夏休み フワフワ、フワフワ。
「真実」
クラゲの中で時を忘れていると、突然声をかけられた。振り向くと、水本だ。
「クラゲ、いいよね」
いい。水本が言っているのは、今までの真実が知っている意味での『いい』ではないようだ。
「はい。……変な、生き物ですね」
「変か。はは。確かに」
水本が笑う。
「長いこといたね」
「そうですか?」
どれだけの時を過ごしたのか、真実にはよく分からなかった。
よく見ると、水本は作業着姿だ。客のいる所での仕事をするのだろうか。
「水本さん、お仕事、ですか?」
水本が、違うよ、という顔をする。
「いや。真実見かけたから、ちょっとお願いしてバックから出てきた。どんな感じ?」
どんな感じ。どんな感じだろう。
「えと。平日なのに、人多いんですね。一人なのは、自分だけみたいですけど」
「そうだね。夏休みだからね。面白かった?」
面白かった、だろうか。家族連れの中の一人は、あまり紛れた感じがしなくて、楽しい感じではなかったが。
久しぶりにというか初めて、ちゃんと見た水族館の展示は、面白くはあったかもしれない。言葉を探しながら、真実は答える。
「えと、はい。久しぶりに来たから、色々、違って見えて」
「そっか。視点も高くなってるしね。面白いって感じるのも、違った感じ?」
確かに。子どもの頃よりは、見上げる感じがあまり無かった。そのせいか、水族館が記憶にあったよりも小さく感じた。
説明板もちゃんと読んだりして、興味の持ち方が、前とは変わっていた。
「はい。クラゲも、面白くて」
「だね。大人になると、水族館面白くなるよね」
水本がニカッと笑う。大人。確かに。そうかもしれない。
水本が続ける。
「この時間だと、もうショーとかも終わってるね。これからどうするの?」
水本は心配しているのだろうか。
「あの。もう少しいて、夕飯までには帰るつもりです」
だから大丈夫です、と水本に暗に伝える。次にくる言葉は、気を付けて帰りなよ、だろうか。
「そっか。そうだ、あっちは見た?」
予想とは違うことを言われて、真実は少し驚く。水本が通路の奥を指している。
「あっちにもクラゲ、あるよ」
水本に促され、先へ進む。
確かにクラゲだ。でも学術展示のようだ。
言葉、図、写真、標本、言葉、言葉、言葉、言葉……
これはこれで圧倒される。なんだか、ある意味、
「……人間を展示してるみたい」
真実がつぶやく。水本が驚いた顔をしている。
「面白いこと言うね。……確かにここは、人間っていう生き物の生態を展示してるかもね」
水本はそう言って、ニカッと笑う。
クラゲは、浮遊生物、プランクトンなのだそうだ。泳げるけど、潮の流れには逆らえない。
脳はなくて、餌を食べると、消化器官でまず胃のように消化して、消化が終わったら、消化器官のはたらきが腸のようになって栄養を吸収して、食べたところから食べかすを排出する。やっぱり変な生き物だ。
クラゲの棘のシステムもすごい。
クラゲは、刺胞っていう一つの細胞だけで、毒と棘を出す。確か蛇は、毒の袋に毒を溜めていて、毒はそこから牙を通じて出てくるはずだ。クラゲはそうじゃない。複雑な器官じゃなくて、一つの細胞だけでやる。
食事もだけど、刺胞も、とてもシンプルな生き物だ。
脳がないってことは、考え事もしないのだろうか。
「クラゲって、どうやって増えるか知ってる?」
不意に、水本から声がかかる。
「卵、ですか?」
予想して、真実が答える。
「んー。半分正解で、半分不正解」
水本が、ニカッとする。
卵じゃなければ何だろう。このシンプルな体で胎生はしそうにないし。
「分裂、とかですか? ヒドラみたいに、切ったらそれがクラゲになるとか?」
「ヒドラなんて、よく知ってるね。でもちょっと違う、かな? まあ、自分も専門家じゃないから、全部を知ってるわけじゃないけど。多くのクラゲはね、大まかに言うと、有精卵のあと、ポリプっていう時代があって、そのポリプからクラゲが生まれて、漂いながら大きくなったクラゲが有性生殖で有精卵をつくる、てサイクルがあるんだよ。」
「ポリプ?」
聞いたことのない単語だ。どんなものか想像できない。
「うん。これだね」
水本が指し示す物を見る。
「なんか、植物みたい。浮遊、しないんですか?」
ポリプは、植物のように何かに張り付き、枝を揺らしているように見える。
「そう、浮遊しない。イソギンチャクみたいだよね」
「あー、確かに。イソギンチャク。でもなんで? 卵からクラゲ、じゃないんですか?」
卵からポリプになることは、真実にはとても非効率なことに思えた。
「うん。ポリプはね、すごいんだよ。これ、無性生殖なんだ。タケノコみたいに、ポリプからポリプが増えたり、一つのポリプから何個もクラゲが生まれたりするんだよ。あと、環境が悪くなると塊になってやり過ごして、環境がよくなるとポリプになったりする。とても強い生き物だよね。クラゲになると、プランクトンの感じが強くなっで、弱い生き物にみえるけど」
確かに。ポリプは効率的だ。一つの生き物の一生に、植物的な時代と動物的な時代がある。
卵から成体へ真っ直ぐだったら、卵の内に食べられたら、残った卵の数しか成体になれない。だけど、残った卵がポリプになって、いっぱい成体の元をつくるなら、たくさん増やせる。
本当に変な生き物だ。弱くて、強くて、弱い。
「エフィラ?」
展示を読んでいた真実が口にする。
エフィラ。
ポリプからすぐに、クラゲの形をした子どもが生まれるのではない。
クラゲの形になる前に、エフィラの時代がある。
クラゲとは違う形で、漂い始める。
「ああ、エフィラ。そう。細かく言うと、有精卵がかえるとプラヌラっていう浮遊幼生になって、泳ぐことができて、着生してポリプになる。ポリプにくびれができる時代がストロビラで、くびれが切れて、また泳ぐことができるエフィラになる。全部がそうではないけど、代表的なクラゲの幼生期はそんな感じ。面白いよね。忙しくて」
水本が楽しそうに解説してくれる。
「かわいいよエフィラ。小さいあしをさ、クラゲのかさみたいに動かしてさ、がんばって泳いでる感じで。くらげは白とか透明が多いけど、エフィラの時はピンクのもいる。花みたいで、かわいい」
水本が解説を続けていると、水本の端末が振動した。
「自分、もう行かないと。閉館時間も近いから、真実も気を付けて帰りなね。じゃ」
水本が真実の肩を、ぽんぽんと叩く。
「はい。今日はほんとに、ありがとうございました」
真実がぺこり、とお辞儀をする。
「うん。またね~」
水本は手を振ると、仕事に戻っていった。
展示棟の外に出ると、閉館を知らせるアナウンスが流れ始めた。
外はもう夕暮れだ。
ここに来る前、母親と喧嘩したこと思い出す。
思い出すと帰りたくなくなるが、空腹だ。
帰りに空腹でへたり込まないよう、自販機で糖分が高そうなジュースを買う。
母親に会ったらどうしたらいいのだろうか、考えながら水族館を出る。駅に向かう。
思考が行き詰まるとふいに、今日、水本と話したことが思い出された。
「エフィラ、か」
電車が来た。
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