第35話 電子の神の眼

 カイルは、眼前の多重モニタースクリーンの画像に魅入られていた。

各経済ブロックの電子取引の動向を示す、高度に視覚化された変動グラフ。統合軍や闇の武器商人に因る地域紛争の社会的影響を示す、情報の奔流。その全てを、鮮やかな手腕で手元のキーボードを操作して解析していく。

 元統合軍サイバー部隊を統括していた、統合軍の異端。

 専門領域は異なるが、鮮血の死神ロマネンコフ大佐と並ぶ存在であった彼もまた、統合大戦が終局を迎えると同時に冷遇を喰らわされた。

 統合軍軍事科学顧問でカオス・コーポレーションの総帥であるカオス・ローゼンバッハに依って創造されたイオン量子ヨタA.Iオメガの存在が彼を駆逐したのだ。世界の事象を総合的に解析する作業は、トップクラスのハッカーでも数日掛かるところをオメガは数分で完了してしまう。電子戦における、ハッカーの存在意義は希薄なものとなった。それだけなら、彼が統合軍に残る事も可能ではあった。しかし、彼は統合軍の裏事情に精通していた為、存在を疎んじられ抹殺されかけたのだ。

 “電子の神の眼”と謳われた彼も、現実世界の脅威に対抗する術は持って居なかった。故に、彼は統合軍及び行政府機構に依って支配された大戦後の世界の裏側に身を潜める道を選択した。

 全てを見透かしたかの様な怜悧な瞳孔は、彼の半生を物語っている。闇の武器商人のシュトロハイムとは、一定の距離を置きながらも裏社会で暗躍する為に連携している。現在は、シュトロハイムの依頼で世界各地の紛争の状況を解析している作業の最中だ。


 行政府のイオン量子ヨタA.Iオメガは、多層構造的な擬似神経回路機構に依り従来型のイオン量子コンピューターとは比較にならない程の性能を発揮する。時代を超越した天才が構築したそのシステムは、当に生命体の如く常に進化を遂げている。如何にカイルの手腕が神業の域でも、到底埋める事の敵わぬ決定的な差異が存在する。しかし、電脳戦の古強者のカイルにとって、統合軍が築いた難攻不落の電脳要塞こそ全精力を傾注して攻略するに足る価値の在る好敵手なのだ。


 行政府東南経済ブロックの紛争影響解析を済ませると、カイルは休息を取る事にした。コンピューターを観測データ記録モードに変更して、リラクゼーションシステムを起動する。モニタースクリーンの表示がビーチリゾートの風景に変わり、脳波をα波に誘導する静かな音楽と波の音が室内に響く。カイルはリラクゼーションシートに深く身を委ね、深い溜息を吐いた。シートの肘掛部分に在るスイッチを操作すると、自動的にカフェ・ラテが注がれたカップがシート脇のトレイ上に現れた。カップを口に運んで濃厚な味をゆっくりと愉しむ。一仕事を終えた後の、カイルの習慣だ。殺伐とした電脳空間での作業から開放された安息の一時。突然、その静寂たる時間を切り裂くような警告音が鳴り響いた。軽く舌打ちして、カイルはコンピューターを作業モードに切り替える。

 「・・・スパイダー・ネットに掛かった奴が居るな。」

 シュトロハイムが構築したスパイダー・ネットは、ロマネンコフ大佐が使用していた戦場タイプの他にも、カイルが開発に携わった電脳タイプやステルス衛星を利用した宇宙タイプ等が在る。統合軍のネットワークからは隔絶された、スタンドアローンの総合的な異常検出ネットワークシステムは、統合軍に対抗する為の重要な役割を担って居る。カイルがモニタリングしているのは電脳タイプだ。何者かが、カイルの統括する裏社会のサイバーネットワークに侵入を試みた痕跡が示されている。

「この侵入のパターンは・・・。」

カイルは、そのクラッキングの手口に覚えが在った。更に、痕跡を精査すると、暗号化されたメッセージが残されて居た。

「・・・バカ弟子め。今更、俺に何の用件だ?」

モニタースクリーンに映し出された文字列を眺めて呟くカイルの表情はどこか嬉しそうだった。


 “ボーイよりキャプテンへ。至急、連絡を取りたし。統合軍に一泡吹かせてやる準備をしている。俺達の新しい仲間が中心となって、統合軍のファッキン・プロジェクトを頓挫させる為にだ。協力の代償は支払う覚悟が在るそうだ。師匠の許を飛び出して行った俺が言うのもなんだけど、師匠のサイバー戦の技術力は俺なんか比較にならない。是非とも助力を仰ぎたい。現在の俺は、反政府カウンターグループの黙示録の旅団に籍を置いている。既に知ってるとは思うが、シュトロハイムと独自契約を締結して欺瞞に満ちた統合軍に叛旗を翻してるんだ。俺達は行政府要人から奪取したデータディスクを解析して、“審判の光”計画の詳細を把握出来るところまで来ている。シュトロハイムとの取引の材料としては申し分無いだろう。偶然捕縛に成功した迷宮のミノタウロスに関してもその正体は或る程度把握する事が出来た。統合軍の極秘プロジェクトで遺伝子改変された生体兵器だ。自我領域のコントロールに失敗して廃棄された連中らしい。悪夢を見ている様な現実に胸糞悪くなる思いだけど、連中の悪行を白日の下に曝したい。協力してくれると信じてる。再会出来る日を楽しみにしてるぜ。以上、通信を途絶する。”


 メッセージを読み終えると、カイルは深い溜息を吐いた。カフェ・ラテを口に運び、豊潤な香りを楽しみながら“バカ弟子”と呼ぶエリックの事を想い出した。

 カイルとエリックが出会ったのは、エリックがまだ幼少時、類稀なクラッキング能力を発揮して統合軍のネットワークに侵入したのをサイバー部隊大尉だったカイルが対応した時だった。幼少だったとは言え、統合軍の管轄するネットワークへの侵入は重罪だ。だが、カイルはエリックを庇い、自身の管理下に置く事で免罪を上層部に認めさせた。それから数年掛けて、カイルはエリックにサイバー戦の英才教育を徹底的に施し、次代を担う人材として統合軍サイバー部隊への入隊を期待した。

 だが、丁度時を同じくしてカイルの統合軍における立場が危機的状況に陥り、その計画は立ち消えとなった。エリックは被災孤児養護施設へと戻り、統合軍のNBC兵器人体実験計画の犠牲となった母親の看病の為に行政府の不正蓄財を盗み出す等の行為に没頭していった。世界最高峰のクラッキング技術を身に付けたエリックは次第に世界の闇に隠匿された真実の核心に迫って行く。惨殺された兄の復讐に燃える、ラインハルト達との邂逅も同施設で果たし、強固な絆を深めて行く事になる。

 カイルは、エリックやラインハルト達が、黙示録の旅団としての活動に傾倒して行くのを影で支援した。統合軍及び行政府のネットワークから完全に彼等の存在を隠匿したのだ。サイバー戦のあらゆる技術を叩き込んだエリックと、反政府活動を展開する事を企てる黙示録の旅団は、カイルとシュトロハイムの計画にとって都合の良い存在だった。統合軍と行政府に対する反逆の烽火を上げ、その強固な体制を瓦解させる事。その目的に同調する者は高度管理社会の到来を以っても少なからず存在していた。

 民族主義的な思想、宗教的概念、極度のアナーキズム、旧世紀の遺産を色濃く受け継ぐ者達は、悉く異端と見做された。彼等は、シュトロハイムの暗躍を望んで支援した。独善的イデオロギーの盲信に囚われた暗愚の徒は、シュトロハイムの真意を見抜く事が出来ず、容易に資金源となった。

 あらゆる紛争はシュトロハイムと敵対勢力の統合軍軍事科学顧問のカオス・ローゼンバッハに因りコントロールされ、両者の存立基盤強化に貢献している。繁栄を極める高度管理社会の陰で、踏み躙られた多くの生命。その怨嗟の念が、暗き渦を巻いて世界の歪みから噴出する。微塵に砕かれた夥しい血肉で塗り固められた欺瞞の平和。何の疑念も懐く事無く栄華を享受する人々は、世界の闇に蠢く謀略に自らの運命を委ねようとしていた。


 カイルは世界の変遷の全容を、獲物を狙う猛禽の様に俯瞰で見下ろして居る。隙が在れば、疾風の如く獲物に襲い掛かり、鋭い嘴と鉤爪で臓物を抉り出す。その瞬間、彼は世界の支配者と成るのだ。だが、その歓喜に満ちた瞬間も束の間の自己満足に過ぎないであろう事を、カイルは熟知していた。如何にサイバースペースで覇王の様に猛威を揮おうとも、現実世界は統合軍と言う巨大な力が実権を掌握している。驕り高ぶり、自意識を肥大させて自滅する愚昧な我執を、カイルは持ち合わせては居ない。常に冷静沈着に、機を逃さず的確な行動を選択する。

「ロイド、仕事の時間だ。」

カイルは傍らのマイクに向かって呼び掛けた。

「おはようございます。マスター。」

落ち着きの感じられる男性の音声がスピーカーから響く。

「ロイド、アウター・タウンの端末に不正侵入が検知された。犯人とコンタクトを取りたい。クラッキング侵入経路を逆探知しろ。」

「了解。可及的速やかに侵入者及び接続端末を割り出します。」

カイルの居るモニタールームの一角に在る古風なアンティークのデスクに腰掛けて居た、完璧に身なりの整った初老の男性は、一流の執事然とした挙措で、カイルの言葉を受けると一部の無駄も無い動きでモニター前に設置された機材に歩み寄り、蒼白く発光するセンサーに掌を翳すと、十数秒程モニターの画面が目まぐるしく変化して、最終的に文字列を表示した。

「作業完了しました、マスター。侵入経路を表示します。」

モニターに表示された侵入経路は、統合軍や行政府に察知されない様に構成されたアンダーグラウンド回線に、侵入者がダイレクトでアクセスした事を示していた。

 アクセスポイントは、アウター・タウンのサイバー・トリップ施設である事が判明した。

 サイバー・トリップとは、脳内の神経信号と外部コンピューターの電子信号を同調させて、仮想空間での疑似体験を可能にするシステムだ。シティの若者の間でも密かな人気の在るレジャースポットだが、脳障害の誘因となり、トリッパーが廃人になるケースが稀に在る事と、現実の世界で努力する事を忘れて耽溺する常習者が多く、そう言った者の中には政財界の重鎮達の子弟が少なからず存在する事で問題視されている。但し、その様な現実が明るみに出れば、重大なスキャンダルに発展する事は必定で、発覚を懼れた者の政治的圧力に因り、警察機構が表立って摘発する事が出来ないのが実情だ。当然の如く、その利権には裏社会を支配する犯罪組織ザイードも目を付けて居る。

 既に、サイバー・トリップに溺れた政財界の大物達の子弟に関する情報を掌握したザイードは、表社会への干渉を強化する計画を練り上げて居るところだ。サイバー・トリップ施設設立とシステム構築には、カイルが少なからず関わっている。ザイードと直接的な関係を持つには至って居ないが、カイルの活動が綺麗事では在り得ない事実を示している。

 エリックからのメッセージを受けて、カイルはサイバー・トリップ施設を介してコンタクトを取る事を考慮した。現実に会談の席を設けるより賢明な選択と言える。エリックの言う人物と仮想空間で邂逅を果たし、その真意を量り方針を検討する。更にエリックのメッセージの内容に拠れば、シュトロハイムに貸しを作るに充分な情報を得る事も出来そうだ。

 統合軍が極秘裏に開発した生体兵器の存在。廃棄処分にされた経緯から、直接的な脅威とは成り得ないと推察されるが、統合軍の軍事科学力の底知れなさを端的に示す情報と言って良い。迷宮のミノタウロスの処遇は、シュトロハイムに全面的に任せる事に決めた。解析の為に様々な人道を無視した検査が実施されるだろうが、カイルには興味が無かった。

 だが、統合軍の“審判の光”プロジェクトは、看過出来ない情報だ。シュトロハイムが警戒を呼び掛けて来た最大の脅威であると言う事は、カイルも認識していた。当面はその詳細を把握する為に、尽力する必要が在る。エリックなら、その役目を充分に果たしてくれるだろう。デコイとして利用すれば、統合軍が喰いついてくる可能性も在る。

 利用価値の認められるものは、喩え近親者でも利用する。非情とも言える合理主義が、カイルの行動哲学だ。惑星全域を支配する巨大な敵に対抗する手段として、カイルは己の人生から様々なものを切り捨てて来た。掛替えの無い友、最愛の恋人、地位や名誉。失うものの無い孤高の存在にまで己を昇華させ、統合軍に対抗し得る絶大な力を手にした。過去の暖かな想い出も、カイルを縛る事は無い。居心地の良い記憶の底へ逃避する事は絶対に有り得ないのだ。過酷な現実と常に対峙する事で、神経を鋭敏に研ぎ澄まし、世界の趨勢を感知して、過去から現在、未来へと続く時間軸上に存在する無数の選択肢から、誤らずに最良の一手を選択する。判断のミスが破滅へと運命を分岐させてしまう危い綱渡りを続けて居る様なものではあるが、リスクに見合うだけの成果は得られる。今回の選択も、エリックの言う人物が如何なる目的を持って居るのかは兎も角、リスクを負ってでも会見する価値が在ると判断した故の事だ。

 統合軍の支配体制は堅牢そのものだが、その一角でも突き崩す事が出来るなら、自分やシュトロハイムにも付け込む隙が生じる。統合軍の存立基盤を瓦解させる為なら、カイルはどの様な犠牲を払っても構わないと考えて居た。己の全存在を賭けて、嘗ての自分から全てを奪った統合軍に復讐を果たす。その時が訪れるまで、カイルは過去を振り返る事はしない。記憶の奥に封じ込めた感情は、静かに開放の時を待っている。果たしてその時は訪れるのか、それはカイルにも判らなかった。だが、後悔はしていない。喩え、闘争の渦中で死を迎える事になっても、それは統合軍の喉笛に喰らい付いてからだ。最後にカップに残ったカフェ・ラテを飲み干して、エリック達との接触の準備を始めたカイルの瞳は、電子の神の眼に相応しい輝きを帯びていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る