第4話

 メールのタイトルが空欄で、送り主は表示されるから悪戯メールでないことはわかったけれど、いつも佐伯美香は『こんばんみ』や『こにゃにゃちわ』なんてタイトルをつけてくる。

嫌な感じというのは悪いことが起こるたびに感じるものではなくて、虫の知らせというものもいつもあるわけではなく、僕は今ほんの少し未来から話しているからこのメールが悪い知らせということを知っているし、だからタイトルが空欄であることにも注視しているけれど、メールを受け取って内容を確認するまでは悪い予感などしなかった。だから余計内容に驚いた。

「友達が自殺した」

 これは大変なことだ。これは大変なことだ。そして美香に電話をした。どういった言葉をかければ良いのかわからないのに電話をかけていて、かける言葉を用意する時間もないし、どうしてこんなにも動揺しているのかわからなかったけれど、考える前に呼び出し音が途切れて「出た」と僕は呟いた。

 電話に出てくれることを願って電話をしたのは間違いないのだけれど、どこかで意気消沈して出られないのではないかとも思っていた自分に気が付きながら「あのメール、本当?」と訊くと「陽子が自殺したの」と返ってきた。

 二度目の驚きである。「陽子ちゃんが?」と答えているあいだに、僕は自分で把握できないほどに頭を働かせて記憶を辿っていた。「陽子」というのは美香の友達で、美香が通っている看護学校のクラスメイトで、僕も何度か会ったことがあって、背は低くて、すこしぽっちゃりしていて(これは肥っていることをぼかすための表現ではなくて、本当に「ぽっちゃり」という言葉が似合うのが陽子ちゃんで)、パンクな服装をしていて、いつもサングラスをかけていて(黒色ではなく、黄色のグラデーションがかかっていたり、橙色一色だったりする、なんだか「おしゃれ」なやつだ)、話し方に棘があって、でもそれが憎めなくて、一度酔っ払った陽子ちゃんが僕に電話をかけてきたこともあって(どうして電話番号を知っていたのか今でもよくわからないし、気が付けばそれを知ることももうできなくなってしまった)、電話で聞いた陽子ちゃんの声はいつもよりトーンが高くて、(本人には言わなかったけれど、やっぱりもう言えないけれど)可愛らしい声をしていると思ったりして、他にも言葉にできないような、感覚としての陽子ちゃんを一息に思い出した。

 そして美香が電話越しに泣き始めるのではないかと思った途端に、美香は笑い出して「さっきもね、友達と話してたんだけどさぁ、陽子のことだからなんか間違えちゃったのよ。死ぬつもりなんてなくてさぁ、ガスが漏れてんのに『良い匂いがする~』とか言って眠っちゃったりしたんじゃないの?ってさぁ」と言い「ガスなの?」と訊くと「知らな~い。私も友達から聞いて、死んだってことしか知らんもん」なんて気の抜ける言い方をした。

「いつなの?」と訊くと「昨日の夜」と返って来て、僕は人が死んだと聞くといつもそのときに何をしていたのかと考えて、それはかなり正確な記憶になる。『ダイアナ妃』が亡くなったときに何をしていたのかはっきりと覚えているし(朝起きたばかりでパジャマ姿のままテレビ画面のテロップを見ていて、母親と父親が出掛ける間際で、父親がいたから土曜日か日曜日だったと思う)、上京して『皇太后』が亡くなったときは、高橋さんへ手紙を書いていた。身近なところだと祖父が亡くなったとき、僕は自動車学校で自動車を運転していた。『阪神大震災』が起きたとき、学生の僕はもちろん眠っていたし、『ニューヨーク同時多発テロ』のときは、風呂からあがったばかりで裸同然のまま点けっぱなしだったテレビに映っているビルと煙と青空を見ていた。

 それで昨日何をしていたかと思い出そうとしても、今回ばかりは無理だった。夜といわれても時間が広範囲過ぎるし、もし「何時何分」と伝えられても、分刻みで生活なんてしていないから思い出すのも難しくて、思い出せても「~~をしていた頃だろう」と推測の域を出ない曖昧さでしか記憶を辿れない。

 そうこうしているあいだにも電話の会話は進んでいて、美香はまだ笑っていた。

「馬鹿よ、陽子は」と言って笑っている。

 映画やTVドラマで見るような(聞くような)痛々しい笑い方ではなくて、本当に呆れているようだったから余計に僕は心配になった。

「このあいだから学校休んで実家に戻ってたんだけど、世田谷なんだけどさぁ、理由は誰も知らなくって、家庭の事情ってことになってたんだけど」と、陽子ちゃんのことを思い出しながら美香は話していて、いつもの通り抑揚のない話し方だから、それが死んだ陽子ちゃんのことを話しているとは思えないのだけれど、だからといって「今はどうしてんの?」なんて質問をできるはずもない。

「電話したときも元気そうだったから『なんで休んでんの?』って訊いたら『ちょっとね』って。その日渋谷に遊びに来てて『渋谷に来たんなら学校来れば良かったのに』って言ったら『学校行ったら、授業に出ないと駄目じゃん』とかって笑ってんの」とかなんとか、美香はずっと話していて、面白くもなんともないのに笑っている。

 死別でなくとも何かを(人であったり物であったりを)失ったとき、瞬時に感情を露にして泣いたり怒ったりするほうがよっぽど素直なはずで、一度客観的に引いて受け取ってしまったとしても(それが大人になったひとつの証明であるのかもしれないけれど)、その後(一日後なのか一週間後なのかはわからないけれど)必ず悲しみで(こんな「悲しみ」なんて言葉では表現できないような感情で)抑制が効かなくなるはずだ。だから、今週中にでも僕の職場に寄るように言って、食事でもしようと誘って電話を切った。

 切る直前に美香の話は陽子ちゃんの話から看護士の(美香の視点の)一般論になっていて、「患者の気持ちを敏感に感じ取れって言われるけど、あんまり敏感でも陽子みたいに参っちゃうし、周りの先輩とか見てると結構みんなタフで、お酒もガンガン飲むし、煙草も馬鹿みたく吸って、それぐらいじゃなきゃやってけないのかなって思ったりもするんだよね」なんて言うから「美香はどうなの?」と訊くと「お酒大好き」と笑った。だから、今度飲みに行こうと誘うことができたのだけれど、僕はまったくお酒が飲めない。

 電話がどれだけ長かったのかはわからないけれど、まだ二時にはなっていない。

 美香は映画でも何でもすぐに感情移入し、すぐ感情を表に出す。(また死の話で悪いけれど)僕の実家の近くで殺人事件が起こり、加害者が(名前を伏せるけれど)小学校時代の僕の友達で、被害者はその友達の父親で、ということを母親から電話で知らされた。そしてそれを美香に「びっくりして笑っちゃったよ」と軽く話したら美香は急に怒り出して、言葉にはしなかったけれど「なんて冷たい人なの?」みたいな目をして睨んだ。

 もちろん、友達が殺人犯になったのだし、良くしてくれたおじさんが死んで、新聞にも載るほどの大事件だったのだけれど、遠く離れた場所で起きた殺人事件に動揺しても仕方がないと思う。こんなところで悲しがって心を塞いでもどうにもならないし、その友達とは小学校を卒業してから一度も遊んだことはないし、連絡だって取っていなくて、(「そんなこと」なんて申し訳ないけれど)そんなことにいちいち気を取られていたら新聞なんて読めなくなる。

 けれど、僕が感じなくともそれを聞いた美香は(誰に対して感情移入したのかはわからないけれど)、僕を冷たい人間だと思っていた。そんな美香が、今回の自殺に関して笑い飛ばしているのを聞いて不思議に思う。

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