第19話
電話がかかってきた。
今週中に整理しなければいけない書類を思い出しながらも今日は仕事をする気になれなくて、どうして時間を潰そうか考えようとしていたところに電話がかかってきたので、二回目のコールが終わる前に、本棚の上の充電器に差し込んであった携帯電話を手に取って、三回目のコールの途中でボタンを押して「はい」と言うと、「あ、出た」と美香が言い「僕はお化けじゃない」と返すと「昨日祐ちゃんだって『出た』って言ったじゃん」と美香は言い「そうだっけ」と返すと「そぉだよぉ」と美香は言った。
僕のことを『祐ちゃん』と呼ぶ友達は美香ぐらいしかいなくて、携帯電話の液晶画面で美香からの電話だということはわかっていたけれど、『祐ちゃん』と呼ばれて、その声色と一緒に美香だと確認できる。美香はいつのまにか僕の中で『美香』になってしまったけれど、中学の頃から(仲の良い)女の子を呼ぶときは「ちゃん」付けにしていて、(少なくとも)僕の周りの男は女の子を呼ぶときに「ちゃん」なんて付けないから、いつか下校途中に「じゃあね、朝美ちゃん」なんて声を掛けたら「振り向く前に蒼井君だってわかる」と言われたことがあるのだけれど、なぜか美香だけは「美香」と呼び捨てにしてしまう。
「どうしたの」と訊くと「別に。用がないと電話しちゃ駄目なの」と言われてしまって「そういう訳じゃないけど」と言った後に沈黙がやって来た。
黙ったまま立ち上がって、CDラックから『バッド・ハギス』(アーク)を取り出してコンポにセットし、再生ボタンを押しながら「陽子ちゃんの葬式っていつなの」と訊くと「今日通夜があって、明日葬式があんの。何かけてんの」「『バッド・ハギス』。よく聞こえるね。音量抑えてるのに」「電話の性能を馬鹿にしちゃ駄目よ」「消そうか」「別に構わないけど」と会話が続いた。
「通夜には出たの?」「ううん。出てない。明日の葬式には行くつもり」「学校は?」「休む」「みんな休むの?」「私だけ。先生たちも何人か行くけど、生徒は私ひとりだけ。でさぁ、明日行っていい?」「どこに?」「祐ちゃんの仕事場に決まってんじゃん」「良いけど。明日は早番だから七時前には上がれると思うけど」「明日葬式以外に行くとこあるから私のほうが遅くなるかもしんない。行くとこは新宿だし、多分私も七時くらいになると思うんだけど、喪服だけど良い?」「僕は良いよ。美香がそれで良いなら」「いちいち渋谷戻んのも面倒だし、そんな時間ないし」煙草の煙を天井に向かって吐きかけると、天井に届く前に渦を巻いて見えなくなった。財布の中に千円札が二枚入っているだけなので仕事を上がってすぐに銀行に行こうと決めると「どこで待ち合わせする?」と訊いてきたので「前と一緒で良いんじゃない」と言い「紀伊國屋の前んとこ?」「ああ」と言って待ち合わせ場所が決まった。新宿は待ち合わせ場所になるようなこれといった目印がなくて、東口の広場は広過ぎて見つけ難いし、アルタ前は人が多すぎて嫌になる。だからいつもファーストフード店だとか、駅から少し離れたお店の前だとかにしていて、紀伊國屋の前は(外国人の待ち合わせ場所としてよく使われているけれど)そこまで人は多くないし、待っているあいだ本を立ち読みできるから時間を潰すのにも良い。何年か前までは一階が雑誌売場で立ち読みする人が多く邪魔だったけれど、売場が二階に移ってからの一階正面はちょうど良い待ち合わせ場所になって、買おうと思っていた本を思い出してついでに買おうかと思ったら、好きな映画監督(クシシュトフ・キェシロフスキ)のDVDが発売されたことを思い出し「紀伊國屋のDVD売場って知ってる?」と訊くと、美香は「知らな~い」と言った。
売場の場所を説明している途中に「じゃあ、祐ちゃん家で映画観ようよ」と美香は言い出して「思い付いたことをすぐ口に出すなよ。馬鹿だと思われるぞ」とわざと怒った風な口調で言うと「馬鹿だもん」と拗ね「良いじゃん。映画観ようよ」と考えを押し通してきた。「良いけど、買いたい映画は女の子とふたりで観るようなもんじゃないし」(「映画観るなら映画館行こうよ」と言う前に)「祐ちゃんもやっと私を女だとわかってくれたのね」なんて舞台女優のような作った声で台詞を回し「映画観るなら映画館で良いじゃん」と言うと「そんな時間から映画なんて観たくない」と映画を観ようと勧めたのは美香なのに、まるで僕が誘ったように断られてしまった。
「で、DVD売場の場所だけど」と説明の続きをしようとすると「いいよ。大体わかったから。わかんなかったら店員さんに訊けばいいし、祐ちゃんの携帯に電話するから」とやる気無さそうに言った。「何食べに行くの?」と訊くと「何でも良いよ。会ったときに決めよ。新宿なんてお店沢山あるし、予約しないと入れないようなお店に行くわけじゃないしさ」と答え「ただ酒が飲みたいんだろ」と訊くと「あたぼう」と笑った。
ふと「年齢を重ねると涙もろくなる」のかどうかということを思い出して「映画観てて昔より涙もろくなった?」と訊くと「う~ん……小学校のときとかより映画観るから、泣く回数は増えたと思うよ。大体私って涙もろい人だし」と言われて「そうか、映画を観る回数か」と呟くと「どうしたの?」と訊かれて「参考になった。ありがとう。回数ね」と言うと「変なの」と言われて「美香に変だなんて言われたくない」と返すと「す~み~ま~せ~ん~」と美香は笑った。
決めておくべきことが決まるとお互いに話題を見付けられずにいて、また黙ってしまった。高校時代には尽きることなくずっと話していたのに、あの頃何を話していたのかさえ思い出せないほどに今は話題がなく、明日会ったときにも話題が見付けられなかったらどうしようかと不安にもなるけれど、会えば会ったで何か話しているのだとも思う。美香が溜息をついたので「溜息なんてつくなよ」と言い「だってさぁ」の後「なんかさぁ」と言い「ねぇ」と(気分の)同意を求めてきた。「彼氏はどうしたの」と訊くと「いるよ」と答え「いるのは知ってるけど、良いの?僕なんかと出掛けて」「全然平気。最近会ってないし」「険悪ムードなの?」「相手の仕事が忙しくてさぁ、なかなか会えないんだよねぇ」「あの建築家とかいう人そんなに忙しいの?」と言うと「あぁ、あの人とは別れた」と美香が言った。「え? だってこのあいだ付き合い始めたばっかじゃん」と言うと「別れたの三ヶ月くらい前だよ」と言われて、三ヶ月以上美香と連絡を取っていなかったことに気が付いた。「今の彼氏はカラオケボックスで働いてる人なんだけど、二週間くらい前かな、付き合い始めたの」「二週間でもう会えなくなってるの?」「だから仕事が忙しいんだって。ひとり暮しだから家賃とかお金かかるじゃん。このあいだもご飯作りに行ったんだよ」「何作ったの」「カレーとかサラダとか」「それだけ?」「あとは、コーヒーとか?」「飯じゃないじゃん。でもさ、ご飯作りに行っても、見返りとか期待しちゃ駄目だよ」「見返り?」「『あのときご飯作ってあげたでしょ』とか言って、なんかしてもらおうとか考えるなってこと」「私そんな意地汚くないもん」「なら良いけどさ。男ってご飯作ってもらったりすると、それが当然のことみたいに思って、かわりに何かするなんて考えないんだよね」「でも、次の日ご飯おごってもらったよ」「だから、美香も『ご飯を作ったら次の日におごってもらえる』ことを当然のことみたいに思っちゃ駄目なの」「じゃあどうすれば良いの?」「ご飯作る前とかに『今日ご飯作ってあげるから、今度どっか食べに連れてって』だとかって約束すれば良いんだよ。それで『お金がないんだ』とかって断られたら『じゃあ一緒にご飯作るの手伝って』とかって言えば良いじゃん」「私おごってもらうためにご飯作るんじゃないよ」「だから、ご飯作ったら作ったで、そのあとおごってもらうとか考えちゃ駄目なの」「考えてないよ」「だから、美香はそのままで良いの」「なんだ。良いんじゃん」「さっきからそう言ってるじゃん」「よくわかんない」などと会話は進み、「ひとりは楽だよ」と僕に恋人がいない話になり、(『バッド・ハギス』が止まって)最近買ったCDの話になり、細かな話題(美香が作れる料理のこと、昔のテレビ番組のこと、上京してから落ちた視力のこと、僕がウィノナ・ライダーの煙草を吸うときの手が好きなこと、全身疲労に利くアミノ酸の摂取の仕方のことなど)を話し、映画の話になって「クソくだらない」と美香が言い「こら。クソはないだろ」と注意すると「だってクソ映画なんだもん」と小声で反抗して「つまらない映画を一〇〇本観るのと良い映画を一本観るんだったら、私は良い映画を一本だけ観る」と言ったので、「つまらない映画と良い映画を一〇一本観たいな」と返すと、美香は「その選択肢があったか」と妙に感心して、電話越しで姿は見えないのだけれど考え込んでいるのがわかった。「最近観た映画は? どうだった?」と訊かれて「クソ映画だった」と答えると「あ」とも「は」ともつかない声を出して美香が止まった。会話は巡り巡って、昨日と同じ看護士の(美香視点の)一般論になった後、「じゃあね、明日七時に」と僕が言い「電話する」と美香が言って電話を切った。
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