第4話

あれは、茉莉子が小学校に上がる年だった。

怜子が、茉莉子の手もかからなくなったから、何か仕事をしたいって言いだしたことがあった。

僕は、そう思うのも無理はないと思ったよ。

怜子は、僕と結婚するまでは、キャリアウーマンとしてバリバリやっていたからね。

怜子は、働くことが好きだったし、働きたいと切に思っていた。


結婚してからも、まだ働きたいという女性は、最近は多いだろう。

でも、その理由については、さまざまだ。

単純にお金がないから働かなくちゃいけないという人がいる。

これは、仕方がない。

自分の住む場所を確保しなきゃいけないし、食べるものを確保しなくちゃいけないし、寒さをしのぐ服を買わなきゃいけない。

やりたいこともあるが、その前に、まず生きることだ。


しかし、そんな理由で働くのは、辛い。

自分のやりたいことが目の前を通り過ぎて行ってしまうのを、横目で見ながら生きなくちゃいけない。

友人たちが、そのやりたいことの流れに易々と乗っかって滑り去っていくのを、見て見ぬふりをしている自分自身に気が付かないように、目をつぶって固まっていなくちゃいけない。

時間だけが、過ぎていく。

お金がないということは、そういうことだ。


もし、人生を楽観的に考えられる薬が発売されたら、きっと売り切れる店が続出するだろう。

何故なら、僕だって欲しい。


とはいうものの、ただ、生きるために働く。

本当は、それが正解なんだろうな。

そんな風に生きることしかできない僕なんかは、その理由にこころ落ち着くものを感じる。

理由が単純で、これが本来の本当の労働ということなのかもしれない。


そんな、働く理由もあるのだろうけれど、怜子の場合は、そうじゃない。

勿論、僕もそれほどの収入がる訳じゃないけれど、ただ食べていくぐらいのものは、毎月貰ってはいるのである。


女性が働きたいと思う理由に戻ると、もっとゆとりのある考え方もある。

自分の時間が欲しいから共稼ぎをするという考えだ。

ただ、日々を生きていくだけじゃ詰まらない。

旅行もしたいし、美味しいものも食べたいし、自分の時間だって欲しい。

そんな考え方をする若い人は増えているのじゃないだろうか。

生活設計から見ても、ダブルで働くのは、将来の計画も立てやすい。

でも、怜子の場合は、そういうのでもない。


或いは、こういう理由もある。

自分のお店がやりたいから、だから働きたいという理由だ。

もともと、雑貨やスイーツが好きで、自分でそんなお店が持てたらなあと考えていて、結婚して、少し余裕が出て来たから、この機会に、夢を叶えたいという訳だ。

いいじゃないか。

そんな風に、自分のしたいことを出来るというのは、素晴らしい。

生きていく手段として働くことにガンジガラメになっている僕からみたら、羨ましい限りだ。

生活と夢の両方を手に入れようなんて、それが出来ると信じて疑わない人は、そこから、その人の素性の良さが見て取れる。

普通の人なら、現実世界を見て、いや、見せつけられてと言う方が正解か、そんなの夢だなと、計画する前から、諦めてしまう。

周りの人が、そうだからである。

でも、出来ると考える人の周りには、それが出来てしまう人が自分の周囲に集まっているのだ。

だから、出来ると最初から疑わない。

育ちが違うのである。

とはいうものの、怜子の場合は、そういうのでもない。

別に、これという趣味もないのだから、こんなお店を持ちたいなんてこともない。

だから、自分で何かをしようとは考えていないのである。


或いは、こんな理由の女性もいる。

ただ、身体を動かしたいという女性である。

所謂、貧乏性というやつだ。

じっと座ってテレビを見ているなんてできない女性である。

動かなくても良いものを、動いてしまう。

ただ、それだけなら良いのだけれど、人が動いていないと、それを批判しだしたりするようになると、これは厄介なことになってくる。

すべてが自分を基準にして考えるからだ。

考えてみれば悲しい女だけれども、本人は案外幸せなのかもしれない。

とはいうものの、怜子は、これにもあてはまらない。


怜子が働きたいと言い出したころのことを考えていたら、ベランダに鳩が飛んできて、ポポと鳴いた。

僕は、鳩を追いやろうとベランダの戸を開ける。

わざと大きな音をたてて開けたのだけれど、いっこうに逃げる様子もない。

ただ、鳩はそこにいる。

僕は、さて、どうしたものかと、鳩を見ているのだけれど、鳩も僕を意識しているのかどうなのか、ただそこに居る。

困った。

足音を立てて脅かしてみようか。

2、3度、スリッパで、パタパタと音をさせてみたが、1メートルほど後ろへ下がったはいいが、そのままだ。

そうだと気が付いて、排水溝に木の枝を運んできていないかを確認した。

以前、ベランダの排水溝に鳩が卵を産んで、さてヒナが生まれるかと見守っていたら、ついに孵らずに、そのまま鳩は、どこかへ飛んで行ってしまったことがある。

鳩が産み落とした卵を新聞紙でくるんでゴミ箱に捨てるときは、何か大切なものを捨てているという罪悪感にかられて、捨てた後も、ずっと卵のことを考えていたことを覚えている。

鳩のせいで、そんな罪悪感は、また味わいたくない。

当の鳩に至っては、孵らないと分かったら、すぐに卵を捨てて、どこかへ飛んでいった。

いい加減なものである。

でも、それが本来の生き物の在り方なのかもしれない。


そもそも、未練なんて感情があるから、身動きが出来なくなってしまうのである。

愛する人への未練、夢への未練、やりたい仕事への未練、生きることへの未練。

そのどれもが、生きることを窮屈にしている。

それらの未練をすべて捨て去ったときに、人は鳩のように空を自由に飛べるようになるのかもしれない。

そして、最後に残った、人に愛されたいという未練を捨てた時に、人はこころも自由になれるのだろう。

「まあ、いい。」

排水溝に、巣をつくってなければ、鳩がベランダに居るのは、まあ、いいことにしよう。

諦めてベランダの戸を後ろ手に締めたら、ポポと、また鳴きやがった。

いつまで居る気なのかねえ。


黒いマグカップにインスタントコーヒーの粉をスプーンに2杯入れる。

家には、インスタントコーヒーと本格的なドリップ用の豆があるのだけれど、僕が1人で飲むときは、インスタントコーヒーで済ませることが多い。


済ませるというと、どうもインスタントコーヒーの方が劣っているように聞こえるが、そうではない。

とはいうものの、そんなことを言う僕も、始めはインスタントコーヒーを馬鹿にしていた。

馬鹿にしていたというよりは、安物扱いしていたというほうが正解か。

それまでは、自分1人で飲むときも、ご丁寧にも、豆をお店で挽いてもらってドリップで淹れていた。

香りを比べたら、インスタントの比ではない素直さがある。

美味しいことは間違いがない。

それが、最近は、独りの場合は、インスタント一辺倒である。


あれは、たしか10年ぐらい前だろうか。

京都のある美術館に学生時代の友人が勤めていて、用事はなかったのだけれど、京都へ来たついでに訪ねてみたときのことだ。

突然の訪問に、僕の相手などしてはいられなくて、待つことになった。

友人の仕事が一区切りつくまで、事務所の中の応接用のソファに座っていた。

広い事務所に、職員は2人だったか。

何気なく置かれた図録を見ていると、シルクロードの壁画だろうか、大きく見開きの写真があった。

その壁画の赤い色が、京都の祇園のお茶屋の壁の色のようでもあり、どこか四方を山に囲まれた閉鎖された空間に広がる夕焼けのようでもあった。


この赤を、どうやって言葉で表現したら、この色を知らない人にも通じるのだろうかと考えていた。

勿論、ベンガラ色とか、血を感じさせる茜色だとか、そういう言葉はあるだろう。

でも、それだけでは、このシルクロードで砂や風に耐えて来たこの赤を表現できていないのである。

まあ、不可能だろう。

もともと、目に見えるものを、言葉にすることなどは、不可能なことなのだ。


それは、言葉だけに限らない。

今見ている図録だってそうである。

本物を、そのまま写し取るカメラだって、それを正確に紙に描く印刷だって、実物と見比べると、全く違うものであることに気づかされる。

僕は美術館に行くと、何が嫌だと言って、あの最後にあるミュージアムショップが嫌なのである。

折角、素晴らしい絵や彫刻を見て、感動をしたのにも拘わらず、出口で売っている展覧会の図録や絵葉書を見せられると、一瞬にして、今までの感動が陳腐なものにすり替わってしまって興醒めてしまう。

あれは、最新の技術を駆使したって、本物の10パーセントも写し得ないものだろう。

そんなものは、見たくないのである。


詰まりは、写真だって、本物を正確に表現できないのであるから、言葉で何かを正確に表現するなどということは不可能なのである。


ある対象物を、言葉を使って、或いは、筆を使って表現をすることは可能だ。

でも、その言葉や絵から、もとの対象物を、ありありと感じることは、不可能である。

どんな天才が言葉や絵で伝えようとしても、無理な話だ。

ただ、それは読み手の想像に任せるしかない。

一旦、言葉や絵にしてしまえば、それは潔く世に放ち捨てなければならない。

見る者の技量の前には、作者の技量の大小なんて、意味のない話であるからだ。


ある時、僕は写実絵画というものを知った。

千葉にある写実絵画専門のホキ美術館だ。

そこで衝撃を受けた。


今まで、写実絵画なんて、見向きもしなかった。

写真と言う技術がある現代において、見た目をそのまま写すなんていう行為に、果たして、どれだけの意味があるのかと思っていたのだ。

どんなに巧妙に描いたって、写真には敵わないのは明白だ。


絵画とは、自分が見たものをキャンバスに描くのだけれど、そこに対象物の内面を描きこんでこその絵画だ。

そういった試みが、今までの絵画の流れになって発展してきた。

あるいは、今見えている部分だけでなく、その裏側や、側面も含む、見えている1部ではなく、見えていない部分も組み入れた全体を描こうとする試みが、絵画である。

そんな試みが、ある表現では、極端にデフォルメさせていたり、抽象的になったりと、見ている物を迷わすような表現になってしまうのである。

でも、それが求めるということだ。


そんな絵画に対する考えが、このホキ美術館に行った時に、まったく覆されてしまった。


中でも、生島浩さんの作品を見た時に、これは写真を超えていると、ハッキリと感じたのである。

写真は、あくまでも、その見えている物を、忠実に写し取るものである。

なので、完全に写し得たとしても、コピーの範疇を出ることはできない。

でも、生島浩さんの「5.55」を見た時は、その絵の前を動くことができなかった。

対象物の素材の女性の美しさもあるけれども、その絵の中の女性に恋をしてしまったのである。

ずっと立ち尽くしていた。

僕にとっては、その絵の中の女性は、間違いなく実在していたのである。

いや、本物のモデルの女性以上に、実在であった。

そして、その絵の中の女性を、生身の女性を愛すると同じ感情で見つめていた。


写実絵画には、写真などでは表すことのできない実在感がある。

というよりも、実在そのものだった。

変な話だけれど、僕には実在を超えてしまっているようにも思えたのである。


そう考えると、目の前のものを、言葉で表現するには、まだまだ可能性も残っているのかもしれない。

写実言語のようなものだ。


言葉で、そのストーリーにいるような実在感を表すこともできるのかもしれない。

それも超えて、言葉で実在以上の実在を表現することができるのかもしれない。


というか、話が脱線してしまったが、京都の美術館にいる友人を訪ねた時のことである。

そして、インスタントコーヒーの話をしていたっけ。


今みたいなことをソファで考えていたら、女性の職員が、コーヒーを持ってきてくれた。

美術館にいる女性と聞いたら、普通は、化粧などに気を遣わない痩せた女を想像するだろう。

メガネを掛けて、どこか理屈っぽいというイメージは、少しステレオタイプであるか。

果たして、そんな陳腐な想像通りの女性ではあったのが、その時は面白く感じた。


年齢は、40歳ぐらいだろうか。

細身でX脚なのが、僕の好みではある。

「インスタントですけれど、良かったら。」


藍の花柄の染付に、口のところを金で焼き付けしてある昔風のコーヒーカップが、どこか美術館という場所に似合っているなと思った。

そのコーヒーを1口啜ると美味い。

僕の好みも聞かずに持って来たコーヒーは、既に、砂糖とミルクが入れられていて、それがまた、僕をお客として特別扱いしていない心地良さがあるのだけれど、どういったものか、美味いのである。


本格的なコーヒーではないけれども、なんというかインスタントコーヒーの本来の面目を十分に果たして、ここにある。

そこまで気を遣っては淹れてはいないだろうけれども、どうも美味いのである。


人の味の好みは、これは僕の想像だけれど、たぶん小学生ぐらいまでに決まるのじゃないだろうか。

それまでに、食べた味や香りが、その人の好みになって、また味の評価の基準になる。

僕は、小学生の5年までは、父方の祖母と暮らしていた。

その祖母が淹れてくれるお茶は、いつも出がらしで、色は黄色についていたけれど、もう味も何も残っていなくて、何か酸っぱい薄い液体だった。

そんなお茶を飲んでたものだから、今でもそんな味のお茶が好きなのである。


まあ、それもあるけれども、今のお茶は、美味すぎていけない。

少し湯冷まししたお湯でじっくりと淹れたお茶は、旨味もたっぷりで、まあ美味いには美味い。

高級なお茶菓子と一緒に、ゆっくりと楽しむのにはいいだろう。


でも、お茶なんてものは、そう御大層に飲むものじゃない。

適当なお茶のハッパを、適当な急須に入れて、適当に熱いお湯をザアと入れて、そのまま湯飲みに、これまた適当に注いで、ちょこっと飲むのが良いのである。


そこで、インスタントコーヒーである。

かの女性職員が淹れてくれたコーヒーは、そんな僕の過去の味の嗜好を、どこか無意識にくすぐるのか、どうにも美味いのである。

或いは、女性が僕の好みだからか。

それもあるのかもしれないが、そのコーヒーを飲んで以来、僕は、どうにかして、あのコーヒーの味を再現できないものかと、かれこれ10年ぐらいを、独りで飲むときは、インスタントコーヒーで過ごしているのである。

しかし、いまだに、あの味の再現は出来ていない。

今日、僕が淹れたコーヒーは、ややインスタントの粉が多かったか。


さて、怜子の話だ。

怜子が、仕事をしたいと言い出した話である。

女性が、結婚をしても働きたいという理由のことだ。

だいぶん要らないことを、あれこれ考えてしまったが、そこに戻ろう。


人、それぞれ、さまざまな理由があるが、怜子の理由は何だろうと考えていた。

そこで思い当たったことがある。

ひょっとしてであるが、これは他の女性にも、こういう理由が当てはまるのかもしれない。

詰まりの理由は、人に認めてもらいたいという気持ちである。

自分のことを他人に認められたいという欲求。


他人に認めてもらいたいものとは。

それは、自分の才能なのかもしれない。

或いは、自分の頑張り。

或いは、自分も役に立つんだという気持ち。

そういう自分を誰かに認めて貰いたい。


或いは、他の人に置き去りにされたくないという焦りなのか。

それは、よく解る。


僕も、誰かに認めてもらいたいという欲求がある。

それは、何も才能というのでもない。

僕に、取りたてて挙げるような才能なんて無い。

勿論、もし仮に才能もあれば、才能もそう認めて欲しいけれど、そんな1部よりも、僕という人間を認めてほしいのだ。

僕という人間が、今も生きるために頑張っているんだということを他人に認識してほしい。


或いは、もっと低レベルな認めでもいい。

僕が、今、取り敢えずは、生きていて、それでいて、生きていてもいいんだという認め。

才能が無くても、頑張れなくても、役に立たなくても、それでも、僕という人間が、この世界に生きていることが、他人にとって、或いは、特定の人にとって、歓迎すべきことなんだよという認め。

いや、認めというよりも、もっと低レベルな、許し。

生きていて良いという許し。


いや、それじゃ、悲しいか。

僕も一緒にいて良いよという周囲の人との合意なのか。

そんなことを考えて、僕自身、可笑しくなって笑った。


怜子は、そんな女じゃない

どうも、最近の僕はネガティブになっている。

怜子は、いつももっとポジティブに考える女性だ。

自分を、イキイキとさせることを考えている。

いつだって、そうだ。

茉莉子が生まれて、1年ぐらいの時だったかな。

子育ても大変な時期だ。

その時の、怜子は、良い母親になろうと、育児の本を読んだり、人に話を聞いたり、そんなことを一所懸命していた。

睡眠不足で、いつもウトウトしていたっけ。

それでも、通信教育の英会話の教材を申し込んだ。

僕が、どうしてそんなものを、今しなくちゃいけないのと聞いたら、「今から、茉莉子に英語を勉強させるのよ。これからは、英語が必要なの。それでさ、茉莉子が大きくなったら、一緒にアメリカに留学するの。」なんて笑って答えたけれど、あれは、茉莉子の為じゃなくて、怜子自身のために勉強をやりたかったんだよね。

怜子自身が英語を勉強したかったんだ。


育児や、生活のせいで、自分というものが失われたくない。

そんな状況でも、自分はイキイキとしていたい。

そう思っていたのだろう。


いや、怜子がポジティブに考えるというのは、違うのかもしれない。

育児や、生活の中でも、イキイキとしていたいというよりも、或いは、もっとネガティブであったのかもしれないと、僕は気づいていたのかもしれない。

育児や、生活の雑多なことに、紛れ込んでしまって、他の人から、置いてけぼりにされているのではないかという焦りを感じていたのかもしれない。

自分は、今、ここにいるのよと、大声で叫びたい気持ちだったのだろう。

勿論、怜子には、僕も茉莉子もいる。

だから、毎日の生活のなかで、寂しさを感じることはなかっただろう。

でも、寂しさを感じなくても、孤独感を感じていたのかもしれない。

家庭では、存在を認められても、社会では、存在を認めて貰えてないのではないかという孤独感。


怜子の友人の中には、まだ独身で働いている女性もいた。

そんな、友人と話をするのが、気が付いたら減っていたね。

自分から孤独になろうとして、どうするのよ。

そう考えると、怜子が買った通信販売の英会話の教材も、別に英会話でなくても良かったのかもしれない。

何かの資格の教材でも良かったのだろう。

資格があれば、次の就職にも役に立つ。

それに、資格があれば、それだけで、自分というものは、何の能力もない女性なんかじゃなくて、社会に必要とされている人間なんだという自信が持てる。


それにしても、人に認められたいという気持ちは、男性よりも女性の方が強い。

僕の会社の仕事では、色んな会議もあるけれど、女性だけの会議というかミーティングがあった。

女性社員だけが集まって、会議をするのだけれど、何気なく聞いていると、相手に対する攻撃が、すこぶる激しいのだ。

誰の、どういうところに問題点があるということを、延々とやっている。

どういう問題点があって、それをどう解決していくという全体的な話には、とうていならない雰囲気が、こぼれてくる声からも解る。

男性の会議では、ああも激しく口論にはならない。

どこかで妥協がある。

女性って、よっぽど自分に自信があるのだなと、怖くなった。


その会議は、大きな部屋の片隅をパーテーションで区切った場所で行われていたのだけれど、ある時、頻繁に若い声だけれど、強めの口調で喋る声が聞こえてくることに気が付いた。

1年ぐらい前に入社した新人である。

いつもは、タータンチェックの膝上のスカートに丸い襟のブラウスというような、学生が着るような若い格好をしている子だ。


いつも明るく、その服装のように可愛い仕草なので、男性社員の誰もが目を掛けたくなるような雰囲気を持っている。

あ、あの子の声だなと思ったら、「そーなんですけど、、、、あーだこーだ。」と、相手の言う言葉に対して、反論をしているようなのだ。

それに気が付くと、気になって仕方がない。

「そーなんですけど、、、あーだこーだ。」

「そーなんですけど、、、あーだこーだ。」

よっぽど自分の意見を通したいんだなと、すごいなと彼女を評価しつつも、普段の彼女の仕草とのギャップに、少し引いてしまうのを感じた。


自分が認められたいのか、或いは、自我が強いのか。

まあ、認められたいというのも、自我のなせる業ではある。

その時に、女というものは、自我によって生きる生物だと悟った。


怜子が仕事をしたいと思う理由は、そんな感じだろうというのが僕の推測だ。

違うのか、いや、たぶん、そんな感じだろう。


それで、怜子が僕に、仕事をしたいと言ったときの話だ。

また、少し脱線をしたが、話を戻そう。

怜子が僕に仕事をしたいと相談したときの話だ。

いや、話を戻すというより、その時の僕と怜子の話である。


茉莉子に手が掛からなくなってきた時で、怜子は仕事をしたいと僕に訴えたのだ。

でも、ここで僕は、自分の考えと違うことを怜子に、あえて強いなければならなかったのである。

ある理由のために、、、。


話をしている間に、怜子が仕事をしたいという気持ちが、社会から取り残されていくんじゃないかという焦りや孤独感から来ているということが解った。

そういうことだと思う。

そして、その切なる願いというか、僕に助けを求めているような気持ちは、話しぶりで、ストレートに伝わってくる。


僕は、胸が締め付けられたよ。

そんな怜子に、僕は、その必要はないと言った。

でも、怜子は、僕に話を続けたね。

何度も僕に仕事をしたいということを繰り返す怜子を見ていた。

そして、怜子の「私、ここにいるの。誰か、私を見てほしい。」というこころの悲鳴を聞いていた。

怜子の寂しさが痛いほど解った。

怜子の焦りが苦しいほど伝わってくる。

それを見ている僕も、同じように辛かった。

今にも、「好きなようにしていいよ。」と言ってあげたかった。

抱きしめて、「大丈夫だ。」と言ってあげたかった。


でも、僕は、それを、その気持ちを、押さえつけるのに必死であったのだ。

「怜子、愛している。」

そのことを、僕は、何度も何度も、心の中で叫びながら、怜子の話を聞くことに耐えていた。


「もう、茉莉子も小学校だから、少し時間もあくじゃない。だから、その間だけでも、何か出来る仕事あるんじゃないかって思って。」

「そうなのかなあ。でも、他のお母さんは、働いてないんだし、PTAとかの活動もしなきゃいけないんじゃないのかな。」

「それはそうだけれど、それもちゃんとやるからさあ。お願い。」

「いや、それはなかなか難しいよ。口では言うけれどさ。」

「あたしだったら、出来るよ。それにさ、収入も増えたらさ、みんなで旅行にも行けるじゃん。楽しいことも増えるよ。だからね。」

「でもさ、、。僕の夢も言っていいかな。僕は、子供の頃、親が共働きだっただろ。だから、いつも寂しい思いをしていたんだ。だから、もし僕が親になったら、僕が働いて、奥さんは、いつも家にいて、子供が学校から帰って来た時は、お母さんが優しく迎えてくれる。そんな家庭を築きたかったんだ。それが僕の夢なんだ。」

「そうなんだ。でも、あたしが働いても、茉莉子のことを優しく迎えてあげられるよ。あなたのことも、優しく迎えてあげるからさあ。」

「そこまで言うなら、好きにしたらいいよ。でも、怜子は僕の夢を破っても、自分の仕事をしたいんだね。僕よりも仕事なんだね。」


そういったら、しばらく黙っていたけれども、「分かった。じゃ、あたし、仕事はやっぱりやめる。家にいるよ。」とニコリと笑った。

どれだけ悔しい思いをしただろうね。

それを思うと、僕は、その場で泣きそうになった。

自分で言っておきながら、僕の話した言葉が、僕の首を絞める。

今からでも、仕事をしたらいいよと、言ってあげようと、何度も思ったが、僕は口を開かなかった。


何故、笑うの?


僕は、その笑顔を今でも忘れることができない。

自分の夢を諦めて、相手に夢を譲る。

それは、自分自身を捨てることでもある。

自分自身を捨てたら何が残るのか。

残るものは、自分以外の物である訳で、それは、怜子の場合、僕と言うことになるのであろうか。


いや、こんな仕打ちをする僕は、残る権利なんて、毛頭ないのである。

それにしても、こんな無理やりな理屈の僕の言葉に、心の中では、反発をしながらも、笑顔で納得してくれた怜子のことを考えると、自分がどうにも情けなくなって、思いっきり自分の頬を殴った。

でも、力が入らない。

なんて、ダメな男なんだ。


怜子に、仕事をさせてあげたい。

そして、毎日、イキイキとした、本来の怜子であってほしい。

怜子が、みんなに認められて、自信のある怜子であってほしい。

そんなことよりも、怜子が喜んでくれたらそれでいい。

怜子が、笑ってくれたらそれでいい。

今からでも、イエスと言ってやりたい。


でも、ダメだ。

どんなに辛くても、僕は怜子に仕事をさせてはいけないのだ。

怜子にイキイキとした毎日を送らせてはいけないのである。

怜子を笑わせてはいけないのである。

僕は、唇を噛みしめて耐えるほかはなかった。


「怜ちゃん。ごめん。僕が無理を言っていることは、僕自身、よく解っているんだ。でも、僕は、いつもそばに君がいなくちゃだめなだ。」

「何、変な事言ってるの。だから、今の話は、もうお終い。」

「本当に、ごめん。これだけは言いたいんだ。僕は、怜子も、茉莉子も、愛している。だから、怜子も、茉莉子も、いつも笑って暮らせる家庭にしたいんだ。」

「だから、それは、解ったって。いつも、あたしは笑顔だよ。」

「そう、いつも怜子の笑顔に、僕は救われているよ。だから、怜子が家に居てくれるなら、いつも僕は、家庭で幸せを感じていられるし、茉莉子だって、嬉しいに違いないよ。」

「分かったって。でも、茉莉子も私に、家にいて欲しいのかなあ。」

「欲しいに決まってるじゃない。好きな人には、1秒でも長くそばにいて欲しいと思うのが普通でしょ。それが、夫婦だし、それが家族なんだよ。」

「そうかなあ。でも、茉莉子は知らないけれど、あなたが、そういうなら、あたしの仕事の話は無しでいいよ。家にいるよ。」

「ありがとう、、、、悪いな。」

「何が、悪いの?」

「いや、なんでも。」

「でも、珍しいね。こんなに、私の事、反対するなんて。」

「だって、愛してるから。」

「ふーん。あほみたい。」

また、怜子が笑った。


でも、僕が、何か言えば言うほど、理屈がおかしくなってくる。

こんな話で、本当に、怜子は納得したのだろうか。

でも、それを怜子に確かめてはいけない。

今の話で、怜子がどういう風に、僕の話を受け取ったのかは、考えちゃいけない。


兎に角だ、怜子に、仕事をさせては、いけないのである。

その仕事が怜子を、本来の怜子にするものであるなら、それはさせてはならない。

怜子に、イキイキとした生活をさせてはいけないのである。

そういう風に、僕が考えていることを思うと、怜子が可哀想でたまらない。

本当は、怜子にイキイキとした毎日を送らせてあげたい。

どうにも、不憫でならないのである。

でも、怜子が幸せになってはならないのである。

そういう風に考えていることを、怜子が知らないことが、可哀想でならなかった。


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