黒きもの

神崎龍介

序章

 これは私がまだ子供の頃、おばあちゃんがよく話してくれた伝説だ。

 この世界には、絶対的な超越者"神"が存在する。人やこの世の域を凌駕した存在であり、仮に"神"という言葉で表しているのみで、或いはそれをも超越した、理解すら及ばぬ"何か"なのかもしれない。

 神は、まず人を創り、そして秩序と安寧を創った。だがそれは、故に平等なものであり、人とはそれを良しとするほど、平穏な心を持ち合わせてはいなかった。だからこそ人は醜き争いを生み、人も世界をも傷つけ歪め、貶めた。すると、それを快く思わぬ神は憤慨した。神は、秩序と安寧の他に、裁きを世界の理に組み込んだ。人々は神を恐れたという。その裁きはあまりにも残酷すぎたからだ。そしてその裁きは、神の天秤により有無が決定される。神は因果律をそう創ったのだ。こうして神の天秤により多くの者が裁きを受け、残された善良な人々は平穏に暮らした。人と世界は、神の裁きによって救済されたのだった。


 だが、神に定められたその因果律は、果たして救済と呼べるのか?神による縮図に象られた理に則って、人は生まれ、死んでいく。果たしてそれは神の玩具と何が違うものか?

 理に抗い、裁きを下された人は、曰く枷が解かれ、人でない何かに変貌するという。それは故に、神という絶対的存在の釣り糸から逃れた証なのかもしれない。


――やがて人は、裁きに歪んだその何かを"黒きもの"と呼んだ。



 夜。輝かしい月光が、森林の暗がりを怪しく照らす。爛々と輝く星々は、何か得体の知れない不気味さを醸し出していた。時刻は草木も眠るような深夜である。だがその木々たちは風に当てられ、まるで生きているかのように怪しく蠢いていた。そんな傍観者達は確かに目撃していた。一人の少年が、なにものかから一心不乱に逃避しているのを。

 息を荒げて森を駆けるその少年は、幼きその顔を恐怖に歪めながら、ただ前へ前へと直進する。野を駆け草木を避け、有象無象を払いのけながら、ただ一心に前進した。すると、そんな彼の背後から、何かの叫び声が轟いた。人でも獣でもないような、その悍ましい咆哮は、地獄の底の亡者宛らな、禍々しく恐ろしい威嚇を感じさせた。少年はその咆哮を耳にするとより一層狼狽を強め、その奔走に拍車を掛ける。

 錯乱しながら逃走する少年はその眼に溢れんばかりの涙を浮かべ、尚も前へと突き進んだ。だが時刻は深夜。そして少年は明かりを灯す道具を何一つ持っていなかった。身の回りの一切合切が深い闇に包まれたこの状況で、いつまでも障害物を回避し続けるのは簡単なことではない。ついに少年は足元の石に躓き、その場に勢いよく転倒する。痛みが少年を襲うが、そんなものは背後に迫る恐怖の前では些細な問題である。弱弱しく腕を地に突き立てる少年だが、どうやら彼が立ち上がるよりも早く、迫りくる恐怖は得物に追いついたらしい。少年は背後から悍ましい息吹が発せられていることに気付いた。振り向かなくても、すぐ其処にいることが分かってしまった。身に湧き上がる怖気に肩を震わせながら、少年は恐る恐る背後に振り向く。そして見てしまった。"それ"を。

 "それ"は、紛れもなく、怪物だった。少年の脆弱な身体の三倍から五倍近い体積を持つその怪物は、獣のように四つん這い、背中には無数の触手が何本も揺らめいていた。蜘蛛のような下半身を持ち、甲殻類の幼虫のようなものが、その腰部からしっぽのように蠢いている。上半身においてはもはや腹部が痛々しく裂け、内側の肉塊には、なにかの卵のようなものがびっしりと敷き詰められている。腕部からは百足のような多足虫じみた触手が生えていた。

 その惨烈極まりない怪物を目の前にした少年は、想像だに出来ぬ恐怖に怯え、悲鳴を上げようと口を開いた。が、その広げられた口からは啜り声のような小さな慟哭しか発せられない。上げようとした悲鳴は錯乱に震える喉元でとどまり、まるでつっかえに引っかかったように外へ出ることを躊躇していた。人体というものはまさしく不完全であり、惨憺たる恐怖をいざ目の前にしてしまうと、上げなくてはならぬ悲鳴が留まってしまうように出来ているのだ。悲鳴すら失意するほどの恐怖に、少年は耐えられず失禁する。だが化け物も待ってはくれない。徐々に、そして着実にその少年に迫っていた。なんとか少年も立ち上がろうと踏ん張るが、彼の足は恐怖に震え、思うように力が入らない。このままここで絶望に震え続けていればやがて化け物による死が訪れる。だが、逃走する唯一のすべである己が足は、底知れぬ恐怖に打ちひしがれ、哀れにも震え続けることしかできない。まさに絶体絶命である。

 だがそんな時、少年の耳に全く新しい音が入ってきた。けたたましい咆哮を上げる化け物とは別方向、むしろその正反対、少年の逃走経路の方向からだった。なにか金属の重なり合うようなこの怪音に、少年は恐る恐る顔を向ける。

 そして少年は見た。黒衣に身を包んだ騎士がゆっくりを歩を重ね、こちらに向かっているのを。この不気味で無造作な金属音は、その騎士の歩行だということに、少年は気付く。重厚な西洋甲冑に身を包み、漆黒のマントを身に纏うその騎士は、およそ人間とは思えぬほど冷酷で、無感情で、そして躊躇なく少年に迫ってくる。右手には一振りの剣を、そして左手には盾とクロスボウを握り締めて。少年にはその騎士は、人間ではないように思えた。諸所の動作や、周囲に放つその深淵の底のように冷たい不気味さが、およそその甲冑の中に人が入り込んでいるとは、到底思えないように感じさせたのだ。まるで、命を落とし、尚もこの世を徘徊する幽霊騎士であるかのように。そして少年には"それ"が間違いなく、明確な殺意を以って迫ってきていることも分かった。

 自らの背後にも逃げ道の先にも、まるで悪夢の中のような脅威が迫っているこの状況に、少年の錯乱はより勢いを増した。だが、その錯乱が頂点に達するよりも、少年の正気が失われるほうが早かった。少年の揺らいだ意識は、奈落の闇に沈んでいく。耐え兼ねがたい恐怖を前に、ついに少年は失神してしまうのだった。

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