右隻の愛 左隻の憎しみ
平 凡蔵。
第1話
20畳ほどの大広間の障子戸を開けると、手入れのされた枯山水があって、白壁の向こう側に、高層マンションが2棟、にょっと突っ立っている。
今朝から急に降り始めた雨が、酷くなってきて、障子戸を閉めようかと考えている。
湿ったというより、微細な雨粒の混じった空気が部屋の隅にまで広がっていた。
僕は、なにも模様のない白い屏風を前に座っている。
右わきには、たっぷりの墨と、如何にも恰幅の良い坊さんが一気呵成に禅語でも書きそうな太い筆が用意されている。
僕は、いつ知り合ったのか心当たりのない住職に、屏風に適当に字でも書いてくれと頼まれたのである。
知らない住職なのに、僕は何の遠慮する気持ちも起きない。
それにしても、紙に書いたものを表装するのが普通だろう。
それをいきなり、まっさらな屏風に書いてくれとは、困ったことを頼まれたものである。
住職は、僕の左横に座って僕を見ている。
「屏風なんてものは、こうエイヤッと、字の形なんぞを考えずに書くのがコツなんですってね。」
そう言いながら、ニヤニヤと僕の様子を窺っている。
30分も屏風を前に考えていただろうか。
こんなものは考えたって仕方がない。
たとえ、失敗したとしても、それは僕だけの失敗というものではないだろう。
こんなことを頼んだ住職の方に責任の半分はある。
意を結して、筆にたっぷりと墨を含ませた。
住職は、いよいよかと、膝で立って身を乗り出す。
微細な雨粒が、僕のカッターシャツの襟を濡らして気持ちが悪い。
太い筆を、墨が滴らないか注意しながら持ち上げて、4曲に折り目の付いた右隻の屏風に、「無事如意」と、これでもかというぐらいに勢いよく書きなぐった。
「ほう。」と住職が低く唸る。
なにが、「ほう。」なんだか。
この「無事如意」というのは、僕の造語だ。
ある時、僕は「百事如意」と書かれた額を、どこだったか、確か京都の東山のどこかのお寺で見たことがあった。
その伸びやかな言葉の響きが、どうにも気に入って、どこかで書いてみたいと思ったいたのだ。
でも、時がたつにつれて、その百事如意という言葉が、どうにも歯がゆい言葉に感じて仕方がないようになってきたのである。
そんな伸びやかさは、今の僕には絵空事でしかない。
自分の思うようになるものなんて、何一つとしてないのだから。
そんな思いで考えたのが、「無事如意」である。
「百事如意」に掛けた「無事如意」は、僕流のジョークである。
そのジョークに、住職は「ほう。」と来たのである。
しかし、いま屏風に書いた字を見ていると、なかなか妙味のある言葉である。
ただ単に、如意なるものは、何もないという意味だけじゃなく。
この「無事」という言葉自体が持つ意味と掛け合わされて、「無事」が「如意」であると解釈も出来るじゃないか。
無事には、日常生活で使う事故がない、元気だという意味の他にも、何もしない、求めない、あるがままという意味もある。
なかなか、僕の造語も深いじゃないかと思っていると、住職が、真剣な表情で「成るほど。」と言った。
何が成るほどなのか、もともと僕のジョークなのだから、意味がないはずである。
これなら、「百事如意」をもじって、「百事尿意」とでもしてやったら、どんな反応をしただろう。
「百事尿意」を見て、「ほう。」と言った住職を想像したら、笑ってしまった。
「あなた。」と怜子が言った。
怜子とは、僕の奥さんである。
「あなた、また変な事妄想してたでしょ。今、あなたどっかの世界に飛んでたよ。」
「いや、そんなことないよ。この料理が美味しいから、どんなレシピかなと思って考えてただけだよ。」
そう、僕も解っていた。
これが現実ではなくて、僕の頭の中で勝手に展開されるストーリーであることを。
最近、どういう訳か、普通にしていても、勝手に色んなことを考えだしてしまうという癖が出るようになってしまった。
こんな屏風に字を書くなんてのも、まったくの妄想である。
それでも、妄想と現実が、どちらも溶け合って、僕の思考が成立している。
妄想だけを止めることが出来なくなってしまっているのである。
とはいうものの、生活に支障が出る訳じゃないし、ただ、頭の中で考え事をするだけのことである。
問題ないじゃないか。
「レシピを考えてたって、あなた、おかしいでしょ。だって、笑ってたもん。レシピ考えて、笑いますか。」
「笑ってたかもしれないけれど、覚えてないし。レシピ考える他に、何考えるの。」
「それは、あたしは知らないわよ。でも、笑ってた。」
「そうなんだ。笑ってたこと忘れるなんて、僕ももう年なのかな。」
「ふうん。何だか分かんないけど、そうしといてあげる。」
そういって、怜子は目を細めてスープを飲んだ。
怜子に妄想を指摘されたら、これ以上妄想を続けるのは難しい。
とはいうものの、屏風の右隻だけに文字を書いて、左隻の屏風は何も書かないで終わるのは気持ちが悪いだろう。
たとえ、それが妄想でもである。
そこで、怜子が料理に気をとられている間に、そっと妄想を続けた。
急いで左隻に字を書き込まなきゃいけない。
とはいうものの、こんな時に限って字が思いつかない。
何しろ、ジョークで書いた右隻の「無事如意」である。
もう、それだけで、字としては完結してしまっているじゃないか。
なので、左隻には、何を書いたって蛇足というか、2隻の屏風としてバランスの悪いことこの上ない。
とはいうものの、あれこれ考えている暇はない。
すぐにでも妄想を離れて現実に戻らないと、また怜子のツッコミがくる。
仕方なく、半分ヤケクソ気味に、左隻の4つの折り曲げの、1番左端に、思いっきり筆を振り下ろして、「、」チョンと点を書き入れた。
右隻には、「無事如意」の文字。
左隻には、「、」だけが、3面の余白の次に書き入れられている。
余白の大きさが、妙にバランスが悪いが、これもまた味というものだろうと、自分勝手に決め込む。
横にいた住職が、「いやはや。」と言って腕組みをした。
その姿を妄想して吹き出しそうになったが、これは必死に堪えなきゃ、また怜子に笑ったことを指摘されそうである。
怜子を見たら、そんな僕の心配など知らぬかのように、目を細めて僕を見ていた。
テーブルに置かれれた小さなキャンドルの炎が揺れていた。
妻の怜子は、嬉しそうに見ている。
僕は、テーブルにセッティングされているナイフのニッケルシルバーの刃についた無数の小さな傷が、光の反射で浮き上がるのが気になって仕方がない。
レストランの証明が、蛍光灯でないので、助かった。
安食堂の蛍光灯の白いライトの下で、その無数の傷を見たら、舌の先に金属の違和を感じていただろう。
僕は、どうもニッケルシルバーであっても、あの金属が口の中に入る感じというか、味が大の苦手なのである。
目の前のキャンドルの温かいライトに浮かぶ傷は、鉄の味よりも、その傷がつくのに掛かった時間の長さを僕に言いたげである。
このレストランを訪れた人が、このナイフを握って食事をする。
男性、女性、若い人、年老いた人、或いは、出会いの瞬間であり、別れの瞬間であり、何百人もの人が、このナイフを、握ったり、離したりしてきたのである。
握る。
離す。
握る。
離す。
このナイフは、明日もまた、このテーブルにあって、誰かに、握られ、離されるのだろう。
物には、それを使う人の魂が宿るという。
たとえ一瞬でも、指から握った人の何かが伝わっていてもおかしくはない。
僕は、そっと人差し指でナイフに触れる。
今まで、このナイフを握っては離してきた人たちの魂を感じることは出来なかった。
いや、僕には、ハナから霊感なんてものは、持ち合わせてはいない。
ただ、前に使った人の体温ぐらいは感じるのではと、漠然と思って触ってみただけだ。
勿論、ナイフもフォークも、金属の冷たさと滑らかさを感じただけだ。
ただ、ニッケルという材質は、それでもやや、その金属の表面に柔らかさを感じさせる。
このニッケルを含んだ合金の耐久年数は、どれほどの長い年月なのだろう。
その間、ナイフは握ぎられては、離されてを繰り返すのだろうなと思うと、やがて擦り切れて消滅してしまうぐらい薄っぺらなナイフになって、捨てられてしまうのだろう。
薄っぺらなナイフがヒラヒラとゴミ箱に捨てられることを想像したら、僕の顔が笑っていた。
怜子は、少しはしゃいだ声で、「ねえ、何年ぶりかしら。コース料理なんて。結婚してから食べに行ったことなかったよね。」と言った。
「そうだね、でもここ高かったんじゃないのかな。茉莉子のボーナスなくなっちゃうんじゃないか。それに、茉莉子も一緒に来れば良かったのにね。」
茉莉子とは、私たちの一人娘だ。
「もう、その話はいいの。せっかく茉莉子が、あたしたちの結婚記念日にプレゼントしてくれたんだからさ、今日は茉莉子に甘えちゃおうよ。」
「そうだね、じゃそうしますか。それじゃ、茉莉子に乾杯!」
「バカ。何で茉莉子に乾杯なのよ。あたしたちの結婚記念日に乾杯でしょ。」
怜子は、目尻を思いっきり下げて笑った。
今、気がついたが、今日の怜子のつけまつ毛は、やや太めで目尻の部分を下に向けて付けている。
だから、さっき笑った時も、思いっきり目尻が下がって見えたのだ。
ただ、僕は女性が笑った時に、目尻が下がるのが好きなのである。
怜子は、昔はそんな笑い方はしなかった。
或いは、僕がそんな笑い方が好きだと言うことを知って、そんな風に笑うように笑い方を変えたのであろうか。
こんな事を、例えば仕事帰りに居酒屋で同僚に話したら、何をいい年してバカなことを言っているんだと、その日は、そのネタで大笑いすることだろう。
結婚して20年も過ぎた夫婦では、まあ普通には考えられない。
しかし、怜子の場合は、そう思っても不思議でないような事が、つまりは結婚して20年も経った嫁が夫の好みに合うように変わろうとしていると思える節があるのである。
「あ、このお肉美味しーっ。」怜子が手に持ったナイフとフォークをギュッと握りしめて真っ直ぐ立てて、目を細める。
「あのねえ、そんなナイフとフォークの持ち方は、子供の持ち方だよ。」
「あたし、子供だから。」そう言って、また笑う。
「でも、美味しいね。僕は、もうちょっと味が濃い方が好きだなあ。」
「あんまり濃い味ばっかり食べてたら、身体に悪いよ。」
「何で身体に悪いの?」
「それは知らないけど、そんな気するじゃない。」
「そんな気がするって、何も根拠がないんだ。」
「あ、そう言えば、どこかのテレビでやってたよ。」
「どんな番組?」
「忘れた。」
「あのねえ、、、、。」
僕も怜子も、噴き出すように笑った。
怜子はいつもこうである。
ただ、そんな部分が、僕も娘の茉莉子もストレスを溜めずに暮らしていけるところなのかもしれない。
20卓ほどある、大阪の淀屋橋の近くにある古いビルの7階にあるレストランには、まだ早い時間のせいか客もまばらで、夜の始まりを感じる空間にケダルイ空気が流れていた。
「ホント、喋らないね。」怜子が物足りなそうに言う。
「そうかなあ。」
「ほら、またそうかなあで、すましちゃってる。」
「じゃ、何かしゃべりますか。」
「いえ、結構です。」
いつもこんな会話になるのだけれど、このぐらいの会話の方が安心できるというものだろう。
僕が怜子相手に、ベラベラと喋ったら、きっと言うよ。
「どうしたの?今日のあなた気持ち悪い。」ってね。
僕の後ろのテーブルに若いカップルが座る。
「窓際でよかったね。」
若いカップルの女性が言った。
窓際の席がいいなんて言う女性は、自分勝手な女に違いない。
僕は年々高所恐怖症がひどくなっているのだけれど、それを差し引いても、この窓際という席は、怖くて仕様がない。
この窓の壁の外側は、何もない空間だと思うと、座っていられるものじゃない。
だって、壁1つ隔てた外は、スカスカではないか。
非常に不安定な、頼りない位置にいるのである。
それを窓際だと喜ぶのは、空間の感覚の把握が出来ない人間である。
空間の把握が出来ない人間というのは、そこに居る他の人をも把握できない人間であり、自分しか見えていない人間である。
即ち、自分勝手なのである。
これは僕の20年前からの持論だ。
「ちょっと聞いて。今日のあたしのラッキーメニューは、肉だったのよ。」怜子が身を乗り出して言った。
「へえ、それがどうしたの?」
「今、あたし食べたじゃない。」
「でも、今日はもう数時間しか残ってないよ。」
「もう、ネガティブやねえ。後数時間でも何かいいことあるかもしれないじゃない。もっとポジティブに考えようよ。」
「ポジティブかあ。そう言えばさ、いつも思ってたんだけど、あの朝のテレビの星占いって不親切だよね。」
「どうして。」
「だってさ、ラッキーアイテムとかラッキーメニューとか言われてもさ、あれ朝の8時ぐらいにやってるし、その時点でもう、その日1日は、3分の1過ぎちゃってるんだよ。1日は、24時間だからさ、そうなるだろ。まあ、僕は占いを信じないけれど、どうせなら前の日に次の日の占いをやればいいのにと思うんだなあ。だって、朝起きて、いきなり今日の、ラッキーメニューは、すき焼きですなんて言われてもさあ、どうしようもないよ。」
「あなたって、ヒネクレテルよね。」
「ありがと。」
「褒めてません。」
こんな感じの会話でも、僕にとっては楽しいのではあるのだけれど、怜子には物足りないもののようである。
コース料理を食べた後は、普通はそれで終わりだけれど、僕はパンを追加して、バターをたっぷりと塗って、それをアテにして飲み続けるのが好きだ。
コースで頼まないときは、最後に前菜を注文して、それで飲み続ける。
前菜というものは、メインの前じゃなく、後に食べるのが、美味いんだな。
「あなた、もうそれ4杯目よ。」
「そうか、4杯か。それは縁起が悪いなあ。」
そう言って、ウエイターにティオペペを頼んだ。
ティオペペも、普通なら食前酒だ。
でも、最後にパンとバターで飲むのには、気分なのである。
「あなた、飲み過ぎです。」怜子が強めに言うのだけれど、下がった目尻が優しく僕を包む。
僕はティオペペのグラスを持ち上げて、中に注がれた液体を見つめて、この中にいくつの原子が入っているんだろうと考える。
でも、考えたって分かる筈はない。
しかし、この数字というものは、実体があるものなのだろうかと考えてしまう時がある。
人間は、毎日、この数字に振り回されて生きているけど、実際に数字を目の前に見たことがない。
頭の中だけのものじゃないか。
そんなものに、この世界を任せてしまって良いものだろうか。
勿論、物を数える時には、無くてはならない。
でも、何も10進法で数えなくてもいいのじゃないかと思う。
11進法や12進法で数えても良い筈だ。
12進法なんて、案外便利なものかもしれない。
僕の大学時代の友人に、数字が気になって仕方がないというある種のノイローゼになっているやつがいた。
数字を何度も何度も数えなきゃ気持ちが落ち着かないと、僕に話してくれた。
翌年僕が電話をすると、母親が出て、彼は亡くなったと告げられたのである。
その死因については、訊ねる勇気はなかった。
そんな彼は、或いは数字という実体の分からないものに取り憑かれていたのだろうか。
個で表現するのなら簡単だ。
目の前にあるリンゴはいくつありますかって聞かれても、簡単に答えることが出来る。
でも、物差しを持って来て、テーブルのここからこの場所まで何センチありますかって問題を今作っても、答えられないだろう。
この場所までは、154・7386902、、、、、、正確に表そうと思ったら、無限に時間が必要である。
無限に時間が必要と言うのは、即ち不可能だということである。
僕の友人は、無限の数字を、最後まで心の中で数え続けていたのだろうか。
小数点以下は切り捨てろ!
そう友人に進言してやりたいが、彼はもう死んでしまったのである。
「もう、これでお酒は終わりよ。」怜子が釘を刺した。
そして、「5杯は、縁起がいいでしょ。」とすぐに付け足した。
5杯は、縁起がいいか。
しかし、5を分解すると1プラス4である。
「1番に死ぬ。」
僕もまた、数字の実体のない魔に取り憑かれ始めているのかもしれない。
4は、死を暗示すると思われているが、詩であり詞である。
そう考えると、少しばかりロマンチックだ。
詩や詞は、人に思いを伝えるものであり、言葉の糸を紡いで作られてゆく。
そして、新しい縁が始まるのだ。
僕は、どんな詩を書こうとしているのだろう。
恨み節。
それじゃ、演歌である。
それとも、僕の挽歌だったりするのかもしれない。
「縁起の良いところで、ご馳走様にしますか。」
「それが、あなたのためよ。」怜子は目尻を下げた。
「じゃ、今日のメインイベントだ。」
「メインイベントって、もう食事は終わったわよ。」
「普通の夫婦じゃ、結婚記念日には プレゼントを奥さんに贈ったりするんだってね。」
「何よ、その意味ありげな話し方は。あたし、プレゼントなんていらないわよ。」
「いらないわよって、今までプレゼントなんてしたことなかったし。」
「だから、いらないって。いらない。いらない。」
「いらないって言ったって、もう買っちゃったんだからさ。」
「もう、勿体無いな。でも、ありがとう。」
「安物だよ。」
「えー。安物なの。」
「今まで、こんな僕に尽くしてくれて、本当にありがとうね。こんなこと今まで言ったこと無かったけど、今日はちょうど良い機会だから、言葉にして言いたいんだ。これからの僕の残された時間を怜ちゃんにあげるから、怜ちゃんの残された時間を僕にください。一緒に歳をとっていこう。」
「いいわよ。今までの時間だって、あたしの時間なんて考えたこと無かったもの。だって、それが家族なんだもの。でしょ。」
「ありがと。そんな時間を一緒に刻みたくて、買ったんだ。安物だけど、腕時計。ペアでね。」
「ペアルックなんだ。ちょっと恥ずかしいな。あ、でも可愛い。」
「そうだろ。文字盤がピンクっていうのが気に入ったんだ。」
怜子は、すぐに時計をはめて、天井の暖色系の光にかざして見ている。
僕も、腕時計を箱から出して、ゆっくりと腕にはめる。
「こうやって、あなたといるのが不思議だわ。」
「どうして。」
「だって、あなたが新入社員で入って来た時は、あたしは高卒で会社にいて、どちらかというとお局さん的な存在だったでしょ。今思うと、あたしもそんなに知らなかったんだけど仕事の事、でも、その時は何でも知ってると思ってたのね。だから、何も知らないあなたに、キツク当たってたと思うの。」
「そうそう、キツイこと言われたよ。何でこんな事分からないのって。帰り道でいつも泣いてたんだからさ。」
「えーん、えーん。」怜子は、甘えた声でからかう。
「だから、絶対に私のこと嫌いだと思ってた。」
「そう言えば、初めて飲みに誘った時の戸惑った顔、今でも覚えてるよ。」
「もう嫌だ。どんな顔だった。」
「可愛い顔だったよ。」
「嘘ばっかり。」
それにしても、今日は久しぶりにレストランで食事をして、怜子もいつもより、よそ行きの楽しさを感じているようだ。
いつもは、居酒屋でメニューの話しかしていないからね。
「そうだ、少し歩くかもしれないけど、心斎橋まで行ってみない。」
「心斎橋のどこ?」
「心斎橋の橋。」
「あ、引っかけ橋でしょ。」
「いや、それは道頓堀。心斎橋の北の方にあるんだ。」
「えっ。そんなのあったっけ。」
「橋はもう無いんだけどね。長堀のところに昔、心斎橋の橋があったんだって。それでね、そこはもう川が埋め立てられて普通の道になってるんだけど、そこに昔のガス灯が今でも残ってるらしいんだ。ちょっと見てみたくなってさ。」
「へえ、そうなんだ。あたしもガス灯って見たことない。」
レストランから淀屋橋まで歩いて、地下鉄で心斎橋駅まで出ると、さすがに人が多い。
若者や最近は外国からの旅行者が特に多いそうだ。
心斎橋通りの長堀の横断歩道の両脇にガス灯が設置されていて、ガラスの板で囲まれた中に暖い火が灯っている。
「あれ。これなの。なんか暗い。」怜子が言った。
それは僕も思った。
昔の小説に出てくるガス灯は、明るいというイメージがあったんだ。
でも、今実物を見ると、怜子の言うように暗い。
その理由は考えなくても誰だって分かる。
周りの店の照明やネオンが明るすぎるのだ。
このガス灯の火が明るいと感じる当時のこのあたりは、どんなに暗かったのだろうと想像してみたくなったが、この明るい光の中では無理である。
「でも、あたしこの火の色が好きかもしれない。」
そう怜子が言うと、僕の腕にしがみついて続けた。
「あたしね、たまに、あなたの帰りが遅い時にね、部屋の電気を消してみることがあるの。真っ暗だと怖いから、豆球にするんだけど。そしたらね、何か落ち着くのね。このガス灯の火って、それに似てる気がする。」
「えっ、なに。一人で部屋の電気消して、じっとしてるの?怖いよ、そんなの。気持ち悪いよ。」
半分笑えたけれど、半分驚いたよ、そんなこと知らなかったから。
「でもね、部屋の電気を消すと面白いのよ。家の外って以外と明るいってこと知ってた?」
「考えたことないけど。」
「あのね、暗い部屋から家の外を見るとね、家の前の道もね、明るいのよ。向かいの家も明るいしさ、そのお隣のお家も明るいし、そのお隣も明るいんだよね。そしたらね、思うんだ。私たちの家って明るいのかなって。それでね、思いついたの。あなたが家に帰ってくる瞬間は、思いっきり明るくして、お帰りなさいを言おうってね。」
「ふうん、そうなんだ。でも、お向かいさんから、あの家、夜でも電気消して生活してるようなんだ。大丈夫かなって思われてるよ、きっと。」
「あの家、気持ち悪いって?」そう言って、怜子は僕の胸を叩いて笑った。
心斎橋のガス灯は、これだけの人の中にあって、誰にも気付かれずに、ただ暗い光を灯し続けている。
或いは、周りのお店の電気が消えてくれることを願っているのか。
或いは、誰にも気付かれないことに安堵しているのか。
ここに設置された単なるオブジェがそんなことを思うはずはないのだけれど、毎日同じように暗い火をともしていることが、僕の毎日にシンクロをして、そう思わせたのかもしれない。
「そうだ、折角だからさ、美味しいケーキでも買って帰って、茉莉子と一緒に食べよう。」
「賛成 !ねえ、ローソクつける時は、部屋の明かりを消すでしょ。」
「それは、誕生日。今日は、ローソクはつけません。」
「何でー。いいじゃん。」
そう言って、怜子は目尻を下げた。
僕と怜子は、誰にも気付かれることのないガス灯に背を向けて地下鉄の駅に向けて歩き出した。
道を照らすほどの光をも持たないガス灯に存在価値はあるのだろうか。
そして、誰にも気付かれることのないガス灯を作る意味があるのだろうか。
「ねえ。ガス灯、面白かったね。」怜子が小さな声で笑った。
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