第18話 望むこと、願うこと

 いつからだろう、こんなにオーブエル殿下のことを大切に思うようになったのは。

 ……自分でもよくわからない。

 ただずっと、最初に言葉を交わしたときから、オーブエル殿下が優しかったのを憶えている。

 望めば何だって手に入る地位にいるのに、たかが本の話をする人ができただけで、子供のように喜んだのを憶えている。

 普段は一人でいることが当然のように扉の向こうで過ごされるのに、誰かといるときは他者を気遣い尊重する、その姿勢を憶えている。

 深い青の瞳が柔らかく細められるのを、薄桃色の唇が緩やかに弧を描くのを、夜空のような髪が小さく揺れるのを、白い指が楽しそうに本の頁を捲るのを、殿下を取り巻く空気が静かに流れていくのを、憶えているから、知っているから、だから。

「幸せであってほしいんです……幸せそうな姿を、守ってあげたいんです」

 たとえそれが、箱庭の中の欠けた幸福だとしても。

 心の表面しか満たされない、不完全な喜びだとしても。

 今の私は、殿下の過去も、心の傷も、閉じこもった理由も何も知らないから、どうすれば殿下が心の底から幸せになってくれるのか、わからないんだもの。

 私にできるのは、私の知る殿下の幸福を、笑顔を、守ることぐらい。

 もし私が殿下の幸福を邪魔しているのなら、目の前から消えるくらい。


「ダイアスタ嬢、貴女がオーブエル殿下の近衛になってから、オーブエル殿下にしてもらって一番嬉しかったことは何ですか?」

 私の手を両手でぎゅっと握りながら、リリアーヌ様が静かに問う。

 ぐちゃぐちゃな頭の中で、私は問われたことを必死に考えた。

「……本、でしょうか。オーブエル殿下に、読むと元気が出るからと、本を一冊いただきました」

 優しさを、気遣いを、形にしてもらえたことはとても嬉しかった。

 そばにあるだけで、いつでもそこに殿下の心があるような気がした。

 ぼそぼそと答えた私に、リリアーヌ様は花のようにふわりとした笑顔を湛える。

「人は嫌っていたり、どうでもよかったり、自分を傷つけるような相手にそこまで優しくできるものではありませんよ。貴女がオーブエル殿下からそこまで優しさをもらえるのは、貴女がオーブエル殿下にとって、そうしたいと思えるほど大切な相手だからなのではありませんか? 少なくとも、貴女の存在がオーブエル殿下を傷つけている、なんてことはないと思いますわよ」

「リリアーヌ様……」

 こんなに親身になってくれるなんて……。私はリリアーヌ様を誤解していたのかもしれない。

 少し軽くなった心で笑顔をつくり、お礼を言おうと口を開いた瞬間――

「ほら、アルベール殿下もダイアスタ嬢に対して何もしなかったでしょう?」

 ピシッと空気が凍り付いた。

「……今それを言います?」

 遠回しに「アルベール殿下は貴女なんて大切でもなんでもないのよ」と言われた。

 やっぱりその笑顔は真っ黒なのですね!?

 驚きすぎて涙も完全に引っ込んだ私は、リリアーヌ様はやっぱり怖いと断定した。


 私がすっかり落ち着いたと見るや、リリアーヌ様は立ち上がって正面の席に座りなおす。

 そしてすっかり冷めたお茶に口をつけた後、表面上は優雅な、けれどその実、底知れない威圧感を与える笑みを浮かべて指を組んだ。

「ダイアスタ嬢、貴女がオーブエル殿下の幸福を守りたいと願うように、私もアルベール殿下の幸福を願っております。そして今、アルベール殿下の幸福は私と共にある……それはご理解くださるかしら?」

「何が言いたいのでしょう?」

「簡単なことです。貴女が貴女の計画をこのまま続けても、やめても、私は構わないのです。けれど空気の読めない言動で、私達二人の邪魔はしないでくださいませ。それだけ守っていただけるなら、後はご自由に。貴女が見事アルベール殿下の側妃となったなら、同じ妃として仲良くもいたしますわ」

「リリアーヌ様は一度も私に計画をやめろとは言わないんですね」

 普通、自分の婚約者の側妃を狙う人がいたら、例え側妃を娶ることを容認していたとしても、文句の一言くらい言いたくなるものだと思うのだけれど。

 リリアーヌ様はそこのところが実に貴族っぽいというか、考え方が冷めているというか。

 そんな風に考えながら聞くと、リリアーヌ様は何てことないように言った。

「だって殿下の御心も、その性格も、私が一番よく知っていますもの。殿下を射止めるのは難しいですわよ? ダイアスタ嬢には一生かかっても難しいかもしれませんわね」

 ふふ、と笑ったリリアーヌ様に軽く殺意が沸いた。

 このひと、貴族っぽい考えを持っているわけでも冷めてるわけでもない。ただ単純に自信家で、私を見下しているだけだわ。

 私が笑顔を引きつらせていると、リリアーヌ様は「それに」と続けた。

「ダイアスタ嬢はそのうち、アルベール殿下のことはどうでもよくなると思いますし」

「どういうことです?」

 私がアルベール殿下のことがどうでもよくなる? 殿下のことを好きじゃなくなるってこと? それとも殿下への想いどころじゃない状況になるってこと?

 私が首を傾げて聞いても、リリアーヌ様は意味深に笑うだけ。

 もう、これだからリリアーヌ様は好きになれませんわ!

 むっと頬を膨らませた私を見て、リリアーヌ様が小さく呟く。

「――いつか自分の気持ちに気づく日が来ますよ、ダイアスタ嬢」

「……?」

 聞き取れなかったその言葉に疑問符を浮かべていると、リリアーヌ様が楽しそうに笑った。

「男装をした方の泣き顔は中々見れないので新鮮でしたわ」

「リリアーヌさまぁっ!」

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