傷心公爵令嬢レイラの逃避行

染井由乃

第1話

 馬に蹴られた。


 人の恋路を邪魔したわけでもないのに。



 そう、あれは本当に不幸な事故だった。神様に愛され、幻の魔術師たちを生んだ広大な王国アルタイルの公爵令嬢として生まれた私が遭遇するには、あまりにも不運な事故だ。


 あの日、雲一つなく晴れ渡った空を見て、婚約者のルイス王太子殿下が珍しく私をデートに誘ってくれた。行先は、王都で人気の植物園とか言っていたっけ。


 物心ついたころからの婚約者ではあるけれど、殿下からデートに誘われたことなんて数えるほどしかない。だからこそ、私は浮足立っていた。


普段はどれだけ着飾っても、美しい妹の足元にも及ばないから、と地味な格好ばかりしていたけれど、この日ばかりはいつもより少しだけお化粧に力を入れて、亜麻色の髪には去年の私の誕生日に殿下から贈られた最高級品を飾った。仕立てたばかりの淡いクリーム色のドレスに身を包んだ鏡の中の私の亜麻色の瞳には、隠し切れない喜びが浮かんでいた。


 いつも通り、時間ぴったりに殿下が迎えに来て、私たちは金で装飾された豪華絢爛な王家の馬車に乗り込もうとした。殿下は少し長めの月の光のような銀髪を風になびかせながら、相変わらず表情の読めない顔をしていて、でも、それでも私は嬉しくて。


 油断、していたのかもしれない。そう、もう少しだけ周りに注意していたら、防げたのかもしれない。


 薄い絹の手袋越しに感じる殿下の手の温もりが愛おしくて、私は繋がれた二人の手をじっと見つめていた。それはもう、何年も前から続く私の癖で、殿下は特に気に留めたりしない。


 それなのに、あの時だけは殿下は私を見ていたのだ。驚いたように、宝石のような綺麗な蒼色の瞳を見開いて。


「っレイラ!!」


 殿下が私の名を呼ぶのと時を同じくして、馬車に繋がれていたはずの馬の鳴き声がすぐ傍で聞こえた。

 

 振り返ったときにはもう、遅かった。王家の使用人が丹精込めて世話をしているであろう毛並みの良い白馬が、前足を大きく私に向かって振り上げる。そのすぐ背後には、必死で馬を宥めようとする御者の姿が見えた。


 ああ、馬のお腹って初めて見たわ。乗馬の御稽古があっても、私が乗るのはいつもおとなしい仔馬だったもの。


 場にそぐわぬ呑気なことを考えたのを最後に、私の記憶は途端に曖昧になる。酷く頭が痛んで、顔の周りに生温かい液体が付着していて不快だった。傍にいるはずの殿下や使用人の声も聞こえなくなって、ただただ怖かったんだっけ。


 あれから私はどうなったのかしら。殿下とそのままお出かけしたのかしら。思い出せない。折角殿下から誘っていただいたデートだったのに、何だか勿体ないことをしてしまったわ。次にお会いした時には、きちんと謝らなくちゃ。


 ぼんやりとした意識の中でそう決意して、私は何事もなかったかのように目を覚ました。







 体が鉛のように重い。目覚めて早々感じたことはただその一点に尽きた。瞼さえも、ちょっと開くだけで顔の筋肉がピリピリと痛む気がする。


 著名な画家が描いたという絵画が埋め込まれた天蓋付きのベッドは、間違いなく私のものだ。上手く体が動かせないことに戸惑いながらも、私はどうにか開いた目だけで辺りの様子を窺った。光沢のある薄い絹のカーテン越しに、メイドらしい人影が見える。ベッドの傍に置かれた小さなテーブルで何やら作業をしているようだ。


……あら、私、あんなところにサイドテーブルなんて置いていたかしら。


 声をかけてみようと思うけれど、どうしてか声が出ない。代わりに掠れたような呼気が喉の奥から絞り出された。


「さあ、お嬢様、本日も朝の御仕度をいたしますね」


 そう言いながら絹のカーテンを割り入って姿を現したのは、私付きのメイドのジェシカだった。幼い頃から私の傍にいてくれる、一番信頼しているメイドだ。だが、いつもジェシカは私が目覚めてベッドから降りるまで話しかけてきたりしないのに、今日は一体どうしたのだろう。


 聞きたかったけれど、やはり声は出ない。代わりに、とび色の目を見開いて私を見下ろすジェシカと目が合った。ジェシカが手に持っていたらしい、薔薇の模様が描かれたヘアブラシが音を立てて床に落ちる。彼女らしくない失態だ。


「……お嬢様!? レイラお嬢様……!! お目覚めになったのですか!?」


 普段はおしとやかな性格の彼女の声とは思えない大声に、軽く眉をしかめてしまった。不快だったわけではない。目覚めて早々の大きな音にびっくりしたのだ。


「ジェシカ、どうしたのよ。そんな大声出して」


 もう一人メイドがいたのか、部屋のどこからか女性の声がする。聞き慣れない声だった。


……おかしいわ、私付きのメイドの声ならすぐにわかるはずなのに。


 目の前のジェシカは酷く狼狽した様子で、しまいには涙を流し始めてしまった。


「お、お嬢様が……レイラお嬢様が……」


「お嬢様に何かあったの……?」


 途端に見知らぬ女性の声色に不安の色が混じる。絹のカーテンを乱して、見知らぬ女性がジェシカの隣に姿を現した。ジェシカと同じメイド服を着ている。


……こんなメイドが公爵家にいたかしら。妹の付き人というわけでもなさそうだわ。


 ぼんやりとそんなことを考えながら見知らぬメイドとジェシカを見上げていると、見知らぬメイドはジェシカの肩を掴んで揺さぶった。


「何をぼうっとしているの! ジェシカは旦那様と奥様にお伝えして!! 私は急いでお医者様に連絡するわ!!」


「え、ええ……!!」


 ジェシカは目尻に溜まった涙を拭って、ぎこちない微笑みを私に向けた。


「お嬢様、今、旦那様と奥様を呼んで参りますからね……! お待ちになっていてください!!」


 ただ目が醒めたというだけなのに、何と大仰なのだろう。状況がよく理解できていない私は、知らせを受けた両親が部屋に入ってくるまで、今日のティータイムのお茶はどの種類にしようかしら、などと呑気なことを考えていたのだった。


 





 背中にたくさんのクッションをあてがわれて、ようやく少しだけ体を起こせるようになった私の傍には、未だに幻を見るような目で私を見つめるお父様と、レースのハンカチを握りしめながら震えるお母様の姿があった。お父様の亜麻色の髪にはところどころ白いものが混じっており、それが余計に現実を突きつける。


「……つまり、私は2年間もの間眠っていたということですね」


 駆け付けた両親に告げられた現実は、あまりに予想外なものだった。あの日、馬に蹴られた私は頭を怪我して、そのまま2年間眠っていたというのだ。それを証明するように、私の手足はまるで棒のように細くなり、とても歩くことなど出来なかった。


「医者には目覚めることは無いかもしれないと言われていたんだ……。でも、本当に良かった……」


 本当に、良かったと思っているの。


 私はお父様の言葉を質すような目で、両親を見つめてしまった。もともと、私と両親の関係は淡泊なものだ。彼らは母によく似た妹のローゼが可愛くて仕方がないのだから。


「ええ、また声が聞けて嬉しいわ、レイラ……」


 その言葉と裏腹に、お母様の表情は暗い。大して愛されていないことは知っていたが、2年ぶりに目を覚ましたというのにこの態度は流石にきついものがあった。


「お父様とお母様には、ご迷惑をおかけいたしました。早く、元通りの生活を送れるよう精進いたします」


 私は精一杯の力を込めて両親に軽く頭を下げる。2年もの間を無為に過ごしてしまった代償は大きい。私と殿下の結婚式は、もう1年後に迫っていた。


「何とか結婚式までには、きちんと振舞えるように致しますので……」


 両親の懸念事項はその辺だろう。アシュベリー公爵家の令嬢として相応しい行動をとるように、と耳が痛くなるほど言い聞かせてきた人たちなのだから。


「レイラ、そのことなのだけれど……」


 珍しく、お母様が逡巡するように言葉を濁らせる。いつも毅然とした社交界の華であるお母様が、そんなにも狼狽えるところを始めて見た。


「……いい、私から話そう」


 お父様は俯くようにして黙り込んでしまったお母様に助け舟を出すように口を開いた。姿勢を正して深呼吸をしたお父様の姿に、思わず私も身構える。一体何を言い出すつもりなのだろう。


「レイラ、よく聞きなさい」


 お父様の亜麻色の瞳に映る私の姿は、酷く情けない顔をしていた。こんな姿、殿下の婚約者として笑われてしまう。


「――王太子殿下とは、ローゼが結婚することになったんだ」


 しばらくの間、お父様が何を仰っているのか分からなかった。重苦しい沈黙が、私の部屋を支配する。


 殿下、と、ローゼが結婚?


お父様は一体、何を、何を仰っているの?


 婚約者は、私のはずなのに。他でもない、この私、レイラ・アシュベリーのはずなのに。


「……笑えない冗談ですわ、お父様」


 苦笑いするように口元を歪ませて、私はお父様を見つめる。その視線に耐えられなかったのか、遂にはお父様までお母様と同じように俯いてしまった。


「すまない、レイラ。……もう、お前は目覚めないかもしれないと言われて……それでも、王家はどうしても我が公爵家との婚姻を望まれたのだ。だから、代わりにローゼを殿下の婚約者に……」


 ぽたり、と大粒の涙が手の甲に落ちた。2年間眠っていた体でも、涙を流すことは出来るのね、と場にそぐわぬ感想を抱いてしまう。


 ああ、馬鹿みたいだわ、私。


 物心ついたころから、未来の王太子妃として行く行くは王妃としての教養を、血の滲む思いで身に着けてきたのに。読んでみたい小説よりも、この国の歴史を、地理を、経済を、友好国の言葉を学んできたのに。踵の皮が剥けるまで、完璧なダンスを踊れるように努力してきたのに。地味な顔立ちを笑われないくらいには、肌を整えて髪に艶を出して、人の何倍も注意を払ってきたのに。


 王太子殿下が時折見せた、甘い笑みと蒼色の瞳を思い出す。例え一番に愛されなかったとしても、傍にいられるだけで幸せだと思っていた。


 それすらも、もう叶わない。全部全部無駄だった。


「……一応伺いますけれど、私が目覚めたことで、ローゼと殿下の婚姻は撤回されることはないのでしょうか」

 

 駄目もとで尋ねると、お父様が軽く顔を上げて言葉を絞り出す。やけに視線が泳いでいた。


「……状況が状況でなければ、その可能性もあったかもしれないが……」


 やけに言葉を濁すお父様に、私は生まれて初めて苛立ちを覚えた。今更ことを曖昧にして、私が救われるとでも思っているのだろうか。思わずシーツを握りしめて、語気を強めて言い放つ。


「どうぞ、はっきり仰ってくださいな! 一度傷を負った令嬢は、もう神聖な王家には嫁げないとでもいうのでしょう……? そうですわね、王家にとっても私などより美しいローゼの方がどんなにいいかわかりませんね」


 言葉を荒げる私に、両親は目を見開いていた。無理もない。私が大きな声を出したことなど、少なくとも物心がついてからは一度も無いのだから。いつだって私は両親の求める令嬢らしい振舞をしてきた。一度だってそれを崩したことは無かった。妹は、あんなにも自由に毎日を過ごしていたのに。


「違うわ、レイラ! 違うのよ……」


 お母様は声を張り上げて私を制した。その澄み切った青空のような美しい瞳に、涙が浮かぶ。いつだって毅然としている美しい貴婦人の模範のようなお母様が泣くところなど、生まれて初めて見た。


「っ……ローゼのお腹には殿下の御子がいるのよ……」


 お母様は手に持っていたハンカチを目に押し当てて、震える声でそう告げた。


 ローゼのお腹に、殿下の御子が?


「……それで、結婚式が早まるのよ。お腹を目立たせないために、二月と少し後には挙式をすることになっていて……」


 それだけ言って、お母様は再び俯いてしまった。お父様も同様だ。私は最早何が何だか分からなくなって、ただ、言わねばならぬ言葉だけが口から零れ出ていた。


「……そう、ですか。本当に、おめでたいことです……」


 本来ならば神に誓いあった仲になる前に子供を授かるというのは、あまり歓迎された話ではない。けれども、相手が王家の人間となれば話は別だ。誰が王家に新しい命が誕生するのを悪く言えるだろう。


 ああ、本当に馬鹿みたいだわ。


 自然と私の口元には自嘲気味な笑みが浮かんだ。殿下とは私が9歳の時に婚約してから7年という長い月日があったにもかかわらず、口付け一つしたことが無いのに、婚約して2年にも満たないローゼは、殿下の御子を授かることが出来るなんて。


 私もローゼのように白金の髪で、澄み切った青空の瞳をしていれば愛されたのかしら。ローゼのように華やかに笑って、多少奔放に見えるくらいの振る舞いをした方が可愛げがあったかしら。


 ローゼのお腹に殿下の御子がいる、たったそれだけの事実が私の人生を、いや、存在そのものを全否定するようだった


「……こんなことなら、目覚めない方がどんなに良かったか分かりませんね」


 再びぽたり、と涙を流しどこか茫然として私は呟いた。不思議と口元は自嘲気味に笑んだままだ。


「レイラ、滅多なことは言うものじゃない。お父様もお母様も、お前が目覚めてくれてどんなにほっとしているか……」


 なぜか泣き崩れるお母さまを気遣いながらも、お父様は眉尻を下げて私を見つめてくる。


「どうぞ、お気遣いなく。私が目覚めない方が、外聞もよろしかったでしょうに。本当に申し訳ないことをいたしました。アシュベリー公爵家の令嬢として失格ですわね」


「レイラ!」


「どうぞ、お引き取りを。気分が優れませんので休ませていただきますわ」


「レイラ……ごめんなさい、お母様があなたは目覚めると信じていれば……」


「ふふふ……お母様にとっては私が目覚めない方が良かったでしょうに。もっとも、結果としてお母様の溺愛するローゼが王太子妃になれるのだから、これはこれでよかったのかもしれませんけれど」


「レイラ! 何てことをお母様に言うんだ。お母様はお前もローゼも平等に愛しているんだぞ。もちろん、お父様もだ」


 お父様はお母様の肩を抱いて、必死にお母様を庇っていた。もう、いい。どうでもいいから、早く出て行ってほしい。


「子どもでも分かる嘘をつくくらいでしたら、何も言わない方がマシですわ。どうぞ、出て行ってくださいませ。お二人が出て行かれないのならば、私が出て行くまでです」


 私は痛む体を無理やり起こしてベッドから足を降ろす。自分で見ていても吐き気がするくらい醜くやせ細った足が露わになった。部屋の隅で控えていたジェシカを始めとするメイドたちから悲鳴が上がる。


「お嬢様!!」


「レイラ! やめてくれ! そんなことしたらお前の体に障るだろう! すぐに出て行くから、大人しくしているんだ」


 お父様は泣きじゃくるお母様を抱え込むようにして立ち上がると、足早に重厚なドアの方へと向かう。


「……また来る。ちゃんと食事を摂るんだぞ」


 わざわざ退室間際に心配そうな素振りなど見せなくてもいいのに。いっそわざとらしいその姿に、一層笑みが止まらなくなる。


「お嬢様、ああ、レイラお嬢様……何てご無理をなさるのです」


 ジェシカがすかさず私の許へと歩み寄り、私の体をベッドに沈めた。横になると、涙がこめかみを伝って流れていく。涙を拭うために手を持ち上げるのも精一杯な自分が情けなくて、余計に涙が溢れた。


「いいのよ、ジェシカ……。もう放っておいて」


 なんて馬鹿げた人生なのかしら。


 改めてそんな想いが胸を占める。いっそ、死んでしまえたならよかった。いや、今からでも遅くないから、このまま眠るように死んでしまいたい。


 そんな淡い願いを抱きながら、私は静かに目を閉じたのだった。

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