第一章 第一節 少女

 あたたかな日差しがその村を差していた。分断させた薪を懐に抱え運ぶ中年、革袋片手に買い物に向かう女性、はしゃぎながら大通りを突っ走る子供たち、様々な人間が、その村で暮らす。ここはブール村。バンクレド大陸北東に位置する国"ウォイル"。その中央区"クレント"付近に存在する小さな村だ。広大な森林に囲まれた田舎村だが、クレントほどではないにしてもそれなりに村民は存在し、ひっそりと、だが穏やかに暮らしていた。

 そんなブール村の中でも一際繁盛している酒屋が存在する。"ニールズバー"と書かれた派手な看板を正面に持つその酒屋は、多くの村人から人気を得ており、昼夜問わず様々な客が来店する。美味い酒を嗜みたい者、仕事終わりに一杯ひっかけたい者、いつも変わらず受け入れてくれる店主"リサ"が目的の者、酒を片手に仲間と歓談を楽しみたい者、様々な目的を持った者がこの店に足を運んだ。だが、特に多くの男性客が目的とするものがある。この店で働く"リサ"の一人娘、"アシュリー"だ。ブロンドの長髪と煌びやかな蒼目を持つ彼女は、ニールズバーの店娘として健気に働いており、その可憐な美貌やひた向きな精神に心を奪われた男客たちは少なくない。そんなアシュリーは今、数人の男客たちと談笑を交わしていた。接客精神も欠かさないアシュリーは、こうして会話を弾ませることでも客に楽しみを届けていたのだった。


「そしたらあんなことになってよぉ!参ったもんだぜまったく!」


 三人の男性客のうちの一人、薄青い布服の男が談笑に花を咲かす。


「へぇ~!そんな面白いことがあったんですね!」


 アシュリーもまたそれに受け答え、同じように笑うのだった。

 すると、アシュリーと会話をする三人の男性のうちの一人、革製の茶色い上着を着た男が口を開く。


「そうなんだよぉ!あ、面白いっていやぁよ。アシュリーちゃん、例のガキの話聞いたか?」


「へ?……いや、たぶん聞いてないと思います」


「マジかよ!?いま村で話題になってんだぜ」


「どんな話なんですか?」


 知らぬ話題を振られ、阿呆けた表情を浮かべるアシュリーに、三人のうちのもう一人、鎖帷子を身に着けノルマンヘルムを被る男が、酒を煽りながら話を付け足す。


「なんでも、この村のある少年が、昨夜、化け物に襲われたらしいんだ」


「へ……?ば、化け物?」


「バカみたいだろ?もちろん誰も信じてないんだが、泣きじゃくりながら何度も何度も訴えてくるらしくてな」


 するとまた革製上着の男が話に入る。


「バカ、それだけじゃねぇって!幽霊騎士も出たとか言ってたじゃねぇか!」


「ガハハハッ!!化け物に幽霊騎士だってよッ!こりゃ傑作だぜ!」


「本当にな!化け物だけでも法螺くせぇってのに、あのガキは妄想が過ぎるぜ」


「マジでマジで!な?アシュリーちゃんもおかしいと思うよな!」


 話を振られたアシュリーは、なにかを思い詰めるように俯き、顎に手を当て黙り込んでいる。もしかしたら話がつまらなかったのかもしれないと不安に駆られた男たちはアシュリーに呼びかけた。


「お、おーい。アシュリーちゃん?」


 すると、声かけに気付いたのか、驚き我に返るアシュリー。


「あっ!す、すみません!」


「い、いや、アシュリーちゃんが謝ることじゃない。つまらない話をした俺たちが悪いんだ」


 アシュリーも男たちも黙り込み、どんよりとした気まずい空気がお互いを包んだ。

 そんな居づらい空気を払いのけようと、青服の男が口を開く。


「そ、そいえば、アシュリーちゃんはもうすぐクレントに上京するだったよな!」


「あ、は、はい!もうすぐここを離れることになります」


「楔の会に入会すんだろ?いいなぁ~。金にはもう一生困らねぇんじゃねぇか?」


 革製の上着の男も話を付け足し、なんとか先程までの鬱屈な雰囲気からは脱することができた。

 鎖帷子の男も話を付け足す。


「楔の会かぁ。この村からの入会者もこれで5人目だな。みんな離れていっちまうなぁ」


 楔の会。クレントに存在する大規模宗教団体である。預言者"マゴス"を法皇とし、神への信仰と自身たちの信ずる宗教観を大々的に布教することを目的としたその団体は、多くの信徒を有し、現在もその数と規模を増長させている。単純な信仰心で入会を望む者も存在するが、多くの信徒の第一目的はその団体のもてなす莫大な生活支援金である。入会したものには、定期的に行われる信仰活動を条件とし、膨大な生活支援金が普及されるのだ。その金額は、かなりの量を見積もることができ、衣食住をはじめとする基本的資金から、生命維持の為の保険金、さらに入会者の趣味趣向を賄うための資金まで提供されるのだという。こうした絶大な金銭的有利をもたらすことから、入会を申し出るものが後を絶たないのだ。クレント内だけでなく、近辺の村からも入会者が続出しており、入会に伴って村からクレントに上京するケースも珍しくないのだった。そしてこのブールにも、入会目的でクレントに上京した先駆者が既に何人か存在していた。


「アシュリーちゃんも支援金目当てだろ?いいよなぁ、いっそのこと俺も入ろうかなぁ」


 腕を組み、自らも入会を検討し始める鎖帷子の男に、青服の男が一刺し入れる。


「なにバカなこと言ってんだ。おめぇみたいなおっさんじゃ無理だっつーの」


「成人したやつはみんなまとめて門前払いだっつーの」


 革製上着の男も青服と同じように、しかめっ面で鎖帷子の男の提案にダメ出しする。

 楔の会には定期活動の他に入会条件が一つ存在する。それは成人者の入会禁止である。成人した者、すなわち二十一歳以上の者は、入会を禁止する規定が設けられていた。また、入会者のほとんどを、まだ幼き少年や少女が占めているのも事実だ。というのも、無論、入会してから成人を迎えた者も即刻退会を強いられるため、仮に十九歳、二十歳といった成人に近い青年、女性が入会したとして支援を得られるのは結果的にほんの数年だけということになるからだ。短期間の資金援助しか受けられない以上、資金供給の持続性と安定性を鑑みれば、素直に仕事選びをしたほうが結果的に有利になるのが、十代後半の青年たちの現状だった。そんな莫大な支援金という利点と厳格な条件が指定されている楔の会だが、アシュリーは幸いまだ十四の身だ。その資金を手にすることは容易に出来るが――。アシュリーの入会目的は、そんなものではなかった。


 ◇


 三年前だ。アシュリーがまだ十一の頃、彼女は無邪気に野を駆ける天真爛漫な少女だった。その顔は一切の曇りを有さず、有象無象の蟠りを知らなかった。いつだって笑顔を忘れず、世に存在するすべてに心を動かされた。昨日の朝には黄昏に心奪われ、今日の昼には草を駆け、そして明日の夜には未だ見ぬ他の何かに感動している。そんな輝かしい日々を冒険し、その秀麗の時を生きた。だが、彼女は決して、一人ではなかった。アシュリーの隣には、いつだって彼女が存在した。麗しい黒髪を持つアシュリーの幼馴染"サーシャ"だ。長きその黒髪は、草木を撫でさする朗らかな風によく靡き、風もまた彼女の美しき黒髪を愛しんだ。そんな彼女は、アシュリーを親しんでいた。いつだってアシュリーと一緒にいた。寂しい時も、楽しい時も、いつだってアシュリーがその手を引き、自分を導いてくれたのだ。だからサーシャは、アシュリーが好きだった。そしてそれは、アシュリーも同じだった。二人はいつだって一緒に輝かしい日々に心動かされてきたのだ。いや、二人一緒だったから心動いたのかもしれない。

 そんなある日、サーシャはアシュリーに、ある事を告げる。

 近いうちに訪れる別れだった。サーシャの家庭は昔から賃金に貧しく、その上多額の借金を抱えている。そんな状況で何とか一日一日を凌いできたサーシャの家庭は、ついに生活維持すら危うくなってしまったのだった。だがそんな時、サーシャの家庭は、クレントの楔の会を知る。多額の生活支援金の存在を知ったサーシャの家庭は、置かれた状況上、それに頼らざるを得なかったのだ。無論、入会対象者はサーシャである。この決定から、サーシャはブール村を離れ、クレントへの上京を余儀なくされたのだった。


「ごめんね。アシュリー。突然こんなこと……」


「どうして?」


 謝罪をするサーシャに、アシュリーは困惑した面持ちのまま疑問を投げかける。


「どうして、もっと早く言ってくれなかったの?」


「……」


 アシュリーはあれこれ胸に浮かんだ疑問、悲しみをサーシャにぶつけた。サーシャがどんな気持ちで上京の条件を吞んだのかも知らずに。


「どうして何も相談してくれなかったの?私たち……友達じゃなかったの?」


「……私だって……」


 悲しみをサーシャにぶつける内に、その目に涙を浮かべていくアシュリー。だが溢れる涙を拭って見たその光景には、同じように涙を流すサーシャがいた。


「私だって……もっと早く言いたかった!一緒に悩んで考えたかった!そばにいてほしかった!」


「……な、なら!」


 なおも発言しようとしたアシュリーの口を塞ぐように、サーシャが言葉を付け足す。


「でも……言ってしまったら、そうしたら、もう。アシュリーと離れちゃうような気がして……!だから言えなかった!」


「……サーシャ……ッ!」


 何か言ってやりたかった。自分の悲しさをぶつけて、わからせてやりたかった。だが、サーシャも自分と同じ悲しみを感じていると思うと、その涙を見ると、吐き出そうとしていた有象無象は、すべて胸の奥に縮こまってしまった。胸の奥につっかえて、吐き出せない悲しみと思いに、居ても立っても居られなくなったアシュリーは、遂にその場を走り去ってしまうのだった。


「アシュリー!」


 溢れる涙を拭いながら逸走するアシュリーの背中を見て、サーシャは再び涙を浮かべた。


「ごめんね。……ごめんね、アシュリー」


 そうして、別れの日がやってきた。

 サーシャの母、父、そしてその一人娘は、沢山の荷物を馬車に詰め込む。サーシャ一家の別れの場には、多くの村民が付き添っていた。貨物を全て乗せ込んだ後、サーシャの父と母は、自身たちの乗車口に向かう。だが、サーシャだけは、なにかを探すように、自分たちを見送る群衆を見た。

 あの時から、結局一度も顔を合わせていないアシュリーは、今日この別れの場にも顔を出していないようだった。サーシャは俯き、悲しみに表情を濁らせる。あれだけ笑い合い親しみ合った仲だが、最後には喧嘩別れという悲しい結末になってしまった。サーシャはそんな切ない思いを胸に、馬車に向かおうとする。

 その時だった。


「サーシャ!」


 いつだってともにいた、懐かしき声は間違えようもなく、サーシャはその声に振り向く。

 アシュリーだった。息を切らせて、その場に立つ彼女は、おそらく走ってここまできたのだろう。あの日、涙の別れをしてからいままで見ることがなかったその顔には、少しの悲しさも怒りもなかった。

 アシュリーは、胸を撫でおろし、乱れた呼吸を整える。


「アシュリー……!」


 サーシャの顔には、先程までの悲しさはもはや見られず、驚きと嬉しさに微笑む。そんなサーシャに近付くと、アシュリーは彼女に、一枚の封筒を渡した。必死で走ったせいか、封筒はくしゃくしゃに潰れてしまっている。サーシャはその封筒を不思議そうに受け取った。


「これは……?」


「開けてからのお楽しみ!私の顔が見えなくなってから開けてね」


「……?どうして?」


 すると、アシュリーは腰に手を当て、鼻高々に口を開いた。


「そのほうが感動するから!」


「そういうこと、自分で言う?」


 サーシャの突っ込みにアシュリーは恥ずかしそうに笑った。それをみたサーシャも、笑みを零す。二人の間には、もはや悲しさなど微塵も存在しなかった。


「サーシャ。そろそろ……」


「うん」


 時間が迫っていることをサーシャに告げる母。アシュリーと二人で笑いあっている時間も、そろそろ終わりがきたようだ。ふと、アシュリーがサーシャの右手を取り、指切りをした。


「またね!サーシャ!」


「アシュリー……」


「絶対。絶対、また会おうね!」


 そう言って、アシュリーは指切りを終えると、笑顔で手を振る。もう、サーシャの別れに口を挟むことも、涙を流すこともない。アシュリーは覚悟を決めていた。サーシャの別れを受け入れ、再び会うことを誓う。そんなアシュリーを見ていると、サーシャも、いちいち決まったことに悲しんでいる自分が馬鹿らしくなっていた。


「……うん!」


 サーシャは柔和な笑みで返事をすると、馬車に乗った。鞭打ちの音と共に馬の嘶きが響く。段々と村を離れていくサーシャに、アシュリーは最後まで手を振った。馬車の窓枠から身体を出し、こちらに手を振り返してくるサーシャの姿が見えなくなるまで、ずっと。


 やがてアシュリーの姿が見えなくなると、サーシャは窓枠から身体を引っ込め、車内の椅子に座りなおした。サーシャは言われた通り、アシュリーの姿が見えなくなったいま、渡された封筒を開封する。中には一枚の手紙と、朱色をした紐の腕輪が入っていた。サーシャは、手紙の内容を読み上げる。


「……離れていても手紙なら、いつでも話せるよ。私も同じ腕輪をつけた。

 ……これでずっと……一緒……だね……」


 慣れない字で一生懸命に記されたアシュリーの言葉を紡ぐうちに、サーシャの目からは大粒の涙がこぼれ出る。


「こんなことなら……口で言えばいいじゃない……」


 きっと、恥ずかしかったのだ。別れの場に遅れてきたのも、それが理由に違いない。それでも、自分の旅立ちの為に、こんなものまで用意してくれたアシュリーに、サーシャは嗚咽を抑えられなかった。

 やがて涙も収まってきてから、サーシャは朱色の腕輪を身に着ける。そうして一言つぶやいたのだった。


「これでずっと……一緒だね」


 ◇


 やがて、サーシャとの別れから一年が経った。アシュリーはいまだブール村で母の店仕事を手伝う日々を過ごしていた。サーシャが村を去ってからは、悲しくなる時もあった。何をしても、いつも一緒にいたサーシャのことを思い出したし、その度にさみしさに襲われた。だが、それでもアシュリーとサーシャは手紙という会話を続けていた。それだけで、アシュリーもサーシャも、お互いの繋がりを感じられていた。楔の会でも問題なくやっていけているらしく、強いて言えば、出される食事が口に合わないらしい。しかし、食事を残すのは楔の会の道徳に反するということから、完食を強要されるので、うんざりしているんだとか、そんな何気ない会話が続いた。何気ない会話だからこそ、一緒にいた頃のような温かさを感じられた。

 ところが、そんな暖かな繋がりはある日突然断ち切られる。いつものようにサーシャからの手紙を受け取るため、郵便局に足を運んだアシュリー。サーシャからの手紙は三日に一度のペースで搬送されてきており、その日も搬送日だったが、届いていないようだった。あれほど楽しく文通を交わしていたことから、嫌になって止めたということは考えられないだろう。だとしたら、搬送の際になにか問題があったか。或いは、サーシャ自身の身に何かあったか――。アシュリーは強い不安感に襲われた。

 次の日も、サーシャからの手紙は届かなかった。胸に浮かぶ不安感が徐々に強くなっていく。とはいっても、届いていなければどうすることもできないので、アシュリーは嫌な胸騒ぎを抑えながら、郵便局を後にしたのだった。

 その次の日だ。アシュリーは仕事が終わると、真っ先に郵便局に向かい、サーシャの手紙が届いているかどうか調べる。すると、その日は届いているらしかった。それを知ったアシュリーは深い安堵を抱き、顔の緊張もほぐれていった。早速郵便局員から手紙を受け取り外に出て封を切った。

 だが、そこに書かれていたのは、以前までのサーシャの手紙とはまるで違った。サーシャではなく、サーシャを代理した楔の会の会員によって著されたものだったのだ。代理の筆によると、サーシャは今体調に支障をきたし、手紙を書ける状況ではないということ、教会による丁重な治療が施されているため、心配はいらない、とのことだった。サーシャの体調が悪いという事実に強く心配するアシュリーだったが、そんなことよりもアシュリーには拭えぬ疑問の方が大きく残った。自分たちの間だけだった手紙に、わざわざ代理を用いることに疑問がいったし、手紙の執筆すらできないほどの不調とはどれほどのものなのだろう。考えれば考えるほど焦燥感に駆られたアシュリーは、すぐさま返事の手紙を送ることにした。

 それからは、文通こそ続いていれど、アシュリーの相手はサーシャではなく、サーシャの代理人という状況が続いた。何通返事を送っても、いつになっても、サーシャ直筆の手紙は届かないのだった。そんな生活が一年続いたある日、ついにアシュリーは決断した。このまま文通を続けていても、真相がわかる気配はない。ならば、自分の目で確かめにいこう、と。

 こうしてアシュリーは、楔の会に入会するため、クレントへの上京を決意するのだった。


 ◇


「アシュリー!アシュリー!」


 誰かからの呼びかけに、アシュリーは驚く。


「アシュリー!」


「っ!お母さん……」


「手が止まってるわよ」


 母リサだった。しまった、仕事中だった、とアシュリーは慌てて作業に戻る。先程までの客達はもういなかった。どれくらいの時間がたったのだろう。外はまだ明るい。およそ午後二時あたりだろうか。


「どうしたの?ボーっとして」


「……なんでも、ないよ」


「……ふーん」


 母は娘の反応になにか思うことがあるようだった。だが、そんなことを気にしている場合ではない。仕事中なのだ。気を張って作業に集中しなければならない。アシュリーはサーシャへの不安を胸の奥にしまい、真剣な表情で仕事に向かった。

 だが、リサはアシュリーに新たな仕事を持ちかける。


「アシュリー。ちょっと貯蔵庫からワイン持ってきてくれるかしら?」


「え?……まさか、また樽ごと?」


「そ。樽ごと」


「えぇぇ……前やった時も思ったけど、あれ絶対一人の少女に運ばせる重さじゃないよー」


「つべこべ言わない。さ、働いた働いた!」


 アシュリーはうんざりしたあと、渋々了承した。裏口の扉から外に向かうアシュリーの背中を見て、リサはそっとつぶやく。


「……少し、外の風に当たってきなさい」


 ◇


 店の裏側に出たアシュリーは、扉に背を向けたままため息をつく。先程虚空を見つめて作業が進んでいなかったことを思い詰めていた。


「集中するのよアシュリー。もうすぐ私も上京するんだから、しっかり最後まで仕事をこなさないと……」


 そういって頬を叩き、己に活を入れるアシュリー。だが、アシュリーはまだ、胸の蟠りを拭えていなかった。気張った顔を曇らせて、ふと、口に浮かんだ言葉をつぶやく。


「……サーシャ、大丈夫かな……」


 そういってサーシャへの不安に苛まれながら、また虚空を見つめてしまうアシュリーだった。だが、そんなアシュリーの目に、気になるものが入り込んだ。貯蔵庫の壁際に、何か物悲しげな顔で腰を下ろす少年に、アシュリーは近付き、声をかける。


「なにしてるの?そんなところで」


「うわあっ!?」


 突然かけられた声に驚きながら、アシュリーを見る少年。ブロンドの短髪であるその小柄な少年は、アシュリーに顔を向けたあと、再び先程までの暗い面持ちに戻る。


「別に。なんでもない」


 少年はアシュリーから顔を逸らし、一言つぶやいた。


「なんでもないって様子には見えないけど……」


「本当になんでもないってば!」


「……話してみれば、良くなることもあるよ?」


 尚も詮索するアシュリーに、少年はしびれをきらし、今一度口を開いた。


「誰も信じてくれないんだ。僕の話を」


「え?」


 予想してなかった話題にアシュリーは阿呆けた返事を返してしまう。が、少年は構わず話を続けた。或いは、話さなければ気が済まなかったのかもしれない。


「本当なのに……。本当に僕は……っ」


 そこまで言った後、少年は急に口を閉ざす。何かを思い詰めたように、話を終わらせた。


「やっぱり、なんでもない!」


「え、どうして?」


「……どうせ、おねぇちゃんもわかってくれないよ」


 そう言ってアシュリーに背を向ける少年。だがアシュリーは少し考えたあと、思い出す。先程客が話していた、化け物にあった少年のことを。


「あっ!もしかして……」


「……?」


「化け物にあったっていう子、君?」


「な、なんで知ってるんだよっ!?」


 アシュリーが不意に言った言葉に驚く少年。図星だった。どうやら彼が、昨夜化け物と幽霊騎士に出会ったと訴えている少年のようだ。少年はアシュリーの方を向いて顔を強張らせる。しかしアシュリーも、隠さずに事実を話すことにした。


「なんでって、村中で話題になってるよ?」


「うぅ……どうせおねぇちゃんも笑いにきたんだろ、僕のこと!」


 小さな手を強く握りしめ、目を瞑ってアシュリーに怒鳴る少年。いままで村の様々な人に化け物への遭遇を訴えたが、誰にだって信じてもらえなかった。それどころか、馬鹿にさえされたのだ。もはや誰も信じられなくなっていても、無理はない。

だが――。


「笑わないよ」


「……え?」


「笑わないよ、私は」


 対するアシュリーは一切の笑みも浮かべず、それどころかむしろ真剣な眼差しで少年をまっすぐ見つめていた。少年はそんなアシュリーの表情を見て、だんだんと憤慨を収めていった。


「し、信じてくれるの……?僕の話……」


「うーん。正直にいうと半信半疑かな。でも、半分は信じてるよ」


「……」


 少年は初めてだった。化け物にあった昨夜から、今までに人に信じてもらえたのは。半信半疑とはいえども、冷笑を浮かべず、あまつさえ少しでも信じてくれているのは、アシュリーが初めてだった。そんな少年は、アシュリーを見直し、少し距離を詰めた。それを見たアシュリーも、少年の横に座り込み、少年に語り掛ける。


「ね。どこであったの?その……化け物に」


「え……っと。この村を西に進んだ森だよ」


「へぇ~。でも、遭遇したのは昨夜なんだよね?なんで夜になんか森に入ったの?」


「それが、昨夜はなんだか眠れなかったんだ。変な赤ん坊の声も聞こえてて……」


「赤ん坊の声?」


 こうして、少年とアシュリーはだんだんと仲を馴染ませていった。アシュリーもアシュリーで決して少年の話をからかったりすることはなく、それどころか、益々興味深々になっていった。こういう類の話が好きになったのは、彼女の祖母が原因だろう。


「うん。それで、止みそうに無いから、その声の方向に行ってみたんだ。そしたら、あの川辺について……」


「ふーん。それで?」


「それで……あの化け物が現れた……」


「赤ちゃんは?」


「そんなの、気にしてる暇ないよ!あんな化け物が目の前に現れたんじゃ、真っ先に逃げるって!」


「ちょっと待って。じゃあ、赤ちゃんはそのままにしてきたの?」


「う、うん……」


「……大丈夫かな。その赤ちゃん」


 アシュリーは、ふと、赤子の方に着目した。森の奥から赤子の泣き声がする時点で妙だが、なにより、そのまま放置していて、無事であるはずがない。そう思った二人は、お互いに俯き、黙り込んでしまった。と、そんな二人を包むどんよりとした雰囲気は、突如として聞こえてきた呼び声によってかき消された。


「アシュリー!?まだなのー?」


「あっ!そ、そうだった!仕事の最中だったんだ!」


 ニールズバー店内のリサからだった。今の今まで仕事中であることをすっかり忘れていたアシュリーは、慌てて返事をする。


「今行くよー!」


 そういうと、アシュリーはすぐに立ち上がり、少年に別れを告げた。


「それじゃあね!色々教えてくれてありがとう!」


「あ……う、うん」


 アシュリーは貯蔵庫に中に入ると、腹あたりまで届くほどの大きさの樽を、引きずり出してくる。唸り声をあげながら、必死に引きずるアシュリーを見て、少年は思わず声を掛けた。


「て、手伝おうか?」


「だいっ……じょ……ぶっ……んぅー!!」


 健気に仕事をこなすアシュリーを見て、少年はその日初めて微笑んだのだった。

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