第1話



     1



 こんな暑い日に日向で風にあたっても無駄だ。直射日光に焼かれて、避けようのない温風が身体にぶつかりへばりついて過ぎ去っていく。薄く肌に滲む汗が一瞬だけ冷やされるものの、それでは心許ない。暑さが倍になって帰ってくるだけならば、無風の方が幾分マシだ。わたし、田井中綾咲たいなかいさきはそう思う。


 うっとうしい梅雨の時期も終わりを迎え、七月になった途端に異常なほどに力を強めた高気圧が日本列島の上空を覆い、一足飛びに真夏日がやってきた。向暑の候とはどこへいってしまったのやら。ここのところ異常気象のニュースは尽きないが、ここまでくるとニュースを見ずとも地球温暖化が着々と進んでいることがわかる。


 わたしは身体に張り付いたセーラー服をはがすため、襟を指でつまんで、空を見上げた。遥か向こうの青に浮かぶ真っ白な入道雲が、わたしを嘲笑っていた。


「あづ~い……」


 今にも倒れそうな声が右隣から聞こえ、わたしは目だけでそちらを見た。


 明らかに重そうな足取りに、紺のハイソックスをくるぶしまで下げたこの女子の名前は菊裳菜依きくもなえという。


 彼女とは小学生の頃からの腐れ縁で、こうして高校まで同じところに通っている。彼女はわたしのことを理解し、わたしも彼女のことを理解している。大親友といっても過言ではないだろう。赤い糸で繋がっている、っていうのはきっとこういう関係に使うのが理想的なのではないだろうかとよく思う。


「少しは我慢しなよ。はしたないよ」


「だってー、暑いんだもん」


「みんな一緒。ほら、ちゃんと歩いて」


 わたしが菜依の肩を、ポン、と叩くと、彼女は「うー」と唸りながら、力なく、二、三歩前に進み出た。どうやら立っていられるだけの筋肉は働いているが、他は

脱力してしまっているようだ。


 わたしは呆れて小さく息を吐くと、照り付ける太陽を一瞥してから言った。


「しかたない。どっか寄ってこ。わたしも休憩したいから」


「おお、イサキがいつにも増して優しい。これは一雨来るな」


「一雨くらいなら大歓迎よ」


 顎を擦って天を仰ぐ菜依を横目に、わたしたちは路地を右に曲がった。


 少し奥の方を見ると、一角に人集りができている。重い色の軒下には、夏の熱さ

を感じさせる赤色の達筆で、「氷」と書かれた旗が温風に翻っていた。


「うげ、多い……」


「それはそうでしょ。こんな暑い日はかき氷って昔から決まってるんだから」


 はて、本当に昔から決まっていただろうか、とわたしは自分で言っておきながら

疑問に思いつつ、その足は確実にかき氷屋を目指していた。



 十分弱列に並び、わたしたちはようやくかき氷を手にすることができた。わたしはレモン味で、菜依はブルーハワイ。注文する時に菜依がブルーハワイって何味?

 と独り言みたいに訊いてきたけど、わたしはそれを無視した。


 かき氷屋の休憩室で食べようと思っていたのだけど、あまりにも人が多く、少し離れた場所にある小さな公園にわたしたちは向かった。


 公園をぐるりと囲うサツキはほとんど花を終え、強い陽光に照らされる緑は心なしか元気なく見える。サツキのすぐ目の前に設けられた木製のベンチに座り、スプーンストローの先を何度か氷に突き刺し崩しては食べ始めた。


「っつ~」


 横から呻き声がして、わたしは呆れ顔で菜依を見据えた。


「そんな急いで食べるから」


「だってー」


 彼女はかき氷を持っていない方の手で頭を押さえつつ、不貞腐れたように唇をとがらせた。


「そういえばさ大七夕祭り、もうじきだね」


 菜依はスプーンストローを咥えて言った。


 そういえばそうだ、とわたしは思う。


 大七夕祭りとはわたしたちの地域でとても有名な大きな祭りだ。地元では秋祭りも行われるのだが、その規模を優に超える。大七夕祭りは県外からも人が押し寄せるほどに大規模で、七月一日から七月八日まで地元の人から七夕さんと呼ばれる彌漆いやしち神社で催される。


 それほど大規模になる一番の理由としては、この祭りが三十年に一度という長い期間を空けて催されるためである。


 何故それほど期間を開けるのかは諸説あるようで、これだという理由は地元の年寄りでもわからないらしい。戦争で神社が焼け焦げ、修復されたその日がちょうど神社が初めて建てられた日から三十年経った日だった、というものが一番よく知られている。


 由緒ある神社だから大勢の人が足を運ぶ、というわけでもないようで、三十年に一度という珍しさに加え、七夕らしい神様が祀られていることが何よりも人を集めるようだ。


 織姫と彦星に由来する縁結びの神様が祀られているそうで、恋愛成就のお守りを肌身離さず持っておくことで、嘘か真か、その恋が百パーセントみのる、らしい。わたしの隣にいる菜依は、実は彼氏がいる。仲が良いのか悪いのか、うまくいっているのかよく知らないが、なんでも七夕さんのお守りで巡り合うことができたんだ、とその当時は嬉しそうに話してくれたのを憶えている。あながち嘘ではないのかもしれない。


 そしてもう一つ、大七夕祭りで忘れてはいけないものがある。


 それは、地元にのみある伝説で、他県から、または他の町からくる参拝客でも知る人ぞ知るといったふうな、


「本祭の一週間前に書いた願い事と同じ内容の夢を見ることができると、その夢が絶対に叶う」と我が物顔の菜依は、人差し指を天に向かってピンと立てた。


「ほんとにそんなことあるのかな」


「さあ。でも、火のない所に煙は立たないって言うし、何か由来はあるんじゃない

――っつ~」


 菜依はわたしのことを適当にあしらうと、再びかき氷の冷たさに頭を痛めて足をバタバタとさせた。能天気なやつめ。


 わたしはというと、かき氷を定期的に口に運びつつ、大空を流れる雲を眺めていた。木陰になったこの場所に風が通ると、日向とは打って変わって冷たい空気が体温を下げてくれる。かき氷との相乗効果も相まって、逆にひんやりとし過ぎてぼうっとかき氷の味に舌鼓していると、時の流れがゆっくりになる気がする。涼風だけが静かに梢を揺すっては消えていった。


「イサキは七夕さん行くでしょ?」


「え、なんで?」


「なんでって、神頼みしないと叶いそうにない望みじゃない? 好きな人、同姓な

んだし」


 菜依にそう言われて、わたしはかき氷を食べる手が止めた。どこで誰が聞いてい

るかわからないし、外ではあまりその話をしないでと断っておいたのにも関わらず、菜依は何の気なしといった感じで平然とそのことを口に出す。


 わたしはわかりやすく眉間に皺を寄せ、菜依をジロリと睨む。彼女は涼しい顔をしたまま、かき氷を口に運んでいた。


「それ言わないって約束でしょ……」


「え? 周りに人もいないんだし大丈夫でしょ」


 菜依は軽い口調でそう言った。


「人がいなければ言っていいってわけじゃないの」


「もお。イサキは神経質だな~。それじゃあ恋愛もうまくいかないよ? もっとおおらかに、赤の他人をも包み込む気持ちでいないと」


「余計なお世話よ」


 かき氷の入ったカップをベンチの脇に置き、大袈裟に両腕を広げ心の広さをジェスチャーする菜依を見ていると少しだけ憎らしく思うのだけど、すぐにその気持ちは消え去った。正面からぶつかったとしても彼女に与えられるダメージは大したものにならないことを知っていたからだ。


「で? 行くの?」


「行かないわよ。そんな神様に願ってまで成就してほしいわけでもないし。人込み

苦手だし。それに……、同性同士の恋愛なんて漫画の中だけの話よ。現実にそんな

ことがあったらきっと気持ちを受ける側は迷惑でしかないわ」


「そうかな? 自分の気持ちに嘘つく方がよっぽど漫画の世界に思えるけど。正直にその気持ちとぶつかった方が現実的じゃない?」


 個人的な意見だけどね、と菜依は言い終えると、かき氷の入ったカップを手に取り、サクサクと気持ちのいい音を鳴らせてかき氷を再び口に運ぶ。


 わたしは菜依から視線を外して、膝の上のかき氷を見下ろした。カップの半分以下になってしまったかき氷が少しずつ溶け、レモン色のシロップと混ざり合っている。うっすらとシロップの水面に映るわたしの顔はいかにも冴えない表情を作っていた。


 菜依の発言は軽口に思えて意外に深い話を平然とすることがよくある。これまでにもそんな経験が何度かあった。そして、どんな時でも菜依の言葉は、わたしの心に強く突き刺さる。他人の心を見透かす術を持っているんじゃないか、とそんな考えが彼女を見ていると勝手に浮かんできてしまう。今度はどう菜依の言葉に向き合えばいいのだろう。意志の弱いわたしは思い悩んでしまう。


 コン、という音に、わたしの意識が現実に戻る。菜依が食べ終えたかき氷のカップをベンチに置いたようだ。


「はー、生き返ったー」


 菜依はそう言って伸びをした。彼女のほっそりとしたくびれがわずかに露になる。ストン、とセーラー服の裾が落ちるまでわたしはその光景から目を離せないでいた。


 わたしの視線に気がついたのか、菜依はこちらを一瞥すると背もたれに身体を預けて空を見た。目を瞑るとゆっくりと口を開く。


「まあさ、偉そうに言ったけど決めるのは本人なんだからさ、イサキが自由に決めればいいと思うよ。ただ最近のイサキ見てるとすごく思い詰めてるように感じちゃってね。ほら、イサキって方向音痴でしょ? また迷子になったら大変じゃない」


 よいしょっ、と言って菜依はベンチから腰を上げた。彼女の後ろ髪がそよ風にふわりと揺れる。はしたなくソックスを下ろしているけど、彼氏がいるだけあって身なりに気を使っているのか、彼女の後ろ姿は端麗だ。


 わたしは、菜依に「行くよ」と声をかけられるまで、その光景を恍惚として見入っていた。


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