスペシャルだったじゃん。誕生日にも作んないのにさ。超ー分かりやすい」
鋭い。
別に鋭くはないか。
確かにあれは、とても分かりやすかった。
「今日は学校の三者面談で、ちょっと」
「ちょっとって何? ちょっとな訳ないでしょ?」
しつこい。
話したからって、何か助けたりするつもりはないだろうに。
妹の考えることというのは分からない、と、上にきょうだいがいない真実は思う。
「何? 例の進学校行きたくなかった、て喧嘩の続き?」
「まあ。そうだけど……」
真実が話したくないと暗に伝えているのに、美奈は追及を止めない。
このままこの問答を続けるのも面倒だな、と思い、真実が三者面談でやったことを話す。
「ヒュー。真実ちゃん、やる~」
美奈は話している最中は驚いている様子だったが、話が終わると茶化してくる。
「別に。ホントのことだし。先生には悪かったと思ってる」
「うーわ。ホントのこと……。ホント、真実ちゃんは昔から大変だよねー」
美奈が変な同情をしてきた。
真実は、かねてから疑問に思っていたことを、今こそ美奈に訊いてみようと思う。
「美奈はさ、寂しいとか、思わないの?」
「寂しい? 何が?」
「母さんのこと」
美奈は、全く心当たりが無い、という顔をしている。
「だからさ……」
真実が話し始める。
小さい頃から、母親は教育熱心だった。
特に真実に対して。
小学校卒業まで、真実の放課後は全て、それぞれ違う習い事で埋まっていた。
習字、そろばん、ピアノ、水泳、英語。全て母親の勧めのもと、真実がやることを決めた習い事だった。
でもその勧め方というのが、有無を言わせず言いくるめるようなやり方だった。
幼いころの真実は、母親を盲目的に好きで信頼していたということもあって、母が言うならと、習い事を始めることに同意した。
でもその後、やめることができなかった。
真実がやめたいと言うと、母親はとても悲しそうな顔をして説得してきた。
続けることに意味がある、続けていると楽しくなる、すぐに止める経験をしたら、これからの人生もそんな風に何も成し遂げられない残念な人間になる、真実がそうなったら、お母さんはとても悲しい、と。
その説得は、真実の母親を好きな気持ち、真実の母親を悲しませることへの罪悪感を見透かすように、巧妙だった。
お姉ちゃんなんだから美奈のお手本にならないと、ということも言われた。
一方で、美奈は姉の真実がやっている、という理由で自発的に習い事を始めたが、飽きるとすぐにやめていた。
母親はそれなりにやめないよう美奈を説得していたが、美奈が少し強く「やめる!」と言っただけで、「そう。好きにしなさい」と、あっさりと引き下がった。
小学校での学期始め前にも、母親は真実に、学級役員に立候補するように、と指示していた。
真実を立たせ、真実の正面に座り、真実の両腕を掴み、真実の目を見て、洗脳するように言っていた。
理由は、できることは何でもやるべきだから。
その積み重ねが、立派な大人になることにつながるのだから、と。
その後ろで遊ぶ美奈には、真実の腕を掴んだまま体をずらして美奈を見て、「あなたもお姉ちゃんのように、がんばって立候補するのよ」とだけ言って終わった。
真実は、何故そんなことをしなければならないのか分からなかった。
が、学期始めの役員決めで、立候補する同級生がいなくて困っている担任を見ると、かわいそうに思えていつも立候補し、同級生からは「優等生様」とからかわれ、居心地の悪い小学校時代を送った。
美奈はもちろん立候補などせず、楽しい小学校生活を送っているようだった。
他にも、学校でのコンクールごとに必ず参加するよう母親から要求されていた。
真実は逆らえずに必死に頑張っていたが、美奈は「自分才能無いし~」などと言って、のらりくらりとかわしていた。
でもそんな美奈を、不思議と母親は怒らなかった。
仕方ない子ね、と溜息交じりによく言っていた。
そんな様子を見ていて真実は、自分は贔屓されているのではないかと、美奈に対し引け目を感じるようになっていた。
真実の話を聞いて、美奈が考える。
「んー……」
美奈が口を開く。
「ほんとに子どもの頃は、思ってたかもだけど……。今は別に……。まぁ、一番上は大変だよね」
一番上。
思ってもみなかった切り口が、美奈から返ってきた。
よく分からないぞ。
「ほんとに? だって、なんか違うじゃん。密度っていうか濃度っていうか。贔屓とか、思わないの?」
びっくりして声が大きくなる真実を見て、美奈がケタケタ笑う。
「ははは。思わないよ。てかさ、あの人のさ、子どもに向ける愛情っていうかエネルギーはさ、50くらいがちょうどいいんだよ。まず、100を第一子に向けて削って、50ぐらいになったとこで自分のとこ来るから、私にはちょうどいいんだよね~」
そんなこと、考えたこともなかった。真実は絶句してしまう。
「ほんと。第一子は大変だと思うよ。私の同級生にもそういう子、いるもん。程度の差はあってもさ、第一子てだけで、みんな何かしら親とトラブってるもん」
他人事のように話しやがる。
同じきょうだいなのに、何なのだろうこの差は。
「そんなの。ずるいよ…」
「いやズルイってさ…。私は私で寂しい思いもしたと思うんだよ。覚えてないけど。だからさ、仕方ないじゃん。こればっかは」
美奈が、他人事のように軽く話す。
真実が口を開く。
「仕方なくないよ……」
「え? 何が? 仕方ないでしょ~」
変わらず、美奈は軽く言う。
真実が思いついたことを口にする。
「……じゃあ、換わってあげる!」
「は? 何を?」
「だから第一子! 自分、別に美奈に威張りたいとか思わないし。むしろ美奈に威張ってもらって、使いぱしってもらっていいから! 換わってあげる! 換わろうよ! 取り換えっこ!」
美奈が面食らっている。
「何ムリ言ってんの? ムリだって。ムリムリムリムリ! そっちが大変なのは分かるけどさ~。フツーに考えて、ムリでしょ! 変なこと言わないでよ~」
美奈が強く断ってくる。真実も諦めない。
「少しぐらい検討しても良いと思うんだよ?」
「検討する意味無いと思うんだよ?」
ダメ元で提案したら、あっさり切り返される。
「はあー…」
真実は大きな溜息をする。
「ホント。大変だね、第一子って」
美奈が完全に他人事のように言う。
「そんなの。何の慰めにもならない……」
「そだけどさー。ムリなのは仕方ないじゃん? みんな、自分の人生しか生きられないわけだし」
「自分の人生……」
「そ。自分の人生~」
達観しているのか。そうか。
自分は辿り着けていない境地に、もうそっちが先に辿り着いているのなら、交換なんて夢の話だな。
なんてことを真実は思う。
「じゃ、私もう寝るから」
そう言って、美奈は立ち上がった。
「もう寝るの?」
「うん。お休み~」
「お休み……」
美奈が自室へ戻ってしまって、真実は膝を抱える。
水族館のクラゲを思い出す。
脳が無いというクラゲ。
でも生きているクラゲ。
フワフワ、フワフワ。
どうして自分はこんなに、生きながら悩むのだろう。
どうして。
どうして。自分は第一子なのだろう。
どうして。自分は、支配的な母親に対抗できる、強い子どもではなかったのだろう。
どうして。母親はあんなにも自分のエネルギーを子どもに向けるのだろう。
どうして。これが自分の人生で仕方ないのなら、どうして自分で終えられない?
ふと思い出す。
お腹を壊して、死ぬかもしれないと思われる痛みに襲われた時のこと。
あの時、自分は確かに思った。
早く痛みが無くなってほしい。
楽になりたい。
もう痛みを感じていたくない。
………………でも、死にたくない。生きたい!
強く思った。
とても強く、強く思った。
時々、自分で自分の命を絶つことを考える。
でもその想像は、救いに思えるのと同時に、具体的に考えれば考えるほど、おぞましい苦しみが容易に想像されて、とてもそんなこと出来ない、という結論にしかならない。
結局自分は、強い生存本能を持った生命なのだ。
考えが堂々巡りする。
死ぬことはできない、と結論しても、こうして生きていける、というイメージは湧いてこない。
涙が出る。
なかなか止まらない。
考えすぎて頭がボーっとしてくる。
唐突に、強い眠気に襲われる。
眠気には勝てなくて、今日も真実は眠りにつく。
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