第5話 身分証を求めて

 翌日、目を覚ますと、そこは自宅の部屋だった――なんてことはなく、動くたび、がさがさと音を立てる藁の寝台の上だった。

 ある程度は覚悟していたとはいえ、やっぱり夢ではなかったか。


 暗い室内を手探りでうろつき、なんとか木窓を開ける。

 たいして明るくはならなかったが、外の空気が入ってきて、頭がすっきりした。

〈森羅万象〉によれば、時刻は知恵の神メラソフィラの刻、三燭時目。

 だいたい午前五時くらいか。

 まだ日の出前のようだが、外でも人々が起きだしたのか、物音が聞こえはじめる。

 灯火ランプはたいして明るくないし、娯楽も少ないので、この世界では日没後はすぐに寝て、日の出前には起きはじめる生活が基本のようだ。

 昨日は疲れもあって早くに寝たが、僕もこれからは自然と早寝早起きの生活になっていくのかもしれない。


 朝食は竈の神ミーナの刻(午前六時頃)からなので、それまでに身支度を済ませる。

 買ったばかりの赤い長衣と黒い脚衣に着替え、一階の便所に行く。

 この辺りの宿にはちゃんと下水道が通っているのでよかったが、南の集合住宅などでは上階の住人が便器の壷に溜めた汚物を通りへ投げ捨てることもあるそうだ。

 尻拭きの素材にも差はあって、この宿では肌触りの悪くない天然の海綿スポンジを使っているが、貧しい人々は藁やぼろ布を使うらしい。


 ここに泊まれてほんと良かった。


 用を足したあとは貯水槽の水で流し、中庭の井戸へ向かう。

 昨夜エイラから自由に使っていいと教わったのだが、屋根つきの井戸には釣瓶を引き上げるための滑車こそあるものの、人力でやる必要がある。

 朝からこれはめんどくさいな。

 上水道も完備されてたら完璧なんだけど……。


 文句をいっても仕方がないので、カラカラと釣瓶を巻き上げて水を汲む。

 手と顔を洗い、エイラからもらった歯木というもので歯を磨く。

 これは虫歯や歯周病、口臭などに効果がある木の枝らしく、昔の人が使っていた、いわゆる房楊枝のような感覚で使うらしい。

 先端を噛み潰し、繊維をブラシ状にしてから磨くのだ。

 慣れない形状のせいで磨き残しができないか心配だったので〈森羅万象〉を使ってばっちり確認した。

 異世界で虫歯になる可能性よりは、多少の頭痛を我慢するほうがいい。


 慣れない道具で時間がかかったが、すべての身支度を済ませてもまだ朝食までは時間があった。

 どうしよう?

 時間を潰せそうな娯楽はないし、〈森羅万象〉で情報収集でもするか。


 まずどれくらい魔力が残っているか調べると、昨日より倍以上増えていた。

 なんでだ?

 原因も〈森羅万象〉で調べてしまおうか。

 頼りすぎも良くはないが、魔力なんて異世界特有のものは考察するにも情報が足りないのでしかたない。


 魔力の思念操作もずいぶん慣れたのか、すぐに調査の結果が判明した。

 増加の原因は主に食事のようだ。

 魔力はあらゆるものに宿るが、魔力の通りやすさや保持には一定の傾向があるらしい。

 個体より液体、液体より気体の順に魔力が通るのだが、同時に霧散しやすいらしく、保持という点では反対の順に多くなる。

 つまり空気中の魔力を呼吸によって取り込むよりも、魔力を豊富に含んだ水や食べ物などから摂取するほうが効率よく魔力供給できるみたいだ。


 〈森羅万象〉はこれからも頼る場面は多いだろうから、魔力が増えるのはうれしいが、元の世界に戻ったときどうなるのか気になる。

 まあ帰れるかどうかもわかってないんだけど――


「おはよう、ソラ。はやいんだね」


 魔力の考察で気がつかなかったが、いつの間にかエイラが中庭に来ていた。

 エイラは起きたばかりなのか、髪の毛が寝癖ではねている。


「おはよう、エイラ。昨日は早く寝たせいかな、目が冴えちゃって」

「そっかそっか。よく眠れたならいいけど。……暇なら食堂に来る?」

「いいの? まだ開店前だけど」

「もちろん! 待っててすぐ、終わらせるから」


 エイラは井戸から水を汲みはじめた。

 朝から重労働で大変そうだ。


「手伝おうか?」

「ありがと。でもソラはお客様なんだしこんなことさせられないよ」


 慣れた手つきで汲み終わると、食堂へと運んでいく。

 なんとなく手持ち無沙汰になって、エイラの仕事の様子を見ていると、手にあかぎれがいくつかできてるのに気がついた。

 水汲みや清掃、皿洗いなどの労働によるものだろう。


「あまり見ないで、こんな手綺麗じゃないでしょ」


 エイラが僕の視線に気づいたのか、そう言って俯いた。


「ああ、ごめん。でも働き者の証拠だし、卑下する必要はない……と思うよ」

「……そうかな」

「うん、そう思うよ。ただ痛そうだね」

「ちょっと……いや本当はかなり痛いんだよー」


 エイラはあえておどけるように言った。

 苦労しているんだろうけど、それをできるだけ表に出さないようにしているのかもしれない。

 エイラには歯木をもらったお礼も兼ねて、あかぎれに効きそうな軟膏薬でもあれば買ってこようかな?


「それにしてもソラの手って、綺麗だよね。いいな~」


 エイラが羨ましそうに、僕の手元を覗き込む。

 僕はたしかに働いたことはないので、手荒れの類いはない。

 そもそも現代では洗濯も食器洗いも機械任せだし、それすらもほとんど両親がやっていた。

 労働を知らない手。

 ものすごく恵まれていたんだろう。

 それに気づかず、あたりまえのように享受していたのは反省しないと、どこかでへまをやらかすかもしれない。

 いまも水汲み程度を面倒がっているし、この手を見ればまともに働いたことがないと簡単に見抜かれるだろう。

 気を付けないといけないな。



 水を運び終え、食堂に入ってからもエイラは働き続けていたので、邪魔をしないよう気をつけながら、おしゃべりした。

 外はだいぶ明るくなってはいたが、室内は相変わらず薄暗いので、エイラが火打石を使って暖炉に火をつける。

 アイリさんは厨房で食事を作っていたらしく、僕の姿を見るとすぐに用意すると言って戻っていった。


 竈の神ミーナの刻になり、鐘の音が聞こえるとエイラはアイリさんと一緒に短く祈りを捧げる。

 家庭と女性たちの守り神でもあり、また宿屋組合の守護神でもあるミーナへの祈りは、毎朝の日課のらしい。

 僕は特にこれといった信仰を持たないので、眺めるだけだったが、この世界では生活に深く根付いているようだ。

 ちなみに〈森羅万象〉でも神の存在は確認できなかった。

 存在しないのか、ただ単に人智の及ばない存在なのか。

 魔法があるなら神秘もありそうではあるのだが……。

 語りえぬものには沈黙するしかない。



 祈りの時間が終わるとようやく朝食の時間だ。

 〈止まり木〉亭の朝食は燕麦粥オートミールが定番のようだ。

 上にはバターと炒った木の実ナッツ、干し葡萄などがのせられている。

 これだけだと少ない気もするが、おかわりは自由らしい。


「いただきます」


 木の匙ですくうと、結構どろっとしている。

 口に入れると、すこし水っぽいというか薄味だ。


 うーん。


 木の実や干し葡萄の仄かな甘さではなにか物足りない。

 燕麦粥を食べたのは、はじめてなので、よくわからないがこんなものなんだろうか?

 まあいっても粥だしな。


「おいしくなかった?」


 食が進んでいないのを、エイラに気づかれた。


「おいしくないわけじゃないよ。ただちょっとだけ薄い気がするけど」

「やっぱりそうだよね……。本当は蜂蜜をかけたりするんだけど、いまうちの宿あんまりお金ないから、やめちゃったんだよ」


 なるほど。

 薄味なのは間違いじゃなかったか。

 それになんとなく予想していた通り、この宿の経営も苦しいようだ。

 宿泊客は当然その多くが都市外からやってくるはずだが、迷路のような道を通らなければ、この〈止まり木〉亭には辿り着けないので、知らなければそもそも見つけられない。

 この都市の無計画な増改築には日照権だけじゃなく、いろんな弊害があるようだ。

 残念だけどこれは僕がどうにかできる話でもないな。

 せいぜいこの宿でたくさんお金を使うくらいか。

 潰れてもらっちゃ、僕も困る。


「その蜂蜜って追加料金でも支払えばかけてもらえるたりはするの?」

「え? すこしは残ってたはずだけど、お母さんに訊いてみる」


 しばらく待っているとエイラがアイリさんを伴ってやってきた。

 その手には陶器の瓶が抱えられている。


「エイラから話は聞きました。もちろん蜂蜜をお売りすることはできますが、一匙で一ドールくらいしますが、大丈夫でしょうか?」

「うん、それくらいなら問題ない」


 一匙でドール銅貨一枚。

 ライ麦の黒パンがひとつ買える程度。

 たしかに高いのかもしれないが、おいしい食事のためなら安いものだ。


 とりあえず一匙加えて、食べてみる。

 うん!

 さっきと全然違う。

 濃厚な黄金色の蜜が、バターとよく合い、こんがりと炒った木の実のカリッとした食感と香ばしい匂いがより引き立ってる。

 ただ一匙じゃまだ足りない。

 さらに追加で四匙ほど加えると、全体的に味が馴染んでなかなかの一品に仕上がった。


「贅沢だね……」


 エイラが呆れたような声をあげた。

 そこまでじゃないと思ったが、よくよく考えると、銅貨五枚は昨日の夕食一食に相当する金額だ。

 たしかにこれだけ高いと、無料の朝食には出せなくなるか。


「まあ、おいしいもののためなら妥協しない主義なんだ」

「そういえば、お金持ちだったね……それにその格好だとまるで、お貴族様みたい」


 エイラはなかなか鋭いな。

 実はこの服は、元々貴族のものだったらしい。

 僕が行った古着屋は評判が良く、いろんなところから持ち込まれると言っていたのだが。

 なかでも貴族の服は流行や、ささいなきっかけで不要になり、気まぐれで使用人に下げ渡されたりすることがあるそうだ。

 しかも主の前でそれを着ようとする使用人はいない。

 そこで古着屋に売られたりするわけだ。

 もっとも数はそう多くはなかったので、頻繁に出まわる品ではないのだろう。

 また服が欲しくなったときに満足のいく服が見つかるか心配だ。

 いまは着替えが一日分しかないし……。

 そういえば服の洗濯はどうしよう?


「エイラ、この宿では服の洗濯も頼めたりはする?」

「洗濯? それくらいならあたしがやってあげるけど」

「そっか、なら面倒な仕事で悪いけど、よろしく頼めるかな」


 とりあえず、金貨一枚あればいいかな。

 先払いで支払っておく。


「え!? これじゃあ多すぎるよ!」

「これからもいろいろ頼むかもしれないし、蜂蜜代もあるから、まあ受け取っておいてよ」

「そういうことなら……」


 大事そうに受け取ったエイラに部屋の鍵も渡して、あとのことは任せた。



 朝食のあとは、今日の行動計画を考える。

 ひとまずここでの生活は送っていけそうな目途は立ったので、これからどうするべきか。

 昨日一日でわかったことは身分証の大切さだ。

 なにかにつけて求められるのだが、それがないことにはまともな仕事もなく、宿に泊まるのも一苦労する。

 それならどうにかして手に入れるしかない。


 さっそく〈森羅万象〉で調べてみると、いくつか方法がみつかった。

 いちばん一般的なのは約十年間の兵役に就くことらしい。

 兵役を終了すると証書が発行され、異邦人でも市民権を得ることが出来るんだとか。

 だが十年は長すぎる。

 しかも兵役ってことは戦争へ従軍するわけだが、僕なんかはまっさきにくたばる雑兵としての未来しか想像できない。

 それに人を殺す覚悟もない……。


 これはないな。


 ほかには商工組合のどれかに加入することで身分証を得る方法がある。

 だけどそれには高額な加入金を支払うか、徒弟として雇われるしかないのだが、どちらも基本的には組合関係者の親族であるか、縁故コネがあるのが前提なので、外部の人間が加入するのは実質的に不可能だ。


 しかし例外的な組織もあるらしい。


 その名も冒険者組合。


 冒険者というのは迷宮を探索し、魔物と呼ばれる生物を狩ったり、さまざまな素材の採取、遺跡から遺物などを持ち帰る人々の総称らしい。

 昨日、転移門から出てきた男たちがまさにその冒険者というやつだ。

 こちらは組合関係者の縁故は必要なく――もちろんないよりはあったほうがいいのだが、金貨一枚を支払えば誰でも加入することができる。

 食い詰めた人々や、無宿人、浮浪者、物乞い、前科者、傭兵、異邦人とあらゆる人々を受け入れているようで、職業訓練し、自立、更生を促すという意味では、かつて江戸にあったという人即寄場みたいだな。

 人即寄場はたしか飢饉などが原因で、飢えに苦しむ人々が大挙して江戸へと流入し、治安を悪化させていたので設置されたものだ。

 ウルクスでは土地や家督を継げない農家の三男坊以下や、安上がりな奴隷に取って代わられたことで仕事を失った人々が帝都に流れ込んでくることが多いらしい。


 まあそんなわけで、誰でもなれる以上は身分証としての価値は低く、信用性もあまりない。

 とはいえ、ただの異邦人よりはマシだし、組合というだけあって親方や徒弟などに相当する階級に分かれているらしく、上の階級になれば、それ相応の身分として扱われるようになる。

 なにより迷宮探索は転移の原因を解明するためにも、やるつもりだったし一石二鳥だ。

 方針は決まった。

 となればさっそく行動を開始するか。



「あら、お出かけですか?」


 宿を出る前に、受付にいたアイリさんが話しかけてきた。

 一応、どこへ行くか伝えておいたほうがいいか。


「冒険者組合に行って、身分証でも作ってもらおうかと――」

「冒険者になるのですか!?」

「そのつもりだけど、なにか問題でもあるんですか?」


 アイリさんが驚くくらい冒険者は信用が低いのだろうか?


「問題というわけではありませんが、危険な稼業という話ですし、大丈夫なのですか? それに学生のはずでは?」


 なるほど、そっちか。


「組合では訓練も行っているらしいし、無理をするつもりはないので大丈夫ですよ。あと迷宮内で調べたいこともあるので」

「そういうことなら止めはしませんが、無事に帰ってきて下さいね」

「ありがとうございます。それじゃあ――いってきます」



 冒険者組合があるのは中央地区。

 僕が転移してきた広場のすぐそばだ。

 さて、荒くれ者が多いという冒険者組合、気合を入れていくとしよう。

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