第10話
カランカラン。
「リア姉……助けてー……」
真っ青な顔で昼間の店にやって来たのはソラーナだった。
ディアンとの結婚式から約四ヶ月。
ソラーナは現在、妊娠三ヶ月。つまり、彼女は
匂いに敏感になり過ぎて普段の食事もままならないらしく、日に日に痩せてしまっているのだ。
「母さん達にリゾットを出されたんだけど……あの穀物の匂いが駄目なのー」
カウンターの近くに腰を掛け、テーブルに突っ伏すソラーナ。
皆が何も食べられないソラーナを心配して、アレやコレやを用意してくれるそうなのだが、どうやらどれも口にも入れられないらしい。
私自身が出産の経験が無い為に、悪阻がどんなに辛いのかは分からない。
しかし、ソラーナの様に悪阻が酷い妊婦は何人も見てきた。
夜の居酒屋の匂いは駄目だが、昼間の薬屋の方の匂いは平気……というか、寧ろ落ち着くと言うソラーナは、最近は頻繁に駆け込んで来ているのだ。
「あー……穀物の匂いが駄目な子は多いよね」
そっとソラーナの頭に触れると、ソラーナがパッと顔を上げた。
「何か……良い匂いがする!」
「大丈夫?気持ち悪くならない?」
「うん!コレは大丈夫!」
私は手にしていた小さな瓶をソラーナに渡した。
「コレはベルガモットの香油だよ。妊婦さんでも安心だし、リラックス効果を付けてあるから、ハンカチに少しだけ付けて持ち歩いて。気持ち悪くなった時に少し嗅ぐだけで気分がまぎれるよ」
ベルガモットは柑橘系のサッパリとした匂いだ。
「嬉しいー!ありがとう」
ソラーナは小瓶に頬ずりをしている。
「後はトマトのスープを作ったから、夕飯前にディアンに取りに来てもらってね」
「本当!?やったー!リア姉大好き!!」
「はいはい。少しでも飲んで力を付けておかないと」
このトマトのスープは師匠から教わった秘伝のスープだ。
……なんてね。
細かく切った生のトマトとセロリ、にんじん、キャベツをアッサリした鶏の胸肉と一緒に煮て、ショウガ、塩、胡椒で味を調えるだけの簡単なスープなのだ。
これにすり下ろしたチーズやパセリを添えても美味しい。
『このスープだけは食べられる』という歴代の妊婦達のお墨付きでもある。
今回、ソラーナもその仲間入りを果たす事になったのだ。
しかし……このスープは、完成するまでの匂いが相当きついらしい。
完成してしまえば気にならなくなるのに、だ。
作り方を教えても本人が作れないという難点があるので、私がある程度の量をまとめて作って渡す様にしている。
子供はかけがえのない宝物だ。皆で慈しみ育てる。
エーカー村では昔からそうして支え合ってきた。
微力ながら、私や師匠もそうして今まで生きてきた。
カランカラン。
「ソラーナ、やっぱりここにいたか」
次の来訪者はカイトだった。
……あの日から何となく気まずくて、まともに話すことが出来ていなかったりする。
「いらっしゃい。カイト」
私は出来るだけ不自然にならない様に笑顔を作った。
「ああ……」
ぎこちなく笑うカイト。
「……二人共、何かあったの?」
ソラーナが眉間にシワを寄せながら私とカイトを交互に見ている。
「何でもない。な?……リア姉」
「あ、うん。ソラーナの気のせいだと思うよ?」
カイトに合わせて私は首を傾げた。
「それよりも、ディアンが心配してるから帰ろう」
「はあ……。気持ちが悪いだけで身体は元気なんだけどなー」
「その気持ち悪いのが問題なくせに」
溜息を
「……あ、カイトが付き添ってくれるなら、ソラーナの家までスープを運んでくれる?」
ディアンが取りに来るよりも今持って行ってもらった方が助かるだろう。
「良いよ。どこにある?」
「今、取って来るよ」
私は踵を返しキッチンに向かった。
そして、コンロの上に置いておいた蓋付きの鍋を手に取った。
お店に戻ると、カイトとソラーナが談笑していた。
幼馴染みである彼等は変わらず仲が良い。
その仲間に入れない自分が……普通ではない『私』という存在が歯がゆい。
「……っ!」
思わず噛みしめてしまった唇の痛みで我に返る。
深呼吸を何度か繰り返して気持ちを落ち着かせ気持ちを切り替えた私は、ようやく二人の元へ戻ることが出来た。
「……お待たせー!」
よいしょっと蓋付きの大きな鍋をカウンターの上に置く。
「随分でっかいなー」
「私の命綱だもん!……リア姉、いつもごめんね」
「良いんだよ。私に出来ることはこれ位だから」
私はシュンと肩を落としながら眉を寄せるソラーナの頭を撫でた。
「じゃあ、今度こそ帰るぞ」
カイトが軽々と大きめな鍋を持ち上げる。
「じゃあ、ソラーナとお鍋よろしくね」
私は二人を見送る為に一緒にお店を出た。
「リア姉ありがとう!また明日も来るよー!!」
「ほら、ちゃんと前向いて歩けよ。転ぶぞ」
「大丈夫だもーん」
「お前が転んだりしたら、俺がディアンに殺されるからな?」
「あはは。何それー」
私は二人が見えなくなるまで手を振りながら見送る。
……あの優しい手を私は振り払ってしまった。
幸せになれたかもしれないのに、臆病な私はソレを拒んだ……。
羨ましいと思うのは……あまりにも自分勝手すぎる。
でも……私は。私は……。
ギリッと軋んだ胸をギュッと押えた私は、踵を返してお店の中に戻った。
そんな私を木の陰から見ていた者がいたことに気付かずに――。
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