09.明日夢【五日目 八時五十六分】
最近は、よく眠れない。
僕たちの教室は「本館」と呼ばれる建物の二階にある。学校の敷地内にはそれとは別に、「寮」と呼称される建物があった。
そこは色んな面でちぐはぐだった。外観は白く、少し古ぼけていて、本館や他の建物と違和無く敷地内で解け込んでいる。だが扉を開けると妙に綺麗なのだ。
イメージとしては、高校受験の時に一度利用した、サラリーマンがよく使うビジネスホテルに近いのではないかと思う。
二階が男子専用フロアで、三階が女子専用フロアとなっていた。
鍵は、一日目の帰りのホームルームで渡された。寮の説明がなされている最中、机に突然現われる。カードではなく文字通りの鍵だ。部屋番号に規則性は排されているらしく、そこから出席番号などを窺い知ることが出来ないようになっていた。
中にはベッドと簡素な机があり、シャワーを浴びる場所も、お手洗いもある。近代的な画一された設備だ。
何処から電気が通っているのかは分からない。水道や下水などのシステムも不明だ。洗面所には歯磨きも、歯磨き粉もある。それが普通にドラッグストアなどで売っていそうなもので、笑ってしまい、同時に不気味になる。
少なくとも、僕たちをこの不可思議な世界に監禁し、ゲームに巻き込んだ人間は、日常平面の世界に所属しているのだ。ドラッグストアの存在を知り、そこで身の回りのものを調達させるような……。
寮の廊下には、紙が一定の間隔で張られている。
《寮では静かにしましょう。夜は十時には寝床に就きましょう》
初日にそれを破ってしまった男子生徒がいて、彼の苦悶の叫びが寮全体に微かに響いた。十時は過ぎていなかったので、誰かに話しかけでもしたんだろう。
叫び事態にも罰則が課されるらしく、何度も何度も彼は声を上げ、最終的には布でも口に含んだか含まされるかして、大人しくなった。
ここは、そういう場所だった。
朝食と夕食は、部屋の中にある蓋付きトレーにそれぞれ用意されていた。温かくも無いそれを食べる。大体がパンと果物、チーズ、スープのようなものだ。
不自由だということを、そのときになって実感する。
着替えのカッターシャツや肌着、下着などは多種多様なサイズが揃えられていた。制服の上着やズボンは一着しかないので、出来るだけ汚さないように着る必要がある。
使ったタオルや衣類は、登校する前に部屋のランドリーボックスに入れる決まりになっていた。下校して戻って来た頃には、新品が用意されている。
寮の入り口には、こんな張り紙もあった。
《寮からは朝八時半には出ましょう。日中はロックがかかります。ひきこもりを除き、日中に寮内にいることは罰則事項となります》
そんな寮と本館を往復するばかりの毎日だ。下校時刻は午後の五時から七時と決まっていて、それを過ぎた場合でも罰が生まれる。
学校での昼食は、時間になると《給食委員》が配膳室と呼ばれる場所からコンテナを引いて持って来た。お行儀よく列になって並び、食器を手にして配膳を受ける。
それは温かく、量も《給食委員》が融通してくれる。だけど、《給食委員》が消えたらどうなるのだろう。
机を合わせることもなく、僕たちは自分の机で食事を摂る。その時は、大体が無言だ。皆、食事に本気で向き合っている。下手をすれば、これが最後の温かい食事になるかもしれないのだ。たまに女の子が泣いていた。
それが、四日目までの僕らの日常だ。
しかし、五日目の今朝、イレギュラーな事態が起きた。
自分が《主人公》だと公言する生徒が現れたのだ。
僕は一瞬だけ、自分の表情を見失った。乾いた脳と感情に、刺激が一粒落ちる。思わず笑いそうになっていた。
《主人公》。何とも格好良い。彼は慈悲深い心を持ち、《殺人者》を一人の人間として気遣っていた。
知らず僕は目を細めていた。
眩しかった。その何かが。同時に愚かだとも思った。
彼の目は信じていた。自分が、誰かを救えると。自分が、何かを成し遂げることが出来ると。
こうやって物語は進んでいく。全ては――反転する。
僕は久しぶりに興奮している自分を発見した。
だが《主人公》の論陣は完璧ではない。誰からも消されてしまう《主人公》。それを嘘で名乗るのは最高の防御に成り得る。針のついた鎧。間違えたものは消える。
思えばゲームマスターのアナウンスも曖昧だった。
『主人公宣言を受諾します。条件、現存するクラスメイトの三分の二以上の前で、自らを《主人公》と名乗ること』
その条件なら、《主人公》以外の配役であっても偽ることが出来るのではないか?
僕は立ち上がろうとした。するとそれを察した人間がいた。いつも僕を見ている《魔女》だ。彼女が僕に目配せをする。お前は座っていろ、と。
その《魔女》が面白がるように質問する。
「待て、お前が《主人公》だとして、どうやって《殺人者》を探す? もうこんなに人は消えている。命は常に一度きりだ。どんなものでも取り返しはつかんぞ。まぁ《殺人者》の側からすれば、自分が消えることだ。生命の基本原理に則り、一日一回は誰かを消すに決まっている。それは、同情する」
そこで彼女は一度周囲の反応を見ようとしてか、言葉を区切った。
「”カルネアデスの板”という寓話を知っているか? 一隻の船が難破し、乗組員は海へと全員投げ出された。一人の男が命からがら、壊れた船の板切れに縋りつく。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。その後、救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪には問われなかった」
今の状況をどこか彷彿とさせる寓話を《魔女》は持ち出し、皆に聞かせようとしている。緊急の状態にあって、自分の命を保つために誰かの命を奪う、その行為……。
「現代でもしばしば引用される寓話だ。日本の法律でも、刑法第三十七条の”緊急避難”に該当すれば、この男は罪に問われない。だが、人の感情としてはどうだ? 人間を蹴落とした人間をどう迎える? このゲームの《殺人者》にしてもそうだ。私が消しました、ごめんなさい。反省しているので話し合いましょう。彼はそう言い出せるか? 皆もそれを快く迎え入れることが出来るか? 《主人公》の言葉も曖昧だ。結局は、我々か《殺人者》か、その図式はやはり変わらない」
すると《主人公》を名乗った男は一瞬、臆したようになった。
《主人公》は《殺人者》との対話を望んでいる。一人の血と肉と情念を持った人間として《殺人者》を扱い、ゲームを終わらせる為に話し合おうというのだ。
ウェストミンスターチャイムが鳴るまで、あと、僅か。
思惑が渦巻く中で《魔女》が続ける。
「時に、なぁ《主人公》よ。仮に貴様が本当の《主人公》だとして……。何故だ? 何故、初日に名乗りを上げなかった? お前が今の調子で《殺人者》に呼びかけていたら、今のような消滅の連鎖は起こらなかったかもしれんのだぞ?」
その一言は、一度にして教室の空気を変えたように思えた。
《主人公》を名乗った男が俯き、再度顔を上げて応じる。
「《殺人者》や、他のクラスメイトに消されることを、恐れてだ」
「ほぉ、まだ消すということがどういうことか明確となっていない初日に、それをお前は恐れていたと」
《主人公》を自称する男の発言を、《魔女》がにたにたと迎える。
演技かどうかは分からないが、男は心痛で苦しんでいるように抗弁する。
「……俺だって人間だ。ゲームマスターにあぁ言われれば、恐れはするだろう。ましてや、それがゲームクリアに関係することだ。そもそも、初日に俺がそう言ったとして、皆は本当に信じたか? 特殊な委員を除いて、クラスメイトは何かの証拠を持っている訳じゃない。言葉と、この身一つしか差し出すものはない。仮にだ、こんなゲームに則って消し合うことはない、《殺人者》よ、俺と話し合おう。そう言って《殺人者》はどう思う? 俺を信じて出て来てくれるのか? 話し合おうと言いながらも罠で、監禁されて消されるんじゃないか。そう思ったりするんじゃないのか?」
その発言に、《魔女》はパフォーマンスでも眺めているように何でもなく応じる。
「それは、今も変わりないような気がするが? いかがか?」
男はそこで、僅かに怒りを滲ませた。
「決定的に、違う。《殺人者》は、苦しんでいるはずだ。決死の覚悟で誰かを消し続け、クラス内には疑いしか溢れてなくて、消耗しているはずだ。ゲーム初日と今では、全く状況が違う」
僕は二人のやり取りの最中に、立ち上がった。
ウェストミンスターチャイムが鳴る。そもそも、と言葉を繋げた。
「君は、本当に《主人公》なの? 僕には……それが疑わしい」
「お前は?」
《主人公》を名乗った男が僕を見つめる。覚悟していたことなのに、激しい動悸に襲われ、僕の視界は途端に虚ろになる。
「
配役を問われているのでないことは、分かっていた。震えそうになる体を必死で誤魔化す。叫びたくなる弱さを、不敵な笑みとして噛み砕く。
《主人公》と名乗った男が、僕に向き直った。
授業が始まろうとしていた。カツカツと、黒板から音が鳴り出す。
授業中に席を立っていて許される配役には、何がある。《主人公》なら配役による制限などない筈だ。その《主人公》を自称する男からの視線を感じていた。
「俺が疑わしいと言ったな。例えばお前が《殺人者》だとして、俺が今からゲームを終わらせようか」
「やってみたらいい。頼む」
背中では汗が玉となって、流れようとしていた。
《主人公》を公言した男はそんな僕を黙って眺めると、やがて頭を振った。
「やめておく。間違えて、機会を逸するかもしれない」
そう言って、彼は席に座る。
僕も同じように椅子に腰掛けた。
大きく息を吐きたかったが、何人かがまだ注目している。それが自分の緊張と取られるのが嫌で、僕は平静を装う。
それからの時間は、無機質なチョークの音が教室を支配した。
今日の一時間目は、皮肉にも国語だった。夏目漱石の「こころ」だった。
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