第23話

「いらっしゃいませ」と声を掛けられてカウンターに近寄り「ハンバーガーのセット」と言うと、(いつも通り)「お飲みものは?」と訊かれて「ブレンドコーヒー」と答えた。

 毎日のように利用しているから、「お飲みものは?」と訊かれることを知ってはいるのだけれど、ひと息に「ハンバーガーのセットでブレンドコーヒー」と言ってしまうと、いつもではないのだけれどテンポの狂ってしまうときがあって、店員にマニュアルがあるように、お客側にもマニュアルがあると思うし、何年も通っている家の近くのコンビニエンスストアでも、毎回お弁当を買うと「温めますか?」と訊かれて、その度に「いいえ」と断ることが(僕の中の)ルールで、いくら顔見知りになったとしてもそれは「なあなあ」になってはいけないと思うし、そんな融通の利かないところを嫌がる人もいるかもしれないけれど、東京、少なくとも新宿では「なあなあ」であって欲しくはないし、飲み屋だとかなら別だとは思うけれど、そもそも僕が上京したのも、実家の近所付き合いの面倒さだとかから離れるためということもあったし、僕にとっては、この接客態度の(田舎と比べての)味気なさがたまらなく新宿を好きにさせている理由だとも思う。

 僕の注文を受け取った女性は中国の人で(名札に見える漢字と、その並びが中国名で)、ブレンドコーヒーを持って来るために後ろを向いたのだけれど、それまでカウンターで見えなかった足がとてもきれいで、細いのだけれど、けして貧弱ではなく、貧弱なんて程遠い健康的な艶があって、別に足フェチではないのだけれど、この足はとても魅力的で、ブレンドコーヒーがもっと遠くにあっても良いのにと思ってしまった。職場の同僚にも健康的な腕を持っている人がいて、密かに見惚れているときがあるのだけれど、色気があるというものではなくて、(しなやかそうな)筋肉と(なめらかそうな)肌の艶が何かを掴むときなどに引き締まる様が『健康的』以外のなにものでもなくて、(健康的ではない僕の無いものねだりなのか)「良いなあ」と思ってしまうし、今でも、歩いて行く足の筋肉の動きを見て(また、あからさまに筋肉質でないところなどが)「良いなあ」と思う。さっきの『四谷学院』の広告でも、教科書を打ち破いている健康的な様に惹かれてしまうのだろう。だからといって今まで付き合ってきた人たちが健康的な四肢を持っていたかというとそうでもなくて、それぞれに共通するものを見付けようと思ってもなかなか見付けられなくて、もしかすると他人が見たら共通項を導き出せるのかもしれないけれど、そのことは前にも考えたことがあって、どうせそのときと同じようにわからないままだろうと思い、渡されたトレイを受け取って入口脇にある階段を上り、さっき僕が歩いて来た道を見下ろせる(東側の)窓際の席に向かった。

 ひとりでボックス席に座るのは人の少ない朝だから許されることで、他にもひとりでボックス席に座っている人はいて、みんな出勤前の最後の一服を(ある程度他人との距離を保って)楽しみたいのだと思うし、僕もそれを求めて毎朝ロッテリアに来ていて、鞄とコートを(ふたり掛けの)椅子の窓側に置いて、灰皿とペーパーフキン(二枚)を持って来て座り、両手の指を絡め上半身だけで「んっ」と背伸びをした。息を吐いて前屈みになり、左肘を机に置いた格好で右手で左の胸ポケットに入っている煙草とジッポを取り出し、肘をついたままの左手で煙草を一本取り出し、右手のジッポで煙草に火を点けた。煙草を咥えながらコーヒーの蓋を開け、砂糖とミルクを入れ、小さなスプーンでかき混ぜる。店内には音楽が流れていて、音量は抑えてあるのだけれど誰も話していないのでよく聞こえ、ポップミュージックをクラシックギターやピアノだけのインストゥルメンタルに編曲してあり、同時に小鳥の囀りも流していて、本を読んだりするのにも邪魔にはならないのだけれど、知っている曲が流れてくると聴き入ってしまうときがある。何をするわけでもなく煙草を一本吸い終えてからポテトに手を付ける。口の中がモコモコになるのだけれど、コーヒーは熱くてまだ飲めなくて、お腹も空いているからもうひとつ食べる。奥歯に張り付いたカスを指で引っ掛けて取りたいのだけれど、まだポテトは残っているし、頑張れば舌で取れそうで、窓の外を見ながら舌を動かし、そのあいだにもう一本煙草を取り出し火を点けた。

 さっきカウンターで僕の注文を受けてくれた人が階段を上って来て、灰皿を整理したりトレイを片付けたりしていて、またその足に見惚れてしまったのだけれど、片付けている途中で目が合ってしまい、急に逸らすと不自然なので僕はそのまま見続け、相手は仕事があるので自然に目を自分の手許に戻したのだけれど、階段を下りようとする前に一度僕のほうを振り向き、また目が合ってしまい、なるべく自然に見えるように窓側へ顔を動かしながら煙を吐いた。多分あの店員はお客の視線なんて気にしていないだろうけれど、服にゴミがついていたり、奇抜なデザインの制服だったりして見ていたのならともかく、足がきれいで見ていた僕としては目が合ったことは気まずくて、煙草を揉み消しながら溜息をつき、「なにやってんだか」と言いながらポテトを食べた。

「あ」と声を出してしまったのは、昨日買ったゼリーを食べ忘れていたことに気が付いたからで、でも昨日食べなかった悔しさよりも、今日家に帰ればゼリーがあることのほうが嬉しくて、得した気分になったのだけれど、自分で買ったものだし、これっぽっちも得なんてしていないのに、友達にお金を貸して、利子もついていないのに一ヶ月後だとかに返ってくると得した気分になるのと同じで、そういえば三輪さんに貸しているCD『ディープ・フォレスト』(エッセンス・オブ・ディープ・フォレスト)を返してもらっていないと思い出す。

 ハンバーガーを包んでいる紙を開け、一口食べる。外を見ると紀伊國屋書店のビルとアドホックビルのあいだの道にトラックが停まっていて、青い作業服を着た人が自動販売機と一緒に荷台の上に立っていて、地面に降りると荷台の右から左にゴム紐を放り投げて、グルっと左に回り込み、ゴム紐に体重を乗せて自動販売機を括り始めた。紐を投げては右に行ったり左に行ったりして自動販売機を縛っていて、見ている限り作業員はひとりだけなのだけれど、どうやって自動販売機を荷台に乗せたのかが不思議で、もしかすると自動販売機で隠れている場所に自動販売機を持ち上げるための機械があるのかもしれなくて、そうこうしているうちに自動販売機を括り終わっていて、ゴム紐に弛みがないか左側から順に確かめ終わった作業員は運転席へ乗り込み、(硝子越しにエンジン音が聞こえ)窓から顔を出し歩行者がいないことを確かめてから発進した。いつから作業していたのかも気になるけれど、周りには取り除かれた「自動販売機跡」は見当たらなくて、自動販売機を取替えたのかもしれないけれど、取替えたのなら、その作業もたったひとりで行ったのだろうかと思うと、(もう見えなくなった)あの作業員がとてもすごい人に思えてしまう。

 今「すごい」と言ったけれど、「すごい」というのは「恐ろしい」感じのするときに使うのが本来の使い方で、「言葉は生き物」というから「すごいかわいい」だとか「すごくおいしい」だとかいった使われ方をしている今を一概に「悪い」とは言えないし、僕もよく使ってしまうから他人を注意することなどできないのだけれど、さっきの作業員を「すごい人」と言ったのは、(僕にとって)「恐ろしい」感じのする人だからで、(機械を使っているのかもしれないけれど)ひとりで自動販売機を取替えることができるなんて、「すごい」。

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