第6話

 また硝子障子を開けて、部屋から廊下へと出て、左側にあるトイレに向かったのだけれど、いつも閉じたままの硝子障子のほうにはポスターが貼ってあって、部屋の明りが随分と遮られるから、トイレのドアは暗い。トイレに向かって正面に立つと左側の壁にスイッチがあって、トイレが一番上で二番目が風呂場の明りで、三番目(一番下)のスイッチが玄関の外の明りを点けるスイッチになっていて、一番よく使うのはトイレのスイッチで、トイレは北側にあるから昼間でも曇っていると点ける。一番使うから意識しなくても手が勝手に一番上の(トイレの)スイッチを押していて、他のふたつは(「風呂場の電気を点けよう」などと)意識しないとトイレのスイッチを押してしまう。不思議なのはトイレに行くときに別のことを考えていて、直前に「トイレの明りを点けなきゃ」なんて思うと、いつもは何も考えずにトイレに入って行くから間違えないのに、そうやって意識した途端に、いつも意識して押している風呂場のスイッチを押してしまうときがある。

 スイッチの場所というのは暗闇で押すことが多いから、例えば実家の台所のスイッチの場所を思い出そうとするときに、昼間の台所を思い出すとスイッチの場所が見つからないけれど、思い出す時間を夜にして自分の部屋から食糧を漁りに来たシチュエーションに変えると、容易くスイッチの場所を見つけることができて、それは見ているのではなくて身体が覚えていて、人の記憶の仕方にも色々あるのだと思う。同じように、実家の周りの地図を描こうと思ってもなかなか記憶が定まらないのに、学校に行く場面だとか、犬の散歩の場面だとかを思い出すと細かな道まで思い出すことができるし、近くにあった家の(形までとはいかないけれど)雰囲気だったり、何年も駐車していてボロボロになった車だったりを思い出すことができる。でも、小さい頃に怪我をして残った傷跡でも、左肘にあったのか右肘にあったのか思い出せないことがあって、記憶に優先順位があるのかどうか知らないけれど、傷跡よりも、景色だったり生きてきた環境だったりが重要で、何のために重要なのかはわからないけれど、友達と話していて自分を伝えたいときに、傷跡の話をするよりも(どこでも良いけれど、どこかの)景色を見て感じたことを伝えたほうが相手は僕をわかってくれるだろうと思う。

 いま東京では雨が降っていて、外付けの階段を覆っているトタンが細かく鳴っていて、廊下の窓から見える景色は暗くて仕方がないけれど、寒い季節の夜の闇は僕に中学時代を思い出させる。塾に通っていると帰る頃には田舎の道は真っ暗で、自転車の明りしか頼りにするものがなくて、それが冬の夜なのだと記憶している。それまで十二、三年のあいだ、冬にだって夜はあったのだけれど、わざわざ夜更かしして(小学生にしてみれば夜の一〇時だって真夜中だったし)寒空の下に出るなんてことはなくて、週に何度も冬の夜を体験することなんてなかった。反対に夏の夜は小さい頃から経験していたらしくて、特定の時期を思い出すことはない。

 小さい頃の夏の夜を思い出すのは波の音で、親がまだ若かった頃は夏になると毎週のように海に出掛けていて、父親が夜中から車を走らせて午前三時とか四時とかに海に着いていた。僕は眠たくて車の後部座席で眠っているのだけれど、海の近くになると興奮するのか目が覚めて、身体を起こして海を見ようとするのだけれど闇に包まれた海は波の形も見せてくれなくて、ずっと波音だけが聞こえてきた。目を開けていても映るものがないからほとんど目を瞑っているのと同じことで、そうすると耳しか働いていない。だから、波の音を聞くと真っ暗な海(らしき闇)を思い出す。中学生になる頃、親には毎週海に行くどころか、一ヶ月に一回海に行く元気もなくなっていて、波の音は中学生の僕と接点をなくし、記憶として小学生の僕とずっと一緒にいる。海へのドライブ中、父親はいつも同じテープを回していて、おかげでその曲を聴くと車に乗りたくなる。中学生の頃にもなると親と出掛ける回数も少なくなるし、音楽の主導権を僕が握り始めるから車中でかける音楽は『エアロスミス』とかになって、いつのまにか父親の持っていたテープもどこかに行ってしまった。

 CDショップでたまたま父親のかけていた曲を見つけて、その歌手のベスト盤を買って帰って来たのは二年か三年前になる。

 今そのCDをかけながら布団を敷いて眠る準備を進めているのだけれど、ノスタルジックというかなんというか、恥ずかしい気持ちになって、意外と歌詞やメロディを覚えていて、父親がどんなつもりでテープをかけていたのかは知らないけれど、僕が子供を連れてドライブに行くことになったらこの『ポール・アンカ』のCDをかけて行こうと思ったりする。

『エアロスミス』はもちろん『ビートルズ』が出てくる前から活躍していた人で、甘い歌声で伸び伸びと歌う。何年か前に『ゴールデンボウル』というテレビドラマで彼の曲が使われていて、嬉しくもあったし、悔しくもあった。思い出が犯されたような気持ちになったのだと思う。犯されたと言うと抽象的で、僕自身も「犯された」なんて使いたくないのだけれど、やっぱりあれは犯されたのだ。

 例えば僕に子供がいて、一緒にドライブへと出掛け、最近聴いている『シガー・ロス』や『モーター・サイコ』や『ジャガジャジスト』などを流し続けていたら、その子供が二〇代になった頃、同じ曲を聴いて恥ずかしがったり、意外と覚えているメロディに感動していたりするのだろうかと考えると、なんだかくすぐったい。

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