第3話



    3



「お、きたきた。遅いよイサキ」


「ごめんごめん」


「ま、いつもは逆の立場だから何か言えた立場じゃないけどさ。行こうか」


 わたしはうなずいて菜依の後を追う。辺りはザワザワと人の声でごった返していた。


「ナエ、今日はありがとね」


「いいって別に。それにイサキのためとあっちゃ、家でゴロゴロしていられないから」


 菜依は振り向くと、わたしに笑顔を寄越した。わたしも笑顔でそれに応えると、彼女は進行方向に視線を戻して階段を上がっていく。


「それにしても人多いね。さすがって感じ?」


 菜依の声からは疲れが感じられる。本当に疲労が溜まっているわけではなく、人込みの中を歩くのに苦労しているからだ。かく言うわたしも身を縮めて歩を運んでいる。


 今日は大七夕祭りの一週間前にあたる、「お迎え」の日だ。神社に織姫と彦星を迎えるための日で、これも三十年に一度と限定的な行事である。そのため足を運ぶ参拝客は本祭に次いで多く、まだ神社は先だというのに既に多くの人が緩やかな坂を窮屈そうに歩いていた。


 このざわめきが境内に入ったらどれほど倍増するのだろうかと今から不安になっていたわたしは、菜依の後ろ姿を見てそうは言っていられないなと思う。


 昨日、わたしは夜遅くに菜依の携帯に電話を入れた。すぐに電話に出た菜依に、やっぱり明日神社に行こうと思う、と打ち明けると、彼女は、それなら自分も行く、と言ってくれた。


 知っての通り、菜依には彼氏がいる。本祭から一週間前のお迎えの日ではあるが、その珍しい行事に二人で出掛けることはないのだろうか。わたしが疑問に思って訊いてみるが、彼女は逆に、わたしの質問に疑問符で答えた。


「ナエ。ほんとによかったの?」


 わたしは前を行く菜依の耳に聞こえるボリュームで声をかけた。


「何が?」菜依もいつもより声を張って返事する。


「跡見くんのこと。一緒に来た方がよかったんじゃないの?」


「イサキはまーたその話? 昨日も言ったけどさ、ほんとに大丈夫だって」


「けど三十年に一度だよ?」


「イサキのこともでしょうが」


 声を張っているせいもあり、少しだけ怒っているように聞こえ、わたしは菜依の言葉を最後に黙った。


 彼女が昨日わたしに言った主張はこうだった。「自分たちはもう恋が実ったのだからまだ片思いだとか闘っている他の人たちにチャンスをあげたい。カップルで縁結びの神様に何をお願いするのさ」というものだった。その考えは菜依の彼氏も同じだったようで、二人は大七夕祭りの開催期間中、メールや電話以外の連絡は一切禁じることに決めたそうだ。思いが強いというより、ここまでくると二人の異常性が気になってきてしまう。


 しかしわたしは菜依の言葉に甘え、今こうして一緒に参拝に来てもらっている。菜依を見るとちょうど電灯の光が彼女の髪にきらりと反射したところだった。


 神社に近づいてくると人の量も多くなった。ここまで来ると参拝を終えた人たち

の姿もちらほらと目に入る。わたしの視線は自然に前方に向き、月の光で赤黒く見える鳥居をとらえた。相変わらず大きな鳥居だと思うと少しだけ恐怖心が湧いてくる。それは奥に見える杉林のせいでもあるかもしれなかった。


 鳥居の下に来ると、わたしたちは一旦横並びになった。この方がどちらかが逸れてしまう可能性が低くなると思ったからだ。わたしと菜依は境内に続く階段を登り始めて少し経って内容のない話をどちらからともなく話し始めた。その話の中には、わたしが今日この神社に参拝に来た理由についてのこともあったが、周りの参拝客の声に押し潰されてあまり話したという気分にはならなかった。


 階段を上り切ると、通常の七夕祭りの二倍くらい多くの屋台が軒を連ね、中には占いや似顔絵を描いてもらう屋台までもあった。


 食べ物の屋台を見ていると先に進めなくなってしまいそうな気がして、わたしたちは早足で拝殿の方に向かった。


「お参り終わったら笹の木に行くからね。本命はそっちなんだから」


 菜依はちらっとわたしの方を向いて言った。


 本命というのは大七夕祭りの伝説のことだ。今日短冊に書いた願い事を本祭が始まるまでに夢に見ることができれば、その願いが叶う。不確かなことなのは言わなくともわかるけど、菜依はやれることはやってみた方がいいと言う。なんとなく面白がってる節があるのは、わたしの気のせいではないと思う。


 わたしは鞄に入れて持ってきたあの日記帳を意識した。


 参拝客の流れに身を任せていると、思いのほか簡単に拝殿まで来ることができた。人込みをかき分けて、わたしたちはお賽銭箱のすぐ手前まで入り込む。ご縁があるように五円玉をお賽銭箱に入れると、格子に一度跳ねて奥へと消えていった。手を合わせてお祈りをする。なんとなく連動さんのことをお祈りすることが憚られて、わたしは菜依の健康を願った。


 さ、いくよ、という菜依の声に誘われてわたしたちは笹の木があるところまで歩いていった。


「しっかりお願いした?」


「え、うん。もちろんだよ」


「ならいいけど。なんだかイサキってば、他のことを願っててそうだったからさ」


 わたしは薄く笑みを作った。図星をつかれたことを悟られないように、何か他のことに気を引こうとキョロキョロとしていると、視線の奥の授与所のところに佇む、女の人に目を奪われた。制服は着ていないがその女の人が連藤さんであることはすぐにわかった。


 連藤さんの姿を見つけて足が止まってしまっていたようで、先を歩いていた菜依が、イサキ? と名前を呼んで、わたしの視線を追った。


 しまった、と思った時には遅く、わたしが何を見ていたのか気がついた菜依は、不敵な笑みをその端整な目顔に浮かべ、連藤さんの方に歩き出した。


「ちょ、ちょっとナエ? 何する気?」


 わたしの制止の声は人だかりに消え、わたしはいつの間にか連藤さんのすぐ近く

まで来てしまっていた。


「こんばんは、連藤さん」


 菜依は笑顔で挨拶をした。


 まさか自分が誰かに声をかけられるとは思っていなかったのか、連藤さんがわたしたちを確認すると、ワンテンポ遅れて頭を下げてきた。咄嗟にわたしも頭を下げる。顔が熱く、紅潮しているのが自分でもわかった。


「連藤さんもお参りに来てたんですね」


「あ、うん」


 急に菜依に話しかけられ、若干引き気味の連藤さんを尻目に、菜依は構わずに話を続ける。


「お守りですか?」


 菜依はそう言うと、連藤さんが手に持っている紙袋を見た。わたしはドキドキしながら、菜依の視線を追って見た。確かに連藤さんの細くて綺麗な指の中に、紙袋が大事そうに入っていた。


「うん。ちょっとね」


「イサキも買った方がいいかもね」


「え、わたしは別に」


 突然こちらに振られ、わたしはあわててしまった。連藤さんからの視線が気になると、なんだか身体の動きが鈍くなるような気がしてしまう。


 そんなわたしに構うことなく、菜依は連藤さんに向き直った。彼女の表情からいたずらっ子のような危うさが見え隠れしている。


「連藤さんにお願いしたいことがあるんですけど、これからちょっと用事があってイサキについて回れないんです。この子お守りも欲しいって言うし、笹の木に行きたいって言うし。ひとりじゃ危ないんで、連藤さんについててもらえば安心できるなー、って思ってるんですけど?」


「ちょっと、ナエ!」


 わたしは咄嗟に菜依の手を引いたが、彼女の身体はピクリとも動かず、振り返った彼女の双眸は真っ直ぐわたしを見つめていた。逃げることを許さない、そんな瞳に、わたしはそれ以上何もすることができなくなった。


「ダメですか?」


 菜依はわたしから視線を反らして連藤さんの方に向けた。


 わたしは怖くて地面を見つめていた。もし断られでもしたら、ここでわたしの想いは途絶えてしまう。緊張と焦りがごっちゃになって、このまま松明の光に吸い込まれて逃げてしまいたい気持ちになったけれど、さっき菜依の腕を掴んだ拍子に掴み返され、身動きがとれなかった。


「そういうことならいいよ」


 わたしはその声に固まってしまった。言った菜依さえ驚いているようだった。


「実は私ひとりで来てたんだけど、ちょっと怖いなって思っててね。菊裳さんの用事で田井中さんがひとりになっちゃうなら危ないしね」


 連藤さんは笑顔でそう言うと、手に持っていた紙袋を鞄の中にしまった。


 虚を突かれていた菜依も我に返ったのか、掴んでいたわたしの手を放し、そのままわたしの背中を軽くトントンと叩いた。


「それじゃお願いします。頑張りな、イサキ」


 最後は小声で言った菜依はわたしにウインクしてから、さっさとその場から離れていってしまった。


 その場に取り残されたわたしは、突然の居心地の悪さを紛らわすために手櫛で後ろ髪を梳いた。連藤さんを見ると彼女もなんとなく落ち着かないのか、前髪を手で払っていた。


 わたしの視線に気がついた連藤さんは苦笑いするように眉尻を下げた。


「初めて菊裳さんと話したけど、なんだか忙しないひとね」


「すみません、ご迷惑おかけして」わたしはあわてて謝ってしまった。


 連藤さんは自分の顔の前で手を振ると、

「いやいや、謝ることじゃないよ。田井中さんとも話すことあまりないからとっても新鮮。話しかけられた時は少し驚いたけどね」と朗らかな笑顔で言った。


 連藤さんの笑顔に、わたしはほっと安堵した。突然の提案でも受け入れてくれる

連藤さんの心の広さは本物だ。わたしの目に狂いはなかった。


「それじゃあ行こうか。お守りと、笹の木ね? 先にお守りだよね」


「はい、それでいいです。あ、けど、連藤さんは近くで待っていてくれればいいので」


「そう?」


 連藤さんは小首をかしげると、もう一度わたしを促して先を歩き始めた。わたしはそのあとを親子連れの子どものようについていく。歩くたびに左右に揺れる連藤さんの綺麗な髪が、参道脇にある松明の光に当てられて赤黒く煌いた。じっと見ていると吸い込まれてしまいそうで、わたしは時折他の場所に目を移した。


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