第2話
救急車のサイレンが聞こえると、小学校の頃は親指を隠していて(親指を隠さないと親の死に目に会えないと言われていて、でももっと小さかった頃は「親の死に目」の意味がわからなくて、とにかく悪いことが起こってしまうのだと思っていた)、その後、別の地区の友達が霊柩車を見ると親指を隠していて、それを知ってからは救急車でも霊柩車でも通るたびに親指を隠し、中学校に上がる頃になると、救急車のサイレンが聞こえると「お前を迎えに来たぞ」と言って友達をからかっていた。いまはどうかというと、親指を隠すことはなくなって、幸せだと感じるようになった。相対的にそう思うのであって、いま救急車で運ばれて行く人よりも、身体の不調を感じることもなく風呂に入っていられる自分は幸せ者だと思い、病人を見守る家族や友達よりも、少しくらいは幸せなのだと思う。
もしかすると、いま治療しないと死に至ってしまう恐れがあり、救急車に乗っていることが最善の道かもしれなくて、一概に僕のほうが幸せだと言い切ることはできないけれど(幸せにだって色々な幸せがある)、僕は詳細を知ることはないのだし、当事者との距離があるからこそ幸せだと思えるのかもしれない。
そんなことを考えているあいだに身体は温まり、風呂を出てバスタオルで身体を拭いた。身体を洗うときと拭くときの順序は同じで、最初に頭、左腕、右腕、背中とお腹を交互に、それから右足、左足となり、ひとり暮しだし、脱衣所と呼べるような空間もないので、わざわざパジャマを近くに用意していない。裸のまま部屋に入って、今朝に脱いだそのままの形で床にあるパジャマを跨ぎ、バスタオルをハンガーに掛け、振り返ってパジャマを蹴り上げて片手で掴み取った。真冬はそれだけで身体が冷えていたけれど、今では裸のままでコーヒーを作ることができる。といってもやっぱり寒くはなるので、お湯を沸かしているあいだにパジャマを着た。このパジャマは三ヶ月くらい前に一度だけ泊まりに来た浜田さんが着ている。その印象が強くて自分のものなのにまだ違和感がある。パジャマにどれだけ厳密なサイズの差があるのかは知らないけれど、僕が着ると裾が短くて、浜田さんのほうがピッタリだったので、余計に浜田さんの物のような気がして、多分、この違和感はずっと消えないと思う。浜田さんが泊まりに来たのは偶然で(今では電話やメールをするほど仲が良いけれど)、まだ知り合って間もなく、僕がいつも着ているパジャマでは申し訳ないと思って親からの仕送りの中にあった新しいパジャマを貸した。その後で「ちょっと薄くて寒かった」と言われたけれど、まだ着ていない僕が知ることではなかった。
僕はコーヒーが好きだけれど、味に凝るほうではなくて、キリマンジャロだとかモカだとか名前は知っていても、どんな味なのかは知らないし、家ではいつもインスタントのコーヒーで、外で缶コーヒーを飲むときは「ルーツ」と「ジョージア」(「ルーツ」は味が薄く感じるし、「ジョージア」は甘過ぎる)以外なら何でも良い。あえていうなら「ネスカフェ」が良い。(パジャマと一緒に)親から送られて来たインスタントコーヒーも「ネスカフェ」で嬉しかったのだけれど、どうして「ネスカフェ」が良いのかという理由は特になく、でも、友達に訊かれると「他のより豆の味がする」などと言っている。
ブラックでは飲めないので、カップにコーヒーの粉とクリープと砂糖を入れて、さっきから沸き続けているお湯を注いだ。
硝子障子を開けて部屋に入る。以前浜田さんに、家の(内部の)説明をしているとき「硝子障子」と言ったら「硝子障子」と復唱されて笑われた。この硝子障子の硝子は日本中にあるようなもので、全面粗い磨り硝子で、星の煌きのような柄が不規則に描かれている。「星の煌き」というのは、二次関数のX軸とY軸があって、第一象限から第四象限のすべてに、X軸とY軸の交点を始点とした距離の一律ではない線分が描かれている、ようなものだ。またここで「ような」と言ってしまったけれど、実際の硝子に描かれた柄にはX軸とY軸は描かれていなくて、軸の部分だけが切り取られた柄になっていて、だから描かれているのは沢山の線分だけで、そして「不規則に」と言ったけれど、不規則に並んでいないことは見ていればすぐに気が付くことで、二〇センチも水平に硝子を見て行けば二〇センチ前にあった「星の煌き」と同じ大きさの「星の煌き」がある。話はもう少し戻るけれど「日本中にあるような」と言ったのにも根拠があり、三〇〇キロ以上離れている実家にも同じ柄の硝子があって、実家では食器棚に使われていた。
「硝子戸」ではなく「硝子障子」と言ったのは、それが実際に障子だからで、前面に格子状の木枠がある。ここにある硝子障子の木枠の縦横比は一対一だ。
目の前のコーヒーは猫舌の僕でも飲めるほどに冷めていて、パソコンではカーソルの矢印から砂時計の絵が消えてメールチェックの準備ができている。煙草に火を点けてコーヒーを一口飲んだ。
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