第5話
『モーヴァン』という映画を観て僕が感動したのは、主人公が恋人の死に触れても、その侵入を防いだことで、まさしく憧れの生きて行く姿だった。
死の侵入を受け入れてしまい、それに捕われてしまった姿を描いたのが『まぼろし』で、美香がもっと思い込みが激しく感情をコントロールできないほどまで死に触れてしまったら、陽子ちゃんが死んだということも受け付けなくなり(浸透性のある『死』と受け付けないといった『死』は別のもので)、美香は悲惨な姿(『まぼろし』ではその姿を肯定的に描いていたけれど、あれは映画であるし、浜辺を走って行く所ですべてが終わっている)で僕の前に現れるのだと思う。
『モーヴァン』も『まぼろし』も(映画としてではなく)極端な例で、美香は多分『イン・ザ・ベッドルーム』の「息子が殺された母親」と近い場所にいるはずで、あの姿は辛い。
『モーヴァン』では主人公もその周辺の人も不幸には見えないし、『まぼろし』では(少なくとも)主人公は幸福に包まれているけれど、『イン・ザ・ベッド・ルーム』の母親は、母親自身も、周りの人も不幸だ。
僕は死に触れても動揺したくないのだけれど、美香からメールを貰って「大変だ」と思ったり、死についてこんなに考えていたりするのだから十分僕も動揺していて、まだまだ「モーヴァン・カラー」には程遠い。
一年以上も前に新宿の紀伊國屋書店の六階で詩集を立ち読みしていたとき、どこかの大学生ふたりがチラシを僕に渡して「生きることについて一緒に考えませんか」と勧誘して来て、チラシには太宰治の顔写真が載っていて、それを見た途端に笑いそうになってしまった。
もちろん、生きることについて考えるのは無意味なこととは思わないし大切だと思うけれど、太宰治の顔写真を載せている時点で、その頃から進展していないことを表しているようだったし、僕は早く詩集に戻りたかったから「考えるのに疲れました」と笑いながら言った。後でもっと言葉を変えれば良かったと思ったけれど、学生ではなくなった僕に「生きること」について考えている余裕などないのも確かで(それは、仕事が忙しいということではなく)、生きることについてではなく、生きて行かなければならなくて、そのために毎日仕事をしている。すると相手の学生が「それは逃げてるんじゃないですか?」と強気に出て来た。
彼女たちにとって「生きる」ことと「生きることについて考える」ことが同義語のようにあるらしくて、それは違うだろうと思う。生きることについてわざわざ考えなくとも生きて行くことはできるのだし、極論を持ち出せば「脳死」の状態で考えることができない人でも「生きている」ことには変わりなく(「脳死」の人が本当に考えていないのかはわからないけれど)、彼女たちはまず「生きること」ではなく「生きる」ことの定義から始めたほうが良い。僕からすれば「生きることを考えている自分たちに酔っている」としか思えなくて、「生きること」だとか「その意味」について考えるのは自然発生的なもので、強制されても困ってしまうし、などとそんなことを考えて笑みがこぼれた。
「何笑ってるんですか」と女が言い、余計に笑いを促されてしまって「興味ないから」と突き放した。
美香に会うときの用意をしようと思ったらこんなことを考えてしまったけれど、とにかく、死んだ人について考えることは悪いことではないのだけれど、美香自身は生きているのだから、僕が美香に対してできることは生きていることを実感させることだと思う。美香がどんな形で死者を記憶に留めるのかはわからないけれど、美香が生きていることを「肯定」する記憶にさせたい。
「死んだ」というのは他者の視点であって、「死んだ」ことを認識するのは死者ではない。死んでからの「から」を認識する他者が死者には必要で(他者がいたとしても、認識できないようでは意味がなく)、「から」が重要なのだと思うし、死後は死者よりも他者のためにあるようなもので、「死」に意味を持たせるのも死者ではなく他者なのだし、どういった意味を持たせるのかも他者の自由なわけで、美香が陽子ちゃんの死にどんな意味を持たせるのかは美香の自由だ。
美香が僕を冷たい人だと思ったことの証明になるようで悔しいけれど、人が死ぬときは、その人が死ぬべきときなのだと僕は思っていて、その人はそれ以上にも以下にも寿命を変更させることはできず、その死が事故であれ事件であれ(戦死でも自殺でも)、その人(や家族)が「もっと生きていたい(生きて欲しい)」と思おうとも、やはり死ぬときなのだと思う。もちろん僕が今ここで死んでも、そういうことだ。
ひとりの死が何百もの命を救う、などという言葉で着飾るつもりはないのだけれど、ある人が死に、それで法律が改善されたり、周りの人の人生が好転したりすることは、変化の切掛けとして「死」が必要だったのだと思う。極論を言ってしまえば、法律が改善ではなく改悪されたとしても、人がひとり死んで、それでも誰の人生も変化せず、それまでと同じように生きて行ってしまうよりはマシだと思う。
それなら「法を改善するためにお前が死んでみるか?」と訊かれて「良いですよ」と僕が答えるかというとそうではなくて、あまり良い例えではないけれど、アインシュタインが相対性理論を発表したとき、その論説を他の科学者は自然に理解した(理解していなければアインシュタインの名前を僕らが知ることはなかった)。ということは、相対性理論はアインシュタインだから発見できたのではなくて、「たまたま」アインシュタインが発見したということなのだ。別の誰かが発見していたかもしれないし、同じように、ビートルズにしても、あの時代のイギリスにはビートルズよりも巧いバンドはいたし、同じような音楽が色々なところで演奏されていて、数あるバンドの中から「たまたま」ビートルズが選ばれたに過ぎない。「選ばれた」というと「何に」選ばれたのかが問題になるけれど、「時代」に選ばれたのだとも言える。ビートルズでなくとも良かったはずで、やはり例えを出してみても「良い例え」とは思えないけれど、とにかく「死」も同じで「たまたま」その人だった、ということになる。だから僕に「死ね」と言っても「死ぬとき」だとは思えない。
「たまたま」というと、遺族は「たまたま」死んだことに不満を漏らすかもしれないけれど、だから「選ばれた」と僕は使い、わざわざアインシュタインやビートルズといった例を挙げたのであって、「選ばれた」ことは(いくら他に候補者が存在していたとしても)「選ばれるべき」存在だったということで、(「たまたま」だとしても)「選ばれた」ことは見過ごしてはいけない事実だと思う。相対性理論もロックも「必然性」があってそれぞれの時代に生まれて、同じように「人の死」も「必然性」あってのことだと思う。だから「死」に直面した他者は「必然」の変化を迫られるのであって、そこで変化をしなければ、それこそ、「死」への侮辱であると思うし、尊重(というと言葉が大仰で恥ずかしいけれど)の顕れとして、僕らが「アインシュタイン」や「ビートルズ」の名前や偉業を記憶に留めているのと同じように、「死者」を記憶に留めるのだと思う。なんだか話がややこしくなって僕もわからなくなってきたけれど、やっぱり美香には陽子ちゃんの死を否定せずに受け止めて、生きていることを肯定して欲しい。とにもかくにもそういうことだ。
けれど、しかし、やはり、やっぱり、死について考えたり生について考えたりするのは疲れて、コーヒーだってもう飲み終わっているし、雨が強くなって屋根がうるさく、大体、こんな話をしたところで何がどうというわけでもないし、他人に強制しようと思えるほどの考えでもなくて、明日は仕事が休みでこんなにも夜更かししているのだけれど、明日は行かなければならない所があるし、あくびが止まないのでもう眠ろうと思う。
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