第9話
部屋に戻ってパソコンの電源を入れ、パソコンが立ちあがるまでの時間に服を着る。ジーパンはいつでも冷たいし、服を着る前に屈むとベルトのバックルがお腹に当たって、これもまた冷たい。真冬ではないのでシャツの冷たさは幾分か緩和したけれど、それでもハロゲンヒーターで温めてから着た。
この冬にハロゲンヒーターを背中にあてながら何時間もパソコンの前に座っていたら背中が痒くなり、低音火傷をしてしまった。それを職場の杉本さん(パートタイマー)に言うと「低音火傷って治り難いんじゃないんですか?」と言われて、あれから二ヶ月ほど経つ今でも背中を擦ると違和感があって、それは低音火傷をした後にもハロゲンヒーターに頼りっぱなしで、毎晩のように背中を温めていたからだと思う。
パソコンは既に立ち上がっているのだけれど、そのままにして台所に行き、お湯を沸かした。冷蔵庫の上に昨日帰りがけに買ってきたドーナツがあって、ひとつ食べて煙草を吸い、換気扇を回すと部屋でかかっている音楽が聞こえなくなった。
雨が降ると観たくなる映画があって、内容は暗いし、希望もないエンディングなのだけれど、それでも『ロゼッタ』を観たくなる。気分が落ち込んでいるわけではないのだけれど、今日のような小雨だと余計に観たくなり、わかってくれないのを承知で言うなら、今日のような日は「『ロゼッタ』を観たくなる日」となる。空の雲は日の光を乱反射させて白くなっていて、降って来る雨の粒は見えないのだけれど、水溜りには波紋が幾つも生まれていて、(廊下の窓から新宿副都心のビルが見えるのだけれど)遠くのビルの赤い光だけが微かに見えるような、そんな日が「『ロゼッタ』を観たくなる」気分にさせる。
雨の日に似合う(と思っている)音楽もあって、それは『スミス』の「ミート・イズ・マーダー」というアルバムで、アルバムの曲全部が雨に似合う。
映画や音楽以外にも雨が似合うと思っているものがあって、「『ロゼッタ』を観たくなる日」と同じ日には、郵便配達夫が似合う。雰囲気だけが問題で、雨降りの午前の住宅街は静まり返り、時折、どこかの駐車場から車のエンジン音だけが聞こえてきて、すると、遠くからバイクの音が、止まっては発進し発進してはすぐに止まる。通りには誰も歩いておらず、その中を郵便配達夫がバイクで走って来る。雨合羽にもヘルメットにも水滴が無数に付いていて、アスファルトの水溜りは波紋を作りながら空を映していて、黙々と手紙を配り続ける姿は、やっぱり雨でないと映えない。
雨のことを考えながらお湯を沸かしているけれど、ずっと前にお湯は沸いていて、やかんの口からは蒸気が勢い良く立ち昇っている。暖房を点けるほどは寒くないのだけれど、蒸気に手をかざすとさっきよりも手に力が入れられるような気がした。手も足も冷たくて、男にだって冷え性はいる。真冬の足は自分でも驚くほどに冷たいし、(極僅かだけれど)これまで付き合ってきた恋人の足は、僕の足よりも温かかった。コーヒーをいれてからもお湯を沸かし続けていて、湯気は煙草の煙と一緒に換気扇に流れて行く。
コーヒーカップを冷蔵庫の上に置いたままでパソコンの前に行き、メールチェックをした後電源を切って、廊下に戻った。台所には一脚だけ椅子が置いてあり、僕はさっきもそれに座ってコーヒーを飲んでいて、今もまたその椅子に座っている。廊下の窓は開け放たれていて、シネマスコープサイズの映画を観ているようだ。窓からは電線とふたつの屋根だけしか見えなくて(晴れている日には新宿副都心のビルが見えるし、窓に近づくとマイクロソフト社の大きなビルを間近に見ることができる)、あとは屋根から不規則に落ちて来る滴が見えるだけだ。
いつも休みになるとレンタルショップへ行き、ビデオを二、三本ほど借りて来て映画を観るのだけれど、今日は午後から出掛ける予定もあるし、見た通り雨が降っているので家にいることにして、ドーナツをもうひとつ食べる。
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