第5話

京阪電車は、京阪地区にあっては地味な存在だ。阪急ほど山の手じゃないし、阪神ほど下町でもないし、近鉄のように長く線路を引っ張ってもいない。

滋味さで言うなら南海電鉄に似てはいる。

ただ、大阪から京都に繋がっているだけ、南海よりも都会的か。

そんな地味な京阪電車だが、テレビ電車や、ダブルデッカーなど、短い区間だけれど、京都への旅を楽しむ工夫は、大いに評価に値する。


淀屋橋からの区間急行のロングシートに座っていると、茉莉子が乗り込んできた。

「あ、パパ。」

「今、仕事の帰りなの?」

「うん。」

向かいのシートが空いていたので、茉莉子と移動する。

「あー、もう疲れた。今日さ、会議があったの。それでさあ、石田君がね、今度のさ。」

と茉莉子の話が始まる。

僕は、また始まったかと思うのだけれど、努めて聞いているふりをしなきゃいけないことに、ややうんざりなのである。

こんな話を延々と人に聞かせようとするところは、茉莉子も大人になった証拠なのだろうか。

というよりも、怜子に似てきたということである。

怜子も、仕事をしている時は、まだ僕も同じ職場なので話の内容は分かるが、結婚をして仕事を止めたら、今度は、近所の奥さん連中の話や、茉莉子の学校の話や、そんな自分の周りの事を、帰った瞬間から始めるのだが、怜子の周りの人間関係も、その人たちの性格も、置かれている状況も知らないまま、聞かされるので、何がどうなのか、全く理解できないまま怜子の話を聞くことになる訳だ。

まだ、結婚したての時は、その誰々はどういう人なのとか、話の内容を理解しようとはしていたのだけれど、ある時に、怜子は僕に話の結論や感想を求めているのでは無いと悟ったときに、話を理解することはやめて、ただ聞き流すだけにした。

とはいうものの、ただ聞き流すだけではエライことになる。

僕が少しでも聞き流している素振りでも見せたなら、「あなた、あたしの話を真剣に効いてる?」とくる訳だから、見た目は真剣に聞いているふりをしなきゃいけないのである。

しかも、たまに「へー。」とか「ほー。」とか、そんな単語を入れるだけではダメなのである。

「それは大変だね。」とか、そんな変化も必要だ。

そして、重要なのが、「あなた、どう思う。」ときたときには、全面的に怜子の一方的な立場に立った意見を言わなきゃいけないのである。

「それは、怜ちゃんの言うことが正しいよ。でも、みんな違うっていうのはオカシイな。」なんてことを言わなきゃいけない。

これを毎日続けるうちに、僕は聖徳太子とまではいかないが、僕の脳の半分を怜子の話を聞くことに使って、もう半分を違うことを考えることに使用できるようになった。

有り難いことである。


そんな怜子の話と同じような話を、今、茉莉子が喋っている。

僕は、「ふーん。そうなんだ。」などと、習得した技術で茉莉子に相槌を打つ。

まだ、茉莉子が未熟ものなのは、僕の相槌に気が入ってないことに気が付いてないことである。

とはいうものの、僕も親である。

こんな風に、素直に育ってくれて、僕に話をしてくれるというのは、幸せなのかもしれないと思う。


すると、茉莉子が急に僕の脇腹を、チョンと突いた。

そして、僕の耳元で囁くように言った。

「見てたでしょ。」

僕は、何のことか分からないので、「何が?」と聞いた。

すると、また囁くように、「赤い服の女の子の脚。」

見ると、前のシートの斜め前に、赤いミニのワンピースの女の子が座っていた。

20歳ぐらいだろうか。

そういえば、真っ赤なミニの裾から、にょっと出た棒のような脚は、ろうそくのような透けた白色で、そのコントラストが妙に、艶めかしい。

幼い顔と、若く見える年齢には、どうにも似合わない脚である。

「バカ。見てないよ。」僕も声を少し抑え気味に答えた。

「いや。絶対に見てた。あたしの話聞いてなかったもん。」

「だから、見てないって。」

「絶対に、視線が脚にいってたよ。顔も向こう向いてたし。」

「顔は向いてかもしれないけれど、脚は見てないよ。だいたいね、電車に乗ってる時はね、そんな真剣に人を見てないの。普段は、ぼんやりと見てるだけだからね。今も、ぼんやり向いてただけで、見てないのっ。」

「でも、イヤらしいい顔してたもん。あ、ママに報告しようっと。」

「バカ。だから見てないっての。」

こんなところも、怜子そっくりである。


それにしても、茉莉子に言われてみると、なかなか色っぽい脚である。

気が付いたら、見てしまう。

なかなか、茉莉子も変なことを気が付かせてくれたものだ。

とはいうものの、ここ2年か3年、女の人の脚を見ても、脚だと思えないという妙な現象が僕に起こっているのである。。

脚と思えないどころか、人間にすら見えない時があるのだ。


不思議である。

目の前に、女の子がいる。

でも、その女の子が人間には見えない。

いや、それも正確じゃない。

目の前の女の子を見て、人間って、こんな形をしている物だったのかと思うのである。


目の前にいるのは、若い女の子である。

普通なら、ちょっとイヤラシイ眼差しで見てもオカシクナイ対象物だ。

でも、そんな男性の異性に対する目で、目の前の女の子を認識することが出来ないのだ。


女の子の着ている服を、想像で剥ぎ取る。

すると、素っ裸の女の子がいるだろう。

その姿かたちが奇妙だ。

こんな形だったのかと、不思議でしょうがない。

脚が2本地面に立っていて、その上に胴体がある。

胴体の下部は、やや膨らみを持って出っ張っている。

お尻だ。

そして、腹があって、胸はオッパイが出ていて、その上に、また細くなって首が乗っかっている。

頭には、口、鼻、目があって、頭の上から髪の毛という黒い糸のようなものが生えている。

そう順番に見ていくと、結滞じゃないか。

奇妙な存在でしかない。

どうみたって、美しくはないだろう。

観察を深めると、イビツな肉の塊にしか見えないじゃないか。


その肉の塊の中には、カルシュウムで出来た骨が、これまた奇妙な組み合わせになって潜んでいて、その間を、胃や腸といった管のようなものが、クネクネととぐろを巻いている。

気持ちが悪い。


肉だって、それを切り刻んだら、汁のようなものが滲み出てくる。

血だ。

その血が、肉の塊の中を、グルグルと回っている。


女の子の肺を手のひらに乗せたところを想像した。

生暖かく、ずっしりと重い。

肺の中は、空気なのに、どうしてこんなに重いのかと首をひねった。


右目を引っ張り出して、僕の目の前にもってくる。

僕の目と、女の子の目と、見つめ合っても気持ちは動かない。

こんなものにドキリとしていたのだろうか。


こんな気持ちの悪いものを見て、今まで欲情をしていたのかと思うと、何とも精神が屈折していたとしか思えないのである。


もっと、奇妙なのは、このそれぞれの器官を分解していくと、この肉体でさえ無くなってしまうことだ。

この肉片を、分解したら細胞になる。

その細胞を分解したら、タンパク質とかの分子になるだろう。

それをさらに分解したら、原子だ。

原子を分解したら、原子核と電子になる。

こんなことは、中学生でも解るだろう。


その原子と電子が、今は何かの縁で引っ付いているから良いものの、これが、その縁が切れてバラバラになったら、もうイケナイ。

この肉片すら存在しなくなってしまうのだる。


スカスカの空間である。

色即是空。

或いは、昔の偉い坊さんも、女性の肉体を見ても、原子と電子にしか見えかなかったのかもしれない。


そんなことを考えると、この女の子の原子と電子の縁が切れずに繋がっていることに感謝しなさいと、女の子に進言してあげたい気持ちなのである。

それにしても、この縁は不思議である。

いや、縁というよりも、何かの義理でつながっているのかもしれない。

何と義理堅い原子と電子であることか。


「ほら、また見てる。」茉莉子がまた、横腹を突いた。

「だから、見てません。」


今目の前にいる茉莉子を見て、茉莉子が、人間として、僕の娘として、見えていることに気が付いた。

怜子や茉莉子といる間は、僕も精神的に冷静でいられるのかもしれない。


「もう、見てないから。」

茉莉子は、話すのを止めて、おかしさをこらえているのか、そんな表情で僕の顔を覗き込んでいた。

「ママには、内緒にしておいてあげる。」

そう言って、笑った。


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