第34話
着替えても一時間も前に売場に行くことはないから、更衣室と同じ九階にある(廊下の突き当たりにある)休憩室に入ると、やっぱりまだ誰もいなくて、左の壁の中央にあるテレビの脇に置いてある空の灰皿を取って、正面の窓と向かい合うように(入口に背を向けて)座って、煙草を吸った。ロッテリアで最後だと思って煙草を吸ったのだけれど、場所が変わればそれが最初の一本だし、制服を着たということで気分は一新していて、昼になると混雑する休憩室も誰もいなければ座っている姿勢や、吐いた煙の行く末など気にしなくても良くて、「自由だ」と思い、声に出してそう言ってみる。
手帳を開いたり、一昨日の仕事を思い出したりしながら今日するべきことを考えていると、他の課の人が来て朝食を摂り始めたりして、「おはようございます」と呟いたり、ただお辞儀をするだけの挨拶を交わしていると、三輪さんが来た。目の前の窓に映る入口の扉が開いて、入って来る人の影はうっすらとしか見えないのだけれど、知り合いが入って来るとなんとなくそれとわかるもので、僕は振り返って三輪さんと目を合わせて「おはようございます」と言い、「おはよう」と返事をした三輪さんは、自動販売機でペットボトルのホットティーを買い、「ロッテリアで朝食食べてきた?」と僕に訊きながら目の前の椅子に座って、僕が「早いですね」と言うと「定期を買ってきたから」と受け答え、ペットボトルの蓋を開けて一口飲んで「寒いね」と言った。
「冬ですから」「もうすぐ春じゃん」と間を置かず会話をし、「疲れた」「まだ来たばっかですよ」「うそ」と三輪さんは驚いた顔を見せて「嘘じゃないです。まだ開店だってしてませんよ」「帰っていい?」「駄目です」「ケチ」などと続けた。「ケチ」と言った後に間ができて、その間で三輪さんが笑った。「バ~カ」と煙草の煙を吐きながら(あからさまに馬鹿にした顔をして)言い、「個展は行ってきたの?」と訊かれて、中尾さんの個展のことだとすぐにわかったのだけれど、なぜか「ん?」と答えていて「中尾さんの」と言われた後に「ああ」とまるで言われるまで忘れていたかのように答えて「行ってきましたよ」と言い、「どうだった?」「抽象画なんでなにってわけじゃないんですけど、雰囲気は好きだから、楽しかったですよ」と答えて、もっと言うべき言葉があるように感じたのだけれど、抽象画を口で説明するのは難しくて、これが『モネ』の展覧会にでも行ったのなら「有名な睡蓮の絵とかあって」だとか説明できるのだけれど、「女の人の腰のくびれみたいな桃色の絵があって」だとか説明してもなんだか別の解釈をしてしまいそうで、「私も行きたかったな」と三輪さんがすぐに言ってくれたから「今度観に行きましょうよ いつやるかわかんないけど、中尾さんの絵って説明するのが難しいんですよ」と言うことができた。いつも三輪さんとはタメ口で話すのだけれど、職場では先輩後輩の立場だし、三輪さんは私服でいても、制服を着てしまった僕には仕事の時間が流れ始めていて、いたるところに敬語が入ってきて、でも、そんな会話も今まで散々してきたから三輪さんも不思議には感じなくて「眠たい」と三輪さんは言い「寝てないんですか?」と訊くと「昨日ね、眠れなくってさぁ」と言い「飲み過ぎですか?」と僕が訊いたのは三輪さんがこのあいだ「毎日のように飲んでる」だとか言っていたからで、でも三輪さんは「昨日は飲んでないよ」と言い「それに、飲んだらすぐ眠れるもん」と続け「寝たのは?」「三時頃かな」「遅いですね」「いつも大体一時か二時くらいには寝てるんだけど、昨日も一時くらいに布団に入ったんだけど眠れなくて」「飲まなかったのが悪いんじゃないですか?」「そうかなぁ、やっぱ飲まないと駄目なのかな」「いつもと違うことするから眠れないんですよ」「やっぱりね。飲まなきゃ駄目だよね」「本当は昨日も飲んだんでしょ?」「飲んでないよ」「あっ」「何? どうしたの?」「何か匂う」「え?」「あ、アルコールの匂いが」「うそ? うわぁ、バレた」と三輪さんは真剣に腕や手の匂いを嗅いでいて、僕が笑うと「だから、昨日は飲んでないって」と言い張った。「蒼井君じゃない? 匂いするの」と言われたから僕も真剣に腕の匂いを嗅いだりして「いや、僕は飲めないですから」と抵抗すると「男は飲めなきゃ駄目よ」と言われて「飲めないんだからしょうがないじゃないですか」「駄目駄目、男は飲めないと」「飲めなくても素面のままハイテンションに持って行きますから。大丈夫です」と言って、ここに牧野さんでもいれば「一緒に飲みたいですよねぇ、牧野さん」という会話になり、牧野さんは「うちの旦那飲めないのよ」なんて答えて、「飲めたほうが良いと思いません?」「飲めないよりは飲めたほうが」「牧野さんが飲んでるとき旦那さんは何してるんですか?」なんて会話になって、「じゃあ、つまみ作りますよ。飲んでる三輪さんにキュウリとか運びますから」と僕がむきになって言うのが常で、「主夫になるんだ、蒼井君」だとか牧野さんが言うところで会話が終わるのだけれど、ここに牧野さんはいないから、「男は飲めなきゃ」と三輪さんが言い、ホットティーを一口飲んだところで会話が一段落した。職場には女の人が多くて、女の人のあっちに行ったりこっちに行ったりする会話の流れに僕も徐々に慣れてきて、慣れてくるとそういった会話のほうが楽な時もあるとわかり、僕も職場ではまったく別の話題が浮かんでくるとすぐ口に出したりする。三輪さんもすぐに話題の変わる人で「昨日またブレーカーが落ちちゃってさぁ」と話し始めていて「またですか?」と僕も答えている。三輪さんの家にこの冬初めてエアコンが導入されて、それまでは石油ストーブとこたつが暖房器具だったのだけれど、石油ストーブは火事が恐いと言って、エアコンを買うことにしたらしい。でも、家の電力が間に合わなくて、電子レンジを使うことなんてもっての外で、幾つかの部屋でテレビなどを点けているとすぐに停電になるらしく、「停電になったらエアコンも停まっちゃうじゃん」と言うと「もう慣れた」と言って「そんなことに慣れたくないですよ」と返すと「だよね」とホットティーを一口飲んだあとに言い、もう一口飲んだ。三輪さんはコートを着たまま座っていて、すぐ更衣室へ行くのだろうかと思っても、ゆっくりとホットティーを飲んでいて、そこに課長が入って来た。
「あれ、課長遅番じゃなかったですか?」と訊いたのは三輪さんで「あ、会議ですか」と答えたのも三輪さんで「カノちゃん早いね」と課長は三輪さんに言いながら斜め掛けをしていた鞄を机の上に置き、「いつも早いですよ」と言った三輪さんを無視して「定期買ってきたんですって」と僕が課長に教えると、「ふぅん」と課長は納得した。「いっつも走って来るもんね」「そうなんですよ」「冬なのに汗だくなんでしょ?」「そう、ゼイゼイ言いながら、ロッカーで他の人がいると、走って来たのがバレないように落ち着こうとするんですけど」「フッフッとかって鼻から息出てるんでしょ?」「鼻の頭に汗かいてて」「もっと早く出れば良いのに」「そうなんですよねぇ」と課長と三輪さんが話していて、僕はそのあいだに灰皿を課長と僕の中間に寄せて、もう一本煙草を取り出し、課長も鞄から煙草ケースを取り出して、一本取り出しジッポで火を点けた。課長の後ろに別の課の係長が近寄って来て、「課長」と声を掛けられて課長は後ろを振り向きながら係長と話し始めて、三輪さんが立ち上がって「着替えてくる」と言ったので「じゃあ、僕ももう帰ろうかな」と言うと「駄目よ。私が帰るんだから」とすぐに反応して「私が休むってこと皆に伝えておいて」と三輪さんは真剣な顔をして言って、僕は笑いながら「後で」と言うと、三輪さんは頷いて、ペットボトルをゴミ箱に捨てて休憩室を出て行った。
係長との話を終えた課長が僕のほうを振り向くと「うわっ、まだいた」と驚いてみせて、「会議なのに遅番なんですか?」と訊くと「午後のパートちゃんたちが少なくって」と言い、「だから、蒼井君最後までいてね」と嘘か本当かわからない顔で言って「駄目ですよ 今日は珍しく用事があるんですから」と僕が言ったのは、いつも「蒼井君暇でしょ」と言われているからで、その通りいつも暇なのだけれど、暇だからこそ、今日の用事を強調したかった。「ほんと、珍しいね」と課長は言い、「高校のときの友達が新宿に来るんですよ」と説明した。
「地元の友達?」と課長が訊いたのは、多分、いま地元に住んでいる友達がわざわざ遊びに来たのかという意味だと思い、僕は「こっちに住んでる子で、看護学校通ってるんです」と答えたのだけれど、課長もその答えに満足したようで、「ああ、前なんか言ってたね 渋谷かどっかに住んでる子だっけ?」「よく覚えてますね。寮に住んでるんですけど」「ふぅん、じゃあ、今日最後までね」と言い「意味わかりませんよ。僕の話聞いてました?」と訊くと、当然という顔で頷いた。「だから、最後まで」「いや、だから課長、聞き分けの悪いちっちゃい子じゃないんですから」「それなら私、今から聞き分けの悪いちっちゃい子になるから。今日、最後までね」「だから、今日は用事があるって言ってるじゃないですか」「用事? 私は知らないわよ。蒼井君の用事なんて」「だから」「さっきから だからだからってうるさいよ。知ってる? シフト表作ってるの私なんだけど」「課長、職権乱用です」「蒼井君も早く課長になったら?」「意地悪ぅ」「へへん」「いいですよ もう売場行きますから」と言って僕が立ち上がっても課長は「夜、蒼井君にどんな仕事してもらおうかなぁ」なんて考えを口にしていて「僕は定時に上がりますよ」と言うと「じゃあ、お土産買ってきてね」と言い「新宿で何のお土産買えって言うんですか」と訊くと、「そうさなぁ、中村屋の肉まんとかぁ、コージーコーナーのケーキでも良いしぃ」と呟いているから「肥りますよ」と忠告すると、頬に空気をためて膨れっ面を作ったあとに課長は笑いながら手を挙げて、休憩室から出る僕を送り出した。
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