03.明日夢【一日目 九時五十三分】
ゲームマスターが言ったように、通常の学校と同じように授業が開始された。
一時間目は、古典。
机の中には必要最低限の勉強用具と教科書、ノートが入っていた。ルールが板書された時のようにカツカツと音を立て、黒板に文字が浮かび上がる。
通常の授業と異なるのは、教師から指名されることがないという点だろう。
形式のように授業が進む。途中で《保健委員》が戻って来た。僕を一瞥したが、その視線に敢えて気付かない振りをする。
教室の様子を自分の席からじっと眺めた。
それも全て、配役を見抜く為だ。授業の様子を見て分かることも多い。
恐らく《不良》と思われる少女は、教科書を閉じてノートも書き写さず、これが自分の配役に沿っている行為だろうかと、不安そうに辺りを伺っていた。
授業とは全く関係なく、ピンク色の雑誌を取り出している男子生徒もいる。
それを周りの女性徒が怪訝そうに、いや明確に眉をひそめて一瞥していた。周りの男子生徒は反対に、状況も忘れて何故か覗こうとしていた。《エロマスター》と呼ばれる配役だろう。
他にも、授業中に必死で遊ぼうとしている《陽キャ》がいるが、実際のところ《陽キャ》なのか《リア充》なのかは分からない。ただ、必死という言葉が今の彼ほどに似合う人間もいなかったように思う。
《長い髪の女》は意外にも真面目に授業を受けていた。
「こ~ら。よそ見しちゃダメだぞ」
その声に、注意が隣へと移る。こんな状況だというのに、《隣の席の少女》が楽しそうに僕に声を掛けていた。
意識の中、名前も知らない花が風に揺れる。白い花弁の、それ。
僕は両腕を机に預けると、何も応えぬまま、枕に見立ててそこに額を乗せた。
「って、無視? そういうの、良くないよ?」
迷いながらも尋ねていた。顔を合わせずに。
「どうして、君は……」
「ん?」
「わらっ、て、られるんだ?」
震えた。心と体が。何かに恐怖しているみたいに。それを遣り過ごす手段は一つしかない。全てを噛み殺すことだ。
彼女からの返答は直ぐにはやって来なかった。呼吸が知らず、荒くなる。一つ、二つ、三つと数を数える。
七つを数えたときに《隣の席の少女》は応えた。
「本当は、とっても怖いんだ。そう言ったら君は、守ってくれるかな?」
のろのろと顔を上げる。視線を向けると、《隣の席の少女》は僕を見つめていた。
頷きたかった。守ってみせると。
言いたかった。決して失くさないと。
それが出来ない僕は口を噤み、情けなくも首を横に振った。
「って、ダメだよ。もう、本気で受け取らないでよ」
思わず、顔を俯かせてしまう。《隣の席の少女》はそんな僕を認めてか、声音を優しくした。
「昔から私、愛想笑いが得意だったんだ。どんな状況でも、笑ってさえいれば何とか乗り切れる。その場は誤魔化すことが出来る。そういうのって良く聞く話でしょ?」
あぁ、とも、うん、とも僕は応えなかった。
「そんな自分が、実は嫌いだった。でも、それしか結局出来ないから。だからせめて、生きている間は愛想笑いでも構わないから笑っていようかなって、そう思って」
一時間目が終わるまで、僕はそのまま彼女と目を合わさなかった。
ただ、《隣の席の少女》は一番消しやすいかもしれない。
そんなことを考えていた。
チャイムが鳴り、一時間目が終了する。
ウエストミンスターチャイムと呼ばれる、あの何処の学校でも聞くことが出来る鐘の音が、ここでも我が物顔をして鳴っていた。
教室の皆は、休み時間をどうしようかとそれぞれ伺っていた。
知り合いもおらず、自己紹介もしていない。役職も与えられただけのもので、担任もいない。入学式を飛ばしたそんなクラスの授業初日は、案外こんな感じかもしれない。そもそも、そんな状況が今を除いて他に、ありはしないのだろうけど。
僕は休み時間らしく、教室から出て行こうと思った。行動は可能なら、信頼できる人間との二人一組が良いのだろう。だが僕は、それを気にする必要がなかった。
一人になろうとして、或いは誰かを誘い込もうとして席を立つ。
「おい、明日夢とやら」
声に応じて顔を向けると、《長い髪の女》が直ぐ傍で腕組みをして立っていた。構わずに横を通り抜けようとすると、「何処に行く」と手を掴まれた。
再び彼女に目を遣った後、その手を振り払って歩き出す。背後からせせら笑うような声が聞こえてきた。
「上等だ。そんなに私が嫌なら、これから毎日のように付き纏ってやるからな。覚悟しろ」
廊下に出る。何処でも良いから、目的地があるように足を進める。後ろから誰かの足音がした。
「あの、ちょっと待って」
廊下を曲がった先で、呼び止められる。振り返ると、《隣の席の少女》だった。彼女は一瞬迷ったような素振りを見せながらも、口を開く。
「よかったら、私達、友達にならない?」
無言で彼女を見つめる。蛍光灯が点らない無人の廊下は、蛇の腹の中のようにもトンネルの中のようにも僕を錯覚させる。冷えて、静かだった。
緊張しているのか、彼女の白く細い喉が唾を飲み下すように一度動いた。
「協力して、このゲームを乗り切らない? 役に立たないかもしれないけど……私、《図書委員》なんだ」
「いいの?」
思わず手を壁に着く。明後日の方向を見ながら尋ねると、視界の端で《隣の席の少女》が応じた。
「え? あ、うん。皆に教えるのは問題あると思うけど、友達にならね。こう見えても本には詳しいから、自分に合っている配役でもあるんだ。それにきっと君は、《体育委員》でも《給食委員》でもなさそうだから、配役に利害関係はないし」
僕は引き攣った顔をして、彼女を見る。何処にその根拠があるのだろう。《隣の席の少女》は臆しながらも、何かを信じた目をして言葉を繋げた。
「そう言えば君、さっき凄くキレイな顔をした《髪の長い女の子》に突っかかられた時、夏目漱石の言葉を借りてたよね。実際に言う人いるんだなって、驚いちゃった。お前には愛が無いって言われたから、君は愛を――」
「僕は、《殺人者》だ」
「愛を……告白、して…………え?」
被り続けると言った、彼女の愛想笑いのマスク。そこに今、驚愕の色が飾られていた。それがやがて、引き笑いになる。
僕は激しい痛みを抱え、これからのことを思って奥歯を強く噛み締めた。爪が食い込む程に、拳を強く握る。
毎日、毎日、毎日。
ここで生き続ける限り、僕はこの苦しみを、引きずっていかなければならない。
本当は泣いたり叫んだりしたかったけど、僕の配役でそれは、似合わない。
「じょ、冗談、でしょ? えっと、うんと……あ、あれだ! 君は実は《リア充》なんでしょ? そうだよね、ね? だって、もう二人も可愛い女の子と知り合ってるんだもん。一人はあの《キレイな人》で、もう一人は私、なんちゃって」
焦りや恐怖を早口で誤魔化そうとしている少女に、僕は向き直る。
彼女にではなく、虚空に向けて話すように言う。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。愛は妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。愛は礼を失せず、自分の利益を求めず、苛立たず、恨みを抱かない。愛は不義を喜ばず、真実を喜ぶ。愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える」
そう呪文のように唱えた僕を、彼女は目を見開いて迎える。後ずさろうとしてか背後を見て……。
「新約聖書の言葉だよ。《図書委員》さん? 愛。さっき口に出したよね。愛が……愛があれば君を、消してもいいかな?」
《図書委員》は何も応えず、ただ、口元を後悔に似た形に歪ませる。
―― 一日目にして、《図書委員》は姿を消した。
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