抽象画家
伊藤
第1話
風呂に入って、まず何をするかというのは考える前に決まっている。二〇年以上(ほぼ毎日)同じことをしていれば、ひとり暮しを始めたからといって大きく変わるわけではないし、そのひとり暮しも、もう四年も五年も続けているのだから、「まずこれをしよう」と思い及ばない。風呂にはシャワーがないので、何を洗うにしても先に(プラスチックの淡い青色で、実家のものより底が浅い)桶にお湯を溜めておき、顔を洗ったあと桶のお湯で手を洗い、桶を掴んで(白く濁った)お湯を捨て、また湯船からお湯をすくって顔の泡を流す。
鏡もないので髭を剃るときは(僕は風呂に入ると最初に髭を剃る)、指の腹を使って剃り残しがないか確かめなければいけなくて、小さい頃は風呂場の鏡など恐怖を呼び起こすものでしかなかったけれど、今なら風呂場に鏡が必要な理由がよくわかる。いま「恐怖」と言ったけれど、時期によって恐いモノは変わり、『カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(だったと思うけれど)で放送された「スイカ男」だったり、映画の『エイリアン』だったり、テレビで見た(その時々の)気味の悪いモノが、鏡の中から出て来るのではと恐かった。髪を洗うために目を瞑ると、ちゃんとそれらを思い出して、声を出して気を紛らわせていた。急いで洗い終わり目を開ければ大丈夫かというとそうでもなくて、実家の湯船は少し深く、湯船に浸かっていると湯船の縁で洗い場の床が見えなくなり、そこからにょっきと「何か」が顔を出すのではないかと恐かった。だから、僕にとって風呂は心の休まる場所ではなかった。
髭を剃り終えると、次に髪を洗い、それを洗い流すと、次はリンス。中学時代に好きだった子が「リンスは髪に付けたあと、ちょっとのあいだそのままにしとくのが良いんだって、だから、私は一度お風呂に浸かって、出るときに洗い流すの」と言っていて、それを聞いた日に真似したけれど、リンスが残ったまま湯船に浸かっているとまったく落ち着けなくて、次の日からは、リンスをしたあとに続けて身体を洗い、ボディーシャンプーと一緒にリンスを洗い流している。少なくとも身体を洗っているあいだリンスは髪に残ったままなので、髪には優しくしているつもりだ。
話は戻るけれど「スイカ男」はとても心に残っていて、テンカスが苦手だったということも覚えているし、志村けんがスイカを食べ過ぎて「スイカ男」になるのだけれど、そこにも風呂に入るシーンがあって、志村けんが湯船に浸かっていると、湯船の中からぷっくとスイカが浮き上がってくる。それがまた風呂を恐くさせた。「スイカ男」は僕らの世代のほとんどの人が知っていて、高校時代に友人四人が集まってその話が出たとき、僕を含めた三人がはっきりと記憶していて、全員が「恐かった」と言った。
昔はスプラッター映画がたくさん放映されていて、その月の十三日が金曜日だと、必ず『13日の金曜日』が放映され、小さい頃は恐くて全編観ることができなかった。ホラー映画の冒頭には「殺され役」の女の人がいて、風呂場や寝室で背後から襲われる。画面のちょっとした隙間に突然ジェイソンが現れて、僕はよく母親の背中に隠れていた。
いまでも恐いのかと言われると、こんなことを考えながらでも風呂にゆっくりと入っていられる。どうしてかはわからないけれど、もしかするとお化けか何かが出て来たら「そのときはそのとき」と諦めているのかもしれなくて、恐がっていても風呂には入らなければいけない。それでも、このあいだ映画の『リング』を観たときに「押入れの中に娘の死体が入っている」というシーンがあり、それから押入れを開けるのが恐くなったから、恐怖自体を克服したわけではない。アメリカ版の『ザ・リング』を観たときには押入れがクローゼットに変わっていて、家にクローゼットがなくて良かったと思った。
ボディーシャンプーと一緒にリンスを洗い落として、やっと湯船に入る。なるべくなら肩まで浸かりたくて、肩まで浸かって、やっと風呂に入っているという気分になれる。僕は湯船にタオルを入れる。タオルがないと手持ちぶさたに感じ、タオルを使ってお湯を掻き混ぜたり、空気を含ませてぶくぶくと遊んだりして、タオルがなければ風呂に入っていることにすぐに飽きてしまい、身体が温まる前に出てしまうと思う。音楽でも流すことができればタオルがなくても長く入っていられそうだけれど、防水ラジオを買おうと思うほど風呂に執着はない。
風呂場はとても静かだ。築三〇年以上の木造アパートなので強い風が吹くと壁のどこかが音を立てたりするし、今日は台所の換気扇を点けっぱなしにしているのでその音が聞こえるけれど、耳を済ませば遠くの環状七号線を走る車の音が聞こえてきたりする。そして、(今は聞こえて来ないけれど)救急車のサイレンがよく聞こえてくる。「よく」と言ったのには二つの意味があって、回数と音の大きさのことで、もしかすると、毎日聞こえてくるわけではないのに、印象に残るからいつも聞こえてくる気がしているのかもしれない。
時々「傘を持って来た日に限って雨が降らないのよね」などと言ったりするけれど、それは「傘を持って来た日に雨が降らない」印象が、「傘を持って来た日に雨が降る」ことよりも強いため、まるで「毎回傘を持って来ても雨が降らない」ような言い方をしてしまう。同じように、僕が風呂に入っているときにいつもサイレンを聞いているような気がするのは、サイレンが鳴ることのほうが印象に残るためで、実際は一ヶ月に一回くらいしか聞いていないのではないかとも思う。
さっき「二つの意味がある」と言ったけれど、「二つの意味がある」と言うといつも思い出すのは『レッド・ツェッペリン』の「天国への階段」で、その中に「words have two meanings」という歌詞があり、ここが風呂場ということもあって、いま僕は声を出して「天国への階段」を歌っているけれど、歌詞をすべて覚えているわけではなくて、所々「ラララ」とか「ンンン」とか、メロディだけを追い、「it makes me wonder」と歌っていると救急車のサイレンが聞こえてきた。
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