第2話



    2



 わたしは家に着くなり自室からバスタオルと部屋着を持って風呂に向かった。シャワーで軽く汗を流した後、部屋着に着替え、母の夕飯を知らせる声が聞こえるまでのあいだエアコンの効いた自室で身体を休めた。


 夕食を済ませた後、わたしは勉強机に向かった。今日の授業の復習をしようかと思っていたが、わたしの興味は机の、下から二段目の引き出しに向いていた。


 引き出しを開けると小学生、中学生の頃に使っていたノートやファイルが入っており、その一番上には青色のカバーに身を包む日記帳が無造作に置いてある。わたしはそれを手に取り、とあるページを開いた。


 小学生の頃に使っていた日記帳だけあって、始めの数日くらいしか文字は書かれていないが、中間あたりのこのページには一言、「七夕」と書いてある。そこには白色の短冊が挟まっていて、表面にはお世辞にも上手いとは言えない字と、左下にこれを書いた人物の名前らしき「れ  な」という文字がうっすらと書かれている。


 わたしは日記帳から短冊を取り出して、机の上に置いて見つめた。


 わたしは、この短冊が誰のもので、どういった経緯で自分が持つことになったのか記憶にない。中学三年生になってようやく気がついたため、それまでこの短冊が引き出しにしまわれていたことすら忘れていた。そして、「れな」という名前にも憶えがなかった。


 七夕という単語から、わたしは大七夕祭りに関係があるのかと思い、以前母に訊いてみたことがある。


 大七夕祭りは三十年に一度の開催になってはいるが、その他の年に祭りを行っていないわけではない。毎年七月の一週目の金曜から日曜の三日間ではあるが、小さな七夕祭りは催されている。ほとんどの参拝客が地元の人間だったりと、それほど賑わいもみせず、密かに始まり密かに終わりを迎える。


 わたしがまだ小学校に上がる前かまだ物心のつかない頃、母はわたしを連れて七夕祭りに行った。そこで知り合いとその子どもと偶然に会い、親同士が昔話で盛り上がっている最中、いつの間にかわたしとその子が仲良くなっていて驚いた、子どもの力ってすごいのね、とわざわざ感想まで交えて話してくれた。昔話もそこそこ、わたしは持っていた短冊を母に見せ覚えがないかと訊くが、母はすぐに頭を振って、そこまでは知らないわ、と家事に戻ってしまった。


 おそらくその時に貰った可能性が高かったが、名前を聞いても「れな」という言

葉は母の口から聞くことはできなかった。


 その後も、同い年くらいの女の子で「れな」という名前の人物が近くにいないか探してみたものの、わたしが探せる範囲にはこの条件に合う人物は一人も見つけることはできなかった。


 わたしは短冊を手に持ち、顔の目の前でじっくりと眺めた。


「ほんと誰だろ。こんないい言葉貰ってるんだから、しっかり憶えときなさいよ、わたし」


 呟いて、短冊を指定の位置へと戻す。


 大仰にため息を吐いたわたしは、机に頬杖をついて何も映さない正面の壁に目を止める。惚けていると、今日の昼に菜依から言われた言葉を思い出す。


 彼女は、正直に気持ちをぶつける方がいいと言っていた。わたしだってその方がいいと思う。けれど、そしたらこの短冊を書いた主のことはどうすればいいのだろうか。


 わたしは同姓が好き。そしてこの短冊を書いた主の名前から推測するに、その人も女子のはず。それと短冊に書かれたあの言葉。たとえ昔の出来事であったとしても、今の気持ちをお互いに認め合わないと相手に悪い気がする。しっかり解決しなくては前に進むこともできない。


 わたしの憧れのあの人、連藤直れんどうなおさん。目を瞑るとその人の後ろ姿がおぼろげに浮かんでくる。すらっと線の細い手足に、清楚さを存分に強調させる艶やかな黒い髪。姿勢を正して歩く姿はまさに百合の花という譬えがふさわしい。男子は疎か、女子までも魅了するその人の佇まいに、いつしかわたしの心は奪われていた。



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