第17話

 部屋に入ると床に置いてある電話機の『留守』と表示された赤色のボタンが点滅していて、鍵を本棚の上に置きコートを脱いで腕時計を外し、ハンカチを洗濯機の中に放り込んでから、電話機の前に屈み込んで再生ボタンを押した。外からだろう雑音が聞こえて、一、二秒相手は話し出さずに、突然「スゥッ」と息を吸う音が聞こえたかと思うと切れた。「ゴゴヨジゴジュウヨンフンデス」と電話が告げた後「ちょっと待って、プレイバック、プレイバック」と歌いながらもう一度再生ボタンを押したのだけれど、やっぱり聞こえたのは息を吸う音だけで、クリアボタンを押して「ショウキョシマシタ」と言った電話に「ご苦労様です」と声をかけたのだけれど、部屋の中には僕ひとりだけなので、独り言を言ったに違いなかった。電話にねぎらいの言葉をかけたのだけれど、だからといって電話に命が宿っているとは思わないし、電話やパソコンやテレビや冷蔵庫や電子レンジや洗濯機に名前をつけるようなこともしていない。テレビのニュースキャスターが「それではまた明日」と挨拶をして、「おやすみなさいませ」と言ってしまうのは相手が言葉を発したからで、電話だって何も言わずにメッセージを消去したなら何も返さなかったと思う。そんな独り言などひとまず置いておいて、さっきの留守番電話は何だったのだろう。微かに聞こえた外の音から場所を特定することなど僕にはできない芸当だし、携帯電話を持っている友達なら外からかかってくることは日常的で、家の電話番号を知っている人も何人もいるから誰からの電話だとは特定し難いし、番号通知機能も付いていない。色々と友達の名前を挙げてみたけれど、そもそも間違い電話かもしれないので考えるのを止めた。

 太陽が沈んでから(美術館を出てから)風が吹いていて、三月といっても初旬の今は冬と言っても変わりなく、部屋の中でも暖房を点けないと寒くて仕方がなくて、電話を前に屈み込んでいる姿勢から、両手を両膝にあてて「よいしょ」と声を出して立ち上がった。「よいしょ」というのが独り言なのかは判断がつかないけれど「やっぱり独り言が多くなったのかな」と言ってしまっていて、実家にいた頃ニュースキャスターに挨拶していたのかは忘れてしまったけれど、ひとり暮しを始めて独り言が多くなったのは間違いないらしく、テーブルの上のリモコンで暖房を点けて、煙草を手に取って火を点けた。

 いつだったかは忘れてしまったけれど、仕事から帰って来て風呂に入るまで一言も喋っていないことに気が付いて「今日は声を出さないで生活しよう」と思い試してみたのだけれど、風呂に入った途端に「熱いなぁ」と言ってしまって、「今日は声を出さない」と決めて一時間もしないうちに声を出してしまい、生活して行くには喋らないと身体に悪いと思ったことがあって、誰が聞いていようといまいと、雨が降れば「雨か」と言うし、眠くなると「眠い」と言う。

 言葉はそもそもふたり以上で会話をするためにあるのであって、ひとりでいるときに使ってもあまり意味がないのだけれど、それでも独り言を言ってしまうのは自分自身への確認のためであるような気がして、自分を把握するために使っているのだと思いたい。この部屋の中に僕以外の人がいれば良いのだけれど、見渡しても誰もいなくて、ふと自殺した陽子ちゃんを思い出した。この部屋のどこかに陽子ちゃんがいて、陽子ちゃんに話しかけていると思えば独り言も独り言ではなくなるのだけれど、死後の世界や幽霊などを信じているわけではなく、でも、信じていなくとも陽子ちゃんがいると考えることはできて、そう考えると本当にこの部屋に陽子ちゃんがいるような気がして、一応「いらっしゃい」と言って煙草を消した。

 どうして陽子ちゃんがこの部屋にいるのかだとか、僕に会いに来るよりも他に行くべき場所はあるだろうだとか、そういったことは考えないことにして、一度この部屋に陽子ちゃんがいると思ってしまうと無下に扱うことなどできなくて、「美香が陽子ちゃんのこと馬鹿だって言ってたよ」と話しかけたけれど、陽子ちゃんがいると思っても、窓際にいるだとか廊下にいるだとか特定の場所を指し示すことはできなくて、どこを向いて話せば良いのかわからないから、床に寝転んで天井を見ている。天井を見ていても陽子ちゃんが見えるわけではなくて、大体陽子ちゃんのはっきりした姿など思い出せないのだから、記憶を辿ってそれらしい姿を思い描いた。話しかけようと思っても何を話して良いのかわからなくなって、寝転んだままCDラックに手を伸ばし『ピンクフロイド』のベスト盤(エコーズ)のディスク2を取り出してコンポに入れた。風が強く、天井や壁がミシッと音を立てて微かに揺れるのだけれど、その風に乗って陽子ちゃんが去って行ったとは思えなくて「外は寒いからね」と言った。本棚の近くにさっき買ってきたサンドイッチとゼリーが(袋に入ったまま)置いてあって、起き上がってテーブルの上にサンドイッチを出して食べ始めたのだけれど、コーヒーを用意するのを忘れていて、一口目を飲み込んでから立ち上がって廊下に出た。

 廊下に出ると部屋の暖房の威力がわかり「寒い寒い」と両腕で互いの二の腕を擦り、やかんに残っている水の量を確かめてコンロの火を点け、吐いた息が白くて「目覚めたら息真っ白で、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき」と穂村弘の短歌を思い出しながらトイレに入ったのだけれど、トイレでも息は白くて、両手をこすり合わせて息を吹きかけていたらなんだか拝んでいるような格好になり、口から魂を吐き出しているような気がしたからまた陽子ちゃんを思い出して「覗かないでね」と言い、「ううっ」と身体を震わせながら小便をした。トイレから出て手を洗い、水で赤くなった手をもう一度こすり合わせて、今度は沸き始めているやかんの口に手をあてて温めた。

 いくら陽子ちゃんがいると思ってもコーヒーをふたつ用意するということはなく、僕の分だけ作って、部屋に戻って床に腰を下ろし「あ、食べたな」と(まるで後ろに陽子ちゃんがいるように)振り向いて言ったのだけれど、一口分欠けているのは僕がさっき食べたからで、「うそうそ」と(陽子ちゃんの)誤解をといた後、手を合わせて「いただきます」とサンドイッチを食べ始めた。

 テレビと対面しながら食べているのだけれど、テレビの電源は入っていないから、テレビの暗闇に映る自分を見ながらサンドイッチを食べていて、もうそろそろ髪を切りに行かなければならない。後ろの髪が首の辺りに見え始めるのが髪を切りに行く目安で、それに気が付くと、今日でも明日でもすぐに行かないと気が済まなくて、いつも行く美容院はお客さんが少なくて、飛び込みで行ってもその日の内に切ってくれるからありがたい。明日、美容院に行こう。

 大学に通っていた頃は髪を切りに行くのが面倒で、何年も行かずに伸ばし放題だったのだけれど、前髪でも目許を過ぎれば鬱陶しくなくなるし、後ろ髪も肩より下に伸びる頃には気にならなくなる。長髪の流行も過ぎ去り、坊主頭がちらほら見られるようになった頃だったから、友達にも「切ってこい」と言われたりしたのだけれど、お金を髪に使うなんて勿体無いような気がして、実家に帰ったときに、母親がお金を渡しながら「切ってきなさい」と言うまで一度も切らなかった。長髪が好きだったわけではないので、切りに行くならとことん切ってもらおうと思って「ばっさりと」と美容師さんにお願いすると、みごとにばっさりと切ってくれて、その髪を見た友達の全員が全員「短いほうが似合う」と断言した。そう断言されると、好きで伸ばしていたわけじゃないのに(天邪鬼な性格なので)長い髪が恋しく思えて、もう一度伸ばしてやろうと思ったのだけれど、いつのまにか就職活動なんて時期になってしまい、伸ばす機会を見つけられないまま就職してしまった。

 サンドイッチを食べ終えてもコーヒーは熱く飲めなくて、煙草を吸いながら冷めるのを待っているあいだ暇だから、本棚から漫画本(『AKIRA』はA4版の雑誌サイズで六巻あるのだけれど、もう何度も読んでいるし、コーヒーが冷めるのを待つだけなので最後の六巻を)取り出して読み始めた。

 最初に『AKIRA』を読んだのは小学生の頃で、使われる漢字も話自体も難しくて理解できなかったし、『鉄雄』が巨大な赤子の姿になるのも気持ちが悪くて名作だなんて思えなかったのだけれど、それでも絵の緻密さには圧倒されて、影響を受け易いから、読んだ次の日から藁半紙にビルの絵やバイクの絵などを描いていた。藁半紙を六枚以上も使って街の絵を描いたのだけれど、端の欠けた(竹の)三〇センチ定規では遠近法を正確に使いこなすこともできなくて、長いあいだ部屋の壁に貼っていたのだけれど恥ずかしくなって剥がした。漫画家になるのがその頃の夢で、形から入るから、Gペンとインク、雲形定規やケント紙やスクリーントーンやホワイトなどを買ってきて毎日描いていたのだけれど、漫画にはストーリーも必要だということに気が付いて、コマ割りや構図などを考え始めた頃、自分にはストーリー構成のセンスがないということを知り、その夢を諦めた。「知った」といっても、小学生にコマ割りや構図の技術なんてあるわけがないし、そういったものは経験を積んで身に付けて行くものだというのに、駄目だと思うとすぐに諦めてしまって、絵でなくとも、その後に詩や小説や音楽にのめり込んではすぐに諦めて、短期集中型で、熱し易く冷め易い性格だとわかったのだけれど、「諦めた」といっても時々絵を描くこともあって、冷め易いのだけれど冷め切るわけではなくて、諦めが悪いほうだということもわかった。だから今『AKIRA』を読んでいても絵が描きたくなったりするのだけれど、それよりも(先を知っているのに)『鉄雄』と『金田』の戦いの先が読みたくて頁をめくると、CDが止まった。

『ヴァネッサ・カールトン』に変えて再生ボタンを押し、コーヒーを一口飲んで煙草に火を点け、灰を落とすために煙草をつまむと吸い口に血がついていて、唇のどこが切れたのかわからないまま煙草を吸い、唾液で血が滲み広がって口紅が付いたようになり、前の恋人も煙草を吸う人で、こんな吸殻が沢山灰皿に残っていた。

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