第2節 平和で不便な日々

第4話 

 研究所の廊下には手すりがつけられている。きっと、今の自分のように、生まれたばかりの人形が歩く練習をするためなのだろう。こっちだよ、とスティは少し離れた曲がり角に消えていく。そちらへ向かって、一歩ずつ、着実に歩みを進めた。


 一ヶ月。日にしておよそ三十日。部屋の中や、こうして廊下で繰り返した歩行訓練も、そろそろ終わりが見えてきていた。本当に早い。練習の合間の授業で習ったことによれば、人間は生まれてから歩くようになるまで一年前後かかるらしい。それに比べれば、確かに異様なスピードだ。人形だからこそ、なのだろう。


 それにしたって、スティのやり方は些か乱暴だった。

 とにかく「まぁやってみなよ」と最後に付け足すのだ。訓練を始めた頃についた痣はとうに消えているが、いずれは何かしらの方法でお返しをしなければなるまい。歩行だけでなく、食事についてもそうだ。離乳食やらゼリー飲料やら、顎の力が小さくても食べれるものではあるが、食べさせてくれたのは最初の一週間くらい。使い方は見てただろう、とそれ以降は放置して、自分が食べ終わるまでひたすら読書に浸っていた。もうそれらとは縁のない食生活を送ってはいるが、最初の頃の服の汚れようは笑い事ではない、誰にも言えない。スティが言いふらさなければ、自分が墓まで持っていくだけですむ。言いふらさなければ。

一番困ったのは排泄だった。人造人間といっても、内臓などはちゃんと機能しており、その辺りは人間と変わらない。食事をし、栄養を吸収、必要のないものは排泄する。が、この体躯、これほどの思考ができるほどの頃にあんな経験をするとは思っていなかった。具体的には、思い返したくもない。今では(手すりを使わなければならないが)一人で歩けるので、そちらとも縁のない生活を送れていることに、無事に体が動くようになってよかったと心から安堵する。


 それらと同時進行で、スティは様々なことを教えてくれた。肉体的なことに対する乱暴さの反面、教えることに関してはとても丁寧だった。なるほど、これが向き・不向きなのかと一人で納得したものだ。

スティが教えてくれたのは、主に自分が生を受けた、この世界についてだった。五つの人種と、伝承に伝わる観測者。創世神話、各地の伝承、各国の歴史。特に興味深かったのは、極東帝国のことだった。はるか東の海の果てにあるというその国は、他の国々と違い、科学を扱う人ではなく、魔法を扱う妖人が主体となって国を治めているという。その体勢を維持するために、現在かの国は鎖国中らしい。そのため、スティから語られたのはたったそれだけ、その国の他国と違う一番の点だけだった。それ故に、興味深い。いつか、かの国へ行って、この目でその実態を見てみたいものだ。その頃まで鎖国が続いていたならば、叶わない望みだが。


 遠い異国の地へ行く前に、この曲がり角の先である。


 曲がり角の先は、扉だった。端末をポケットから取り出し、取りこぼしそうになりつつも、扉横の機械にあてがう。この端末は各所の扉の鍵ともなっているらしく、失くしたらただじゃすまない、らしい。実際に失くした人形がいたのだろうか。

軽い認証の音とともに、扉の鍵が開いた。この研究所の扉にしては珍しく、押して開けるタイプらしく、足を滑らせないように気をつけながら、扉を開ける。


 そこは、群青に沈んでいた。


「やぁ、少し時間がかかったね。完璧に執着する君にしては珍しい」


 この一ヶ月でよくよくわかったことだが、この教官は相当に性格がねじ曲がっているらしい。相手するだけ無駄なので、後半は無視する。

 たどり着いた部屋は、床も壁も、天井さえも、群青だった。おそらく六面全てが強固なガラスでできているのだろう。スティの灰色の髪も、どことなく青に染まっている。天井からは群青以外のものも降り注いでいた。淡い光が部屋を照らしては、消えて、また細く光が差す。よく見ればその中に隠れるように、魚が泳いでいた。


「綺麗だろう? 僕のお気に入りの部屋だ。といっても、この部屋への家具の持ち込みは禁止だから、こうやって」


 そう言いながら、スティは群青の上に寝転がる。金環が床と当たり、カツンと甲高い悲鳴をあげた。揺らぐ淡い光が、スポットライトのようにスティの綺麗な顔を照らす。


「寝転がって、本を読む。その時間が何よりも好きでね。ほらラスター、君も」


 言われた通り、スティの隣に寝転がった。藍色が群青と交わって、溶ける。その中で、ひときわ目立つ銀色が一筋の川のように流れていた。


「今日はここで、寝転がったままの授業といこう。寝ないでくれよ? そうだな、もし寝てしまったら、その可愛い桃色の頰を赤く染めてやろうかね」


 暴力教官め。

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