第2話
「こんなに早く帰ってくるんだったら、もっと違う料理作ったのに。」
「予定していた残業がなくなってさ。えっ、今日のおかずは何なの。」
「いつ帰って来ても大丈夫なようにと思って、おでんにしたよ。」
「そうなんだ。でも美味しそうじゃない。」
「でも、おでん、そんなに好きじゃなかったでしょう。」
「それほど好きじゃないって知ってながら、わざわざ作る奥さんがいるんだね。」
「はーい。ここにいますよー。」
僕は、おでんという食べ物に、いささかの疑問を常々抱いている。
それぞれの具材は、煮込むという作業をすることなく、そのまま食べた方が美味い。
具材の例で言うと、ゴボウ天は、その傾向が顕著だ。
そのまま食べる方が、甘みも弾力もあって美味いことは、誰でも思うだろう。しかも中のゴボウに至っては、その歯ごたえは生でなくっちゃ意味がない。
しかるに、おでんという料理は、それらを全部煮込んでしまう。
つまり、おでんという料理は、素材の本来持っている良さを破壊してしまうという不条理な食べ物なのである。
ただ、どうせ煮込むなら、とことん煮詰めて、具材本来の持ち味を、そのおつゆの味が染み込んで、見た目もクタクタになるまで煮込んで欲しいのである。
中途半端が一番いけない。
そんなおでんを、怜子は僕がその調理法に疑問を抱いているのを知りながらつくるのである。
それこそ不可解だ。
「あ、それから。あと、サラダと酢だこも作ってあるよ。そえからね、出来合いだけど、焼き豚もあるし。他に何か作ろうか。」
「それだけあれば、十分だよ。」
怜子は、僕が毎日晩酌をするものだから、おかずは少なくとも3品、余裕があれば、5、6品用意してくれる。
パートから帰ってから、これだけのことをするのは大変だとは思うのだけれど、毎日作ってくれるのである。
友人に言わせると、尽くされているというのだけれど、おかずを沢山作るのがイ
コール尽くされているということではないだろう。
とはいうものの、僕には料理以外のことをも考えに入れてみると、やはり尽くされているのかと思う。
それにしても、尽くされるというのは、どういうことだろうか。
自分のことはさておいて、僕のために時間も割いて、僕のためになるであろう事をやってくれるということであるとするならば、怜子は僕に十分尽くしてくれている。
しかも、そうすることを、怜子は喜んでいるようにも見えるのである。
そう思うと、僕は本当に幸せな夫であり、幸せな家庭を怜子のおかげで持つ事が出来ていると思うのである。
「怜ちゃん、いつも僕に尽くしてくれて、ありがとう。」
「そうだよ、毎日尽くしてるんだよ。でも、どうしたの、そんなこと急に言って。気持ち悪いよ。」
「いや、別に。」
「止めてよ、もう。明日死んじゃうみたいなこと言うの。」
「でも、本当に感謝してるんだ。大変だろう、僕のために色々やってくれるのって。疲れてる時もあるだろう。」
「なによ、だから気持ち悪いって。でも、あなたが喜んでくれると嬉しいから。」
「あれ、怜ちゃんも気持ち悪いこと言いだしたね。もう夫婦で気持ち悪い話の仕合っこしても気持ち悪いから、この話は止めよう。でも、これからもよろしくだよ。」
「はーい。はは、でも、それは約束できないかもよ。だって私の方が1個年上なんだからさ。」
「ダメだよ。健康で長生きして、僕の介護してくれなきゃ。」
「そうだね。そんな風に出来たらいいんだけどね。」
そう言って、怜子は笑ったが、僕にはどうしてだか切ない顔に変わったように見えた。
いや、気のせいなのだろう。
「茉莉子は、まだ帰ってないの。」
「うん、今日は会社の飲み会があるそうよ。」
「そうなんだ。」
「心配ですか。」
「いや、別に。でも今の会社に好きな人とかいるのかな。」
「そりゃ、いるんじゃないの。さては心配ですか。心配だ、心配だ。ねっ。」
怜子は、からかうように嬉しそうな顔で言う。
「別に心配じゃないよ。でも、怜ちゃんは聞いてるんだろう、彼氏とかいないんだよね。」
「やっぱり心配なんだ。どうなんだろう。いないと思うよ。」
「そうか。」
「でも、もうそろそろ彼氏ぐらい作らなきゃね、茉莉子も。」
「それは、そうだけどね。」
僕は、茉莉子に彼氏ができることに反対ではない。
僕が、こんな風に頼りないから、茉莉子を助けられる人は多ければ多いほどいい。
いざとなった時、そして僕がいなくなった時に、茉莉子に辛い思いをさせたくない。
いや、辛い思いをさせた時に、支えになってくれる人がいなければいけないのである。
それは、怜子もいるのだけれど、出来れば家族でない人間の方が僕にとって安心できる。
それに、その場合は、異性の方が親身になってくれるだろう。
怜子がからかうような、茉莉子の恋愛対象の相手へのヤキモチの感情というか、茉莉子を束縛しようという気持ちもないわけではない。
しかし、その感情以上に、僕自身が僕自身を不安定で危うい存在だという考えから逃れられないでいる。
そのうちに、どうにかなってしまいそうな自分がいるのである。
こんな僕には、茉莉子は守ることができない。
だから、茉莉子を助けることの出来る人が必要なのである。
「私たちも、若い時は楽しかったよね。ねえ、覚えてる?通天閣に行った時のこと。」
「覚えてるよ。確か帰りに串カツ食べてさ。地下鉄の階段で転んで左手の小指を折っちゃったんだよね。でもそのままデート続けたんだ。」
「あー、そうそう。あの時はびっくりしちゃったわよ。それにその時、小指が折れてるなんて言わなかったもの。次の日に聞いて何で言わないのって思ったわよ。」
「だって、あの時は怜ちゃんといる時間を大切にしたかったんだ。ずっと一緒に歩いていたかったんだ。」
「うん。次の日、それを聞いて本当に嬉しかったんだ。あたしって、本当にあなたに愛してもらえてるんだって思って。」
「あの時は、必死だった。」
「それまではね、あなたの気持ちを疑ってるところがあったのね。あたしの方が年上だし、そんな美人じゃないし、それに仕事ではキツかったでしょ。あたしなんか好きになってくれるはずないって、デートしながら、そうどこかで思っていたの。でも、あの小指事件から、あなたの前で自然なあたしでいられるようになったのよ。」
「今でも思うよ。小指折って良かったってね。」
そう言って笑うと、怜子は目尻を下げた。
「あーっ。違うの、違う。あたしが言いたかったのは、通天閣に上った時のことよ。あなた高いところが怖いって、あたしの腕にしがみついて、足を小刻みにしか動かせなくて、おじいさんみたいだったのよ。あの時のこと思い出したら、今でも可笑しくって、、、。あははは、、、。」と、のけぞりながら笑う。
「そんなに可笑しいの。」
「だって、ペンギンみたいだったのよ。ペンギンよ。」とまた、大笑いをする。
「どうも、あんな高いところはダメだな。それにしても、あんな塔みたいなものって必要なものじゃないだろう。存在の理由が極めて短絡的だ。ただ、単に高くて眺めが良いところを作ったら、あんまり物事を深く考えないバカな人間が喜んで上るだろうっていう安易な考えで作ってるだけじゃないの。無意味だよ、あんなものは。」
「でも最近は上りもしないものね。東京タワーの下まで行って上らないって言った時はびっくりしたわ。折角下まできたのに。」
「下まで行ったんだから、それでいいじゃない。」
「もう、ほんと、あれだわ。もし、あたしが東京タワーの上で何か事故があって『助けてー。』って叫んだら、助けに来てくれるの?」
「僕は東京タワーの上には上らないから、怜ちゃんがいくら叫んでも僕には聞こえないよ。」
「冷たいな。」
「だって、聞こえないんだもん。」
「じゃ、あたしが東京タワーから落っこちて死んじゃってもいいんだ。」
「だから、聞こえないんだから、仕方ないでしょ。あ、そうだ。怜ちゃんが落っこちても、気がつかないかもしれないよ。まさか、落っこっちゃってるなんて思わないもの。それで、ずっと下で待ってるわけ。いつまで景色見てるんだろうって思いながらね。遅いなぁなんて思いながらアイス買って食べるね。」
「ひどーい。あたしが落っこちて死んでるのにアイス食べるんだ。」
「だって死んじゃったの知らないから。」
「でも、人が東京タワーのテッペンから落ちてきたら、さすがにみんな騒ぐでしょ。だったら気づくんじゃない。」
「でも、まさか怜ちゃんだとは思わないでしょう。だから、下で待ってる。」
「でも最終的には分かっちゃうんだ。あたしが落っこちて死んだこと。」
「いくら僕だって、怜ちゃんが死んじゃったら、僕は東京タワーに上っていくよ。高所恐怖症なんてクソクラエってね。」
「あたし、落っこちて下にいるのよ。何で上っていくのよ。」
「本当だね。じゃ、もう東京タワーとか高いところには僕も怜ちゃんも上らないことにしようよ。」
「いいよ。そうしてあげる。いつも、あたしがあなたに合わせることになるのよね。」
「それにしても、茉莉子の帰り、遅くない。」
「もう、子供じゃないんだからさ。ひょっとしたら通天閣でも上ってるのかな。」
怜子は、そう言って、僕の備前焼のジョッキにビールを注いだ。
でも、僕は、怜子の通天閣のフリには無視を決め込む。
備前焼にビールを注ぐと、きめの細やかな泡が立つ。
とはいうものの、僕はこのビールの泡が飲む時に邪魔になって仕方がない。
「この泡、要らないんだけどなあ。」
そう言うと、「じゃ、グラスにすればいいじゃん。」ときた。
それは、最も至極でございます。
まだ製造日から日にちの経っていないのだろう、柔らかさのある香りを鼻の奥で楽しむ。
僕はビールを飲む時は必ず瓶の製造年月日を見る。
世間ではあまり気にしないようだけれど、ビールは製造年月日の新しいものが断然にウマイ。
「やっぱり、新しいビールはウマイね。」
「またやってる。そんなの同じよ。」
「それが違うんだなあ。まあ味覚の鈍感な怜ちゃんには分らないだろうけれどね。」
「じゃ、こんど目隠しして古いビールと新しいビールを当てっこしたら絶対に分るんだよね。」
「そんなの簡単だよ。」
「じゃ、間違ったら、もう一生ビール飲まないことにする?」
「なんで一生なの。間違っても飲みます。一生飲みますよ。」
「なあんだ。やっぱり分んないんだ。」
こんな他愛のない日常が続いてくれることが、幸せなんだと怜子の目尻を見ながら考えていた。
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