第8話

 目が覚めても身体を起こすかどうかは決めていなくて、もう一度目を瞑った。

 僕はひとりの女性を前に立っていて、右手にナイフを握っていた。そのナイフは人を殺すために作られたものではなく、物を食べるために作られたナイフで、正確には食べ易くするためにステーキなんかを切ったりするナイフだ。後付けで申し訳ないけれど、多分背中側にあったテーブルから取り上げたのだと思う。気が付くと右斜め後ろに男の人がいて、会話をしたかは覚えていないけれど男は僕に「刺せ」と言った。

 目の前の女の人は裸で、僕はそのナイフで鎖骨の下の、胸のふくらみに達する前の(見た目の)滑らかな白い肌にナイフを突き刺した。僕はそれまで人にナイフを刺したことはないのだけれど、その感覚は身に覚えがあり、多分、キャベツを切った感じと似ていたと思う。一度突き刺さるとそれまでの(弾力のある)抵抗は消えて、ナイフを容易く刺し込むことができて、血が溢れて来たのかは忘れてしまったけれど、女の人は悲鳴をあげた。

 自分でも驚いたのは、刺すときにしっかりと肋骨の位置を確かめて、刺し込み易い場所を探していたことで、ざっくりとナイフが胸に刺さって、僕はその刺し心地に快感を覚えたのだけれど、それはすぐに恐怖へと変わった。女の人は両手が空いていたのだから僕に抵抗しても良いはずなのに、目を見開いただけで、聞こえはしなかったけれど「お前を見続ける」と言っていた。

 後ろの男がもう一本ナイフを僕に渡したけれど、僕はもう刺したくなくて、それでも刺せと言うから、さっき刺したナイフの下の肋骨を避けて、突き刺した。女の人は自分の左目のまぶたを両手で上下にこじ開け僕を見ていた。これも聞こえはしなかったけれど「死ぬ直前までお前を見続ける」と言っていて、その途端に僕は女の人の網膜に貼り付いた僕の影や、ナイフに残った指紋で警察に捕まると感じて、ナイフが手を離しても落ちないところまで突き刺し後ろの男にあとを任せた。後ろの男は半分まで突き刺さったナイフを掴んで女の人を殺し始めた。それでも女の人は僕だけを見続けていて、僕は恐ろしくなって左前方の扉に向かって走り、外へ出ると目が覚め、鼓動は速く、汗をかいていた。

 時計は一〇時半を指していて、布団を剥いで起きあがり、目をこすると左目に大きな目脂がついていて、眉間まで転がして摘み取った。トイレへ行き、窓を開けて外を見ると雨が降っていて、でも起きたときに屋根を打つ音が聞こえていたから小降りだということは知っていた。一晩中雲に覆われた東京は昨日の昼間から篭り続けている熱を冷却できず、窓を開けても生暖かい風が入り込んで来るだけなのだけれど、それでも汗は冷やされて、小便と一緒に放出される熱とも相俟って身震いがした。

 台所の流し台で手を洗い、そのまま顔も洗って部屋に戻りCDをかけると『アン・マッキュー』が歌いだし、布団を押入れに仕舞った。

 ひとり暮しを始めて洗練されたのは洗濯や掃除の無駄のない動きで、洗濯機を独立して動かすにはこの家の蛇口は少な過ぎて、風呂場の蛇口が洗濯機に使われる前に風呂場を掃除するのがいつもの手順だった。湯船には昨日の湯が残っていて、蓋を開けると湯気が顔に当たる。小さい頃、母親と一緒に風呂に入り遊んでいると「湯船の底が抜けちゃうよ」と注意され、僕は風呂場の下が巨大な空洞になっていて、真っ暗闇の穴の上に風呂があるのだと思った。それから(自分なりに)静かに風呂に入るようになったのだけれど、今でも底が抜ける恐怖に襲われることがあって、木造アパートの二階で真下に部屋があることも知っているのに、湯船の下が空洞ではないかと思う。栓を抜いてお湯が抜けて行くのを見ても、巨大な穴の中に落ちて行くような気がして、穴の底に落ちるお湯の音が聞こえないのも、聞こえないほどの深い穴なのだと思う。

 思い込みというか、すり込まれた意識というのか、抜け出せない暗示みたいなものがあって、風呂の床下もそうだし、エレベーターにも深い穴があるように思えて仕方がない。もちろん、エレベーターは筒の中を上下していて、床下は空洞なのだけれど、それが地下一階や地下二階までで終わっているとしても、僕にはそれ以上の深い穴があるように思えてしまう。

 エレベーターには別の意識も働いて、どこのエレベーターに乗り込んでも、上がるときは出社している気分になるし、下りるときには退社している気分になる。仕事をするまでエレベーターに頻繁に乗ることなどなくて、買い物などに出掛けても極力階段を使うようにしているから、大きさに関係なくエレベーターは仕事をしているビルのエレベーターだと感じてしまう。

 お湯が抜けて行くあいだにトイレの掃除は済ませ、それから風呂場の掃除に取りかかった。風呂は真剣に掃除をし始めるとなかなか終わらないので、床の端に見える緑色のカビは次の機会にして湯船だけを掃除した。湯船の蓋にも見過ごせない汚れがあるのだけれど、ここで掃除魂に火を点けてしまうと床の端のカビも視野に入れなければならなくなるので、これもまた次の機会にしようと思う。

 これでやっと洗濯機を回せるので、着ていたパジャマを脱いで放り込みスイッチを入れた。スタートボタンを押すと洗濯機は洗濯物の重さを量って洗剤の量を知らせてくれるのだけれど、量を計り終える前に目分量で洗剤を入れ、蓋を閉めた。

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