第2話
『遠い昔、王国アルタイルは魔法という不思議な力を持つ一族ルウェインによって創られました。彼らは世界に蔓延る魔物から人々を救い、神様に愛された広大な土地で国を発展させていきました』
お伽噺風に描かれたこの王国の歴史を記した文章をぼんやりと目で追う。気を紛らわせようとしているのに、どうしても目が滑ってしまう。
『ルウェイン一族は国民から愛され、平和な時代を作り上げましたが、争いがなくなると、やがて一族の力は危険なものとして忌避されるようになりました。そしてついに、民は有力な貴族たちを筆頭に革命を起こし、たった一人の姫を残してルウェイン王家を滅ばしてしまったのです』
ぱらり、と質のよい本のページを捲る。目が滑ったとしても、内容はもう諳んじることが出来るくらいに頭に入っているので問題なかった。
『残された姫は生き残った護衛騎士たちと共に、革命を起こした民に復讐を始めました。それは10年にも及ぶ長い戦争の始まりでした』
かちゃり、と目の前のテーブルにティーカップが置かれる。きっと、ジェシカが気を利かせて紅茶を淹れてくれたのだろう。ああ、この香りは王国の西部でとれる品種だわ。
『そしてついに革命軍は降参しました。そのころには王国アルタイルの王子として即位していた革命軍の筆頭貴族の子息を、姫と護衛騎士の間に生まれた息女に婿入りをさせることで和解したのです』
殆ど人質のようなものね、と思わず笑んでしまう。もう、表情を取り繕わなくていいのだからとても楽だ。
『お優しい姫は、息女と王子の間に生まれた御子を、王国に戻すことをお許しになりました。その御子こそが、現在のアルタイル王家の祖先にあたる方です。姫と護衛騎士たちは、その後、魔法を使えぬ者には見えぬ都を王国の中に作り上げ、それは幻の王都と呼ばれるようになりました』
幻の王都。そんなものあるはずはないと知っているけれど、この国に住む人々にとって、それはとても神聖な場所だった。
『王国の者たちは自らの罪を悔い、ルウェイン一族を神格化し、彼らの安寧を祈る気持ちを込めて、教会や修道院を王国中に創りあげました。それが、王国に伝わるルウェイン教の始まりです』
「……修道院、ね」
私はジェシカに悟られないような囁き声で溜息交じりに呟いた。今もルウェインの子孫たちはこの王国のどこかで生きていると司祭様は言っていたけれど、本当は敬虔な信徒でもない私は大して信じてもいなかった。ルウェインの子孫たちは王家以上の最高身分とされているが、そもそもその姿を見たことが無いので、形式上そうしているだけだろう。殆ど伝説に近い話だった。
そんな私が、修道院に興味を持つなんて。我ながら皮肉な巡り合わせに思わず笑ってしまった。それを隠すように、ジェシカの淹れてくれた紅茶を嗜む。
そうしてぼんやりと、目覚めた直後に繰り広げられた馬鹿げた茶番を思い出した。
「お姉様!! お目覚めになったのですね……! ローゼは、ローゼはっ……本当に心配しておりましたのよ」
目覚めた翌日、薔薇色のドレスに身を包んだローゼが、どういうつもりか王太子殿下と共に私の部屋へ訪れた。何の先触れもない訪問に、私よりもジェシカを始めとしたメイドたちの方が戸惑っていた。主人である私の支度を整える時間もなかったのだ。中にはローゼの突然の訪問を明らかな苛立ちと共に迎えているメイドもいた。まだ見慣れぬ新人もいたが、私付きのメイドは皆私に同情的であるようだった。
「……ごめんなさいね、ローゼ。私は大丈夫だから、泣かなくてもいいのよ」
どうして、私が謝っているのだ。どうして、私がローゼを気遣っているのだ。内心はやり場のない苛立ちで煮えくり返っていたが、どうしても長年の間にすっかりしみついてしまった「公爵令嬢として相応しい」振る舞いが抜けない。
2年ぶりに見たローゼは――体感的には一昨日見かけたようなものなのだが――身内の目で見ても輝くばかりの美しさだった。王太子殿下の婚約者になって、更に美しさに磨きがかかったのかもしれない。
社交界の華と呼ばれるお母様と同じ白金の腰まで伸びた長い髪。毛先はセットしなくても常に緩く巻かれていて、どんな色の髪飾りでもよく似合う。澄み切った青空と同じ色の瞳は、長い白金の睫毛に縁どられていて、常に潤んだような目は陽の光もシャンデリアの光も美しく反射していた。傷一つない白磁の肌には、どれだけ高級なアクセサリーも敵わない。すらりとした手足はお父様譲りだろうか。
美男美女夫婦と名高いお父様とお母様の血を引いているのだから、私も不細工ではなく、むしろそれなりに整った顔立ちだと思うのだが、この妹の前では到底敵わなかった。お父様とお母様の良い部分だけを受け継いで生まれたローゼは、今やアルタイルの秘宝とまで謳われる絶世の美少女なのだから。
民からしてみても、ローゼのように美の神に祝福されたかのような令嬢が王太子妃になったほうが祝いの席も盛り上がるだろう。そう自分に言い聞かせて何とかローゼの前では平静を取りつくろおうとしたのに、ローゼの言葉がすべてを打ち砕いた。
「そうですわね……私が泣いてばかりいたら、お腹の御子にも障りますし……」
涙で潤んだ瞳のまま、ローゼは平然とそう言い放った。元より空気が読めないというか、相手の心情に気遣いが足りない部分のある妹だったのだが、これには流石に返す言葉もない。たった一つ年齢が下だと言うだけなのに、どうして言ってはいけない言葉の一つも分からないのだろう。
入室してから沈黙を貫いていた王太子殿下でさえ、これはまずいと思ったのか、泣き崩れるローゼを窘めるように口を開く。
「ローゼ……そんなことは今、レイラの前で言うべきじゃない」
心地の良い、澄んだ少し低い声。2年の間にまた少し大人びて、一層魅力的になっている気がする。殿下の顔をまともに見られない私は、声の様子から殿下が今どんな顔をしているのか考えるしかなかった。
「私ったら、つい……!」
ローゼはたった今気づいたというように顔を上げると、許しを請うようにやせ細った私の腕にしがみ付いてきた。潤んだ瞳は庇護欲を掻き立てられるのかもしれないが、今の私には彼女を守りたいという気持ちは微塵も湧かない。婚姻を推し進めたのは王家なのだから、ローゼが悪いわけではないと分かっているのに、どうしても腹が立って仕方がなかった。
「お姉様……どうか、どうかお許しくださいませ。私、このようなつもりはなくて……私はお姉様が目覚めると信じておりましたのに」
演技なのか本気で思っているのかよくわからないところが、ローゼの見事なところだ。様々な思惑が渦巻く王家には向いている性格なのかもしれない。
「いいのよ、ローゼ……」
私は精一杯の笑みをローゼに向けたつもりだった。だが、途端にローゼの美しい瞳に涙が溜まる。
「やはり、私を恨んでいらっしゃるのね……お姉様」
「……え?」
「いつもなら、もっとにこやかに笑ってくださるもの。それに、目がお怒りになっているわ。当然よね、私、お姉様に嫌われて当然のことしてしまったのだもの……」
そう言いながらぼろぼろと泣き出すローゼを前に唖然としてしまう。何だか、前より苦手なタイプになっている気がする。
ローゼは昔からそうだ。すぐに泣く。泣いて解決しようとする子供じみた部分がある。けれども美しさは正義とでもいうべきなのか、肩を震わせて泣くローゼを責め立てる者は誰一人としておらず、いつだって悪者にされるのは相手の方なのだ。私も何度も理不尽な思いをしてきた。けれども私は姉なのだから、と悔しさを飲み込んでじっと耐えてきたのだ。
いつものように笑えなかったのは、昨日まで2年もの間眠っていたからだ。表情筋が上手く動かないのを精一杯働かせて笑んだつもりだったのに、ローゼにそんなことを言われる筋合いはない。目が笑っていないのだって、仕方がないだろう。本当に心から私が喜べるとでも思っていたのだろうか。
「おめでとう、の一言も言ってくださらないわ……。貴族の娘にとって、王家の血を引いた御子を身ごもる以上の幸福なんてないのに」
暗に「私はお姉様より幸せなのよ」と宣言されたような気がして、遂に何も言えなくなってしまった。それどころか、人の気持ちも考えず心の中を土足で踏み荒らすようなローゼの言動に吐き気さえ覚える。苦労して一時間かけて飲んだスープを、無駄にしたくはなかった。唇を噛んでじっと堪える。
思えば、私の人生は我慢してばかりだわ。それでも、殿下が隣にいてくだされば楽しかったのに。
じわりと涙が滲んで、私まで泣き出してしまいそうだった。由緒あるアシュベリー公爵家の娘が、姉妹揃って王太子殿下の前で泣きじゃくるなんて醜聞は避けたい。
「ローゼ、レイラは昨日目覚めたばかりなんだ。上手く笑えないのも当然だろう」
殿下はローゼの肩に手を置いて、彼女に言い聞かせるように告げる。その距離の近さは、親密さを見せつけられているようで一層辛かった。
もう、私に構わないで。早く出て行ってほしい。
私は震える指をぎゅっと握りしめ、吐き気を堪えながら歪な笑みをローゼに向ける。
「っ……おめ、でとう、ローゼ……。いいえ……未来の王太子妃殿下……」
ベッドの上で軽く頭を下げながら、私は悔しさと苛立ちに耐え続けた。私の姿に気分を良くしたのか、ローゼはようやく私の腕から手を離したが、言葉の攻撃は止まない。
「お姉様ったら……そんなに皮肉気におっしゃらなくてもいいのに。ねえ? 殿下?」
「……もう行こう、ローゼ。あまり長居していては……君の体に障るだろう」
「まあ、嬉しい。私の身を案じてくださるなんて……。お優しい殿下の花嫁になれて、私は幸せです」
頭上で繰り広げられる茶番を聞き流しながら、私はただただ耐え続けた。本当に、今にも吐いてしまいそうだ。
「……レイラ、また来る。早く良くなるよう祈っているよ」
いいえ、もう二度と来ないでください。
心の中で、届きはしないと分かっていてもそう叫んだ。
二人が退出したその後、結局私は苦労して摂取した栄養を全て戻してしまうことになったのだった。
最悪な茶番はそれにとどまらず、様子を見に来たお母様に「レイラの気持ちはわかるけれど、ローゼに当たるのは良くないわ」などと言われ、お父様にも「ローゼが泣いていたぞ。身重の体なんだ、気遣ってやってくれ」と追い打ちをかけられた私は3日ほど両親にもローゼにも会えないほどに体調を崩してしまった。いっそのことこのまま死んでしまいたいと思ったが、懸命に看病してくれるジェシカたちの手前そんな弱音を吐くことも出来ず、結局はリハビリを始めることになってしまったのだ。
沢山の量は食べられない私のために、栄養を効率的にとれるよう考えぬかれた料理と、お医者様の監督のもと、無理のない範囲で行われたリハビリによって、私の体は何とか歩き回れるようになるまでに回復した。とはいえ、人前に出られるほどしっかりしたわけではないので、こうしてお伽噺を読んで時間を潰す日々が続いている。
私は本を置いて、そっと額に触れた。前髪に隠れて見えないが、額には馬に蹴られた際に縫った線状の傷跡が残ってしまっている。それに、2年もの間の栄養不足がたたったのか、目覚めてから一か月たった今も月のものが来ない。未婚の貴族令嬢にとって、これらは致命的だった。
もちろん、王家にも近い由緒正しきアシュベリー公爵家の地位を目当てにする貴族子息は大勢いるだろう。ローゼが王家に嫁ぐ以上、公爵家の跡継ぎは私が婿を迎え入れるか、分家から養子をとるかの二択しかないのだから、私と結婚すれば、アシュベリー公爵家の爵位が手に入る可能性は高い。末席の貴族子息からすれば、喉から手が出るほど欲しい立場だろう。
実際、私の婚約者になりたいと申し出る子息は大勢いるらしい。中には不思議なことに侯爵家や、同格の公爵家からの申し出もあるようだが、所詮はアシュベリーの爵位を目当てにした打算的な申し出に過ぎないのだろう。
私が公爵家に出来ることはもう、婿を迎え入れることしかないのかもしれないが、どうしても気が進まなかった。それに、このまま貴族社会にいれば、嫌でもローゼと殿下の姿を見なければならない。このままでは、体は生きていてもいつか心は死んでしまう。
そこで、私が目を付けたのは修道院だった。
ルウェイン教の修道院は、「来る者拒まず」で有名だ。凶悪な犯罪者などは例外だが、それ以外は身分にかかわらず受け入れてくれる。実際、数代前の王女様が修道女になったこともあるくらいだ。加えて、ルウェイン一族への懺悔と彼らの安寧を祈るという特殊な立場にあるため、自らの意思で修道院に入った者は、自ら望んで出て行くまで、誰も修道院から連れ出せない決まりになっている。数代前の王女様が修道女になったとき、王家は必死になって修道院から連れ出そうとしたようだが、厳格な決まりの前には王家の力を以てしても敵わなかったのだ。
それは、今の私にとってまるで夢のような規則だった。ルウェイン教の修道院で、他の修道女たちと慎ましく祈りを捧げながら、慈善活動に精を出したり、大好きな刺繍の小物を作ってバザーで売ったりして生活するのだ。もちろん質素な暮らしに違いはないだろうけれど、このまま公爵家にいるよりはずっと楽に息ができるはずだ。
最も近い修道院は、王都の南側にある小高い丘のふもとにある修道院だ。かなり立派な建物で、観光名所にもなるくらいの綺麗な修道院だった。実際、私も殿下と共に訪れたことがあるので、修道院までの道は良く知っている。
そこまで考えて、ふ、とどこか自嘲気味な笑みを浮かべてしまった。
思いがけず殿下との思い出をまた一つ思い出してしまい、嫌になってしまう。いつまでも未練がましいのは良くないと分かっているのに。
ジェシカの淹れてくれた紅茶を飲み干しながら、私は一人決意した。
公爵家を出て行こう。修道院に入って、祈りを捧げる慎ましい暮らしをするのだ。命が助かったことを感謝して、ルウェイン一族とこの王国の安寧を祈ろう。
良く仕えてくれたジェシカたちとの別れは少々名残惜しいが、仕方がない。彼女たちならば、ローゼの付き人に加われるだろう。彼女たちの未来は何も心配いらない。
それから一週間して、屋敷中を歩き回れるほどに回復した私は、一人で庭を散歩したいと言って何とか一人きりの時間を作ることに成功した。
多少雲行きは怪しいが、こんなチャンスそうそう訪れない。今日はお母様がお茶会にお呼ばれしているから監視の目が緩いだけで、普段であれば絶対に一人になんてしてもらえないだろう。
私はこの日のために、お庭の生垣の中に小さな鞄と必要最低限の荷物を日々少しずつ隠していた。革張りの旅行鞄の中には、レース編みのかぎ針と刺繍針、刺繍糸、それからお気に入りの御伽噺や小説が数冊入っているだけだった。
宝石類を持ち込めば修道院のためになるのかもしれないが、自分勝手な行動のために公爵家の財産を持ち出すのは気が引ける。私の持ち物は領民が一生懸命働いて納めてくれた税金で買い与えられたものなのだから、公爵令嬢の義務を果たさない私が自由にしていいはずがない。
だからこそ、修道院で使えそうなかぎ針と刺繍針、子どもたちに読み聞かせられそうなお伽噺や物語だけに留めたのだ。俗世を捨てるのだからこのくらいでちょうどいい。
「……さようなら、お父様、お母様、ローゼ」
私は一度だけ広大な屋敷を振り返ると、裾に細やかな刺繍を施されたローブを羽織って庭から逃げ出すように歩き出した。
かなり体力は回復したとはいえ、まだ体重は標準に程遠い上、走ることも儘ならない。私は大勢の平民で賑わう街の中で息を切らせながら、焼き立てのパンの香りがするお店の壁に手をついて息を整えていた。
思えば、こうして一人で外に出ることは初めてだった。なるべく地味な服を選んできたけれど、質の良さは隠せないようで道行く人の視線を奪ってしまう。修道院に辿り着く前に公爵家の人間に見つかってしまったら大変だ。きっと、二度とチャンスは無くなってしまうだろう。
「お嬢さん、大丈夫かい……? 随分顔色が悪いよ」
小太りの親切そうな婦人が話しかけてくれる。服装からして平民だが、あまり素性を知られるわけにはいかない。
「ええ、大丈夫です。ご心配なく」
「……お嬢さん、貴族の家の娘さんだろう? 悪いことは言わないから家へ戻ったほうがいい」
「ち、違います。先を急いでいるので、失礼しますわ」
まだ多少息が苦しいが、これ以上追及されては敵わない。私はやせ細った体に鞭打って、ひたすらに修道院のある地区へと足を進めた。
ようやく修道院の傍にある小高い丘が見えてきたころ、ぱらぱらと雨が降り始めた。雲行きが怪しいとは思っていたが、やはり降られてしまった。小雨のせいで一気に人の減った街の広間を横切り、どこか薄暗い路地に入る。脳内に叩き込んである地図の上では、このルートが一番近いはずだ。私は外套のフードを深く被り直しながら、ひたすらに路地裏を歩き続ける。
雨は、次第に強くなっていく。気づいたころには三つ編みに編んだ亜麻色の髪から雨が滴っていた。急激に体温を奪われ、体が動かなくなっていくのが分かる。
まずい。ここで倒れるわけにはいかないのに。
修道院までは計算上、あと10分もすれば着くというのに、とうとう私はその場にへたり込んでしまった。幸か不幸か辺りに人はいないので、私に駆け寄る人はいない。
このままここで倒れ込んでいたら、回復しきっていないこの身体はきっとそう長くは持たないだろう。それはそれで悪くないわね、と思いながらも、体は必死に熱を得ようと震えている。
ああ、何て惨めなのかしら。2年前までは、未来の王太子妃として幸せに暮らしていたはずなのに。
さらに強まる雨音は、まるで私の命の灯を消しにかかっているようだった。天がそうしたいと言うならば好きにすればいい。大した信心もない私が行くのはきっと天国じゃないだろう。でも、それでもこの世界よりはマシなはずだ。
「死んだほうがマシなんて、ほんとは言いたくなかったわ……」
消え入りそうな声でぽつりと一人呟く。生きているのが楽しいと思えた2年前が恋しくてたまらない。
「それなら言わないでほしいな。雨に打たれてもこんなにも気高い君に、そんな弱音は吐いてほしくない」
へたり込んだ私の視界に、男性ものの黒い革靴が現れる。力を振り絞って見上げてみれば、そこには端整な笑みで微笑む青年の姿があった。太ももの辺りまである黒いコートには光沢があり、それなりに質の良いものだと分かる。
何より目を引いたのは、漆黒に近い艶のある髪に、夕闇を写しとったかのような紫紺の瞳だった。貴族には華やかな容姿をしている人も多く、今まで様々な色の髪や瞳を持つ人たちと出会ってきたが、このような色は初めて見る。何より青年の立ち振る舞い、ちょっとした仕草どれ一つをとってもただ者ではないことが分かった。きっと、どこかの貴族の子息だろう。
「……こんな姿になっても、私は気高く見えますか」
見ず知らずの相手だというのに、私は皮肉めいた笑みを浮かべながら尋ねてしまった。すると、青年は服が濡れるのも厭わずに地面に膝をつき、そっと私の前に手を差し出す。
「それはもう、他のどの魂よりも気高く美しいよ。……ここはあまりにも寒い。こちらにおいで」
魂だなんて、妙なことを言う青年だ。こうして間近で見ると、恐ろしいほど整った顔立ちをしているから、もしかすると人ではないのかもしれない。
「ふふ、あなたは死神なのかしらね。喜んでついていくわ……。地獄だって、この世界よりはいくらか良いでしょう……?」
私は目の前に差し出された黒手袋の手にそっと自分の手を重ねた。それと同時に視界が揺らいでいく。恐らくもう体が限界だったのだろう。強さを増す雨音をどこか遠くに感じながら、私は抗うこともなく静かに目を閉じた。
温かい。ふわふわとして、とてもいい気持ち。
ぼんやりとした意識の中で、そんなことを思った。
とてもいい香りがするわ。この香りはお花かしら。
まるで天国のようだと思いながら、徐々に意識が鮮明になっていく。自然と私は重い瞼を開けた。
「目が覚めた?」
聞いていてとても心地の良い声だ。ゆっくりと視線を超えの方へ向けると、あの雨の中で出会った青年の姿があった。今はコートを脱いでラフなシャツ姿だ。僅かに見える鎖骨が妙に色気があって、目覚めて早々妙にどぎまぎしてしまう。
「あの……私……」
体を起こそうとすると、青年はすぐさま手伝ってくれた。ふわふわとした良い香りのする白いベッドの上に私はいるらしい。一瞬、公爵家に連れ戻されたかと思ったが、どうやら違うようだ。
「丸一日眠っていたよ。華奢な体で、あまり無理をするものではないね」
とても穏やかな青年の声は、聞いていてとても安心した。青年は端整な顔で優し気に笑むと、じっと私を見据えた。左目の目元の黒子が色っぽくもあり、何だか可愛らしくもある。ああ、でも、恐らく年上であろう男性に可愛いなんて、失礼なことを思ってしまったかしら。
「助けてくださったんですね。あの……ありがとうございます」
「このくらい、なんてことないよ」
本来ならば名乗るべきだろうが、アシュベリー公爵家の娘だと知られたら連れ戻されるかもしれない。見たところ、室内は公爵家には及ばないが質の良い調度品ばかりであるし、それなりの位の貴族の屋敷だろうと推察する。もっとも、元王太子妃候補であった私は面が割れている可能性が高いので、もしかすると、この青年は既に私の正体に気づいているかもしれないが。
「あの……失礼ですが、ここは……?」
おずおずと尋ねれば、青年はにこりと微笑んで答えてくれた。
「ここは王都ルウェイン。……君たちが幻の王都と呼んでいる街だよ」
「幻の……王都……?」
状況が飲み込めない私を前にして、青年は再び微笑むと、一度だけ指を鳴らす。
次の瞬間には、白百合の花束が青年の手に握られていた。
「僕は、魔術師のリーンハルト・ルウェイン。レイラ嬢、僕はずっとあなたを捜していた」
リーンハルトと名乗った青年は、手に持っていた白百合の花束をそっと私に握らせる。なぜ私の名前を知っているのか、という疑問の前に、目の前で起こったあまりにもファンタジックな光景に言葉を失っていた。
だが、続くリーンハルト様の言葉に、私は失神しそうなほどの衝撃を受けることになる。
「レイラ嬢、どうか、僕の花嫁になっては頂けませんか」
リーンハルト様は溜息が出そうなほど端整に微笑むと、そう言って私の手を握った。
ここは幻の王都、悠久の昔から続く街。伝説に過ぎないと思っていた魔術師に、どうやら私は求婚されているらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます