水団扇 -みずうちわ-

 蔵にほうきを取りに行ったら、団扇うちわを見つけた。


「うわ、年代物?」


 つや光りする、竹の骨。

 年月をて黄ばんだ和紙には、どうやら魚が描いてあるらしい。

 それでもこれは、まだ保存状態はいい方なのかも知れない。

 この家――蔵があるからと言って、立派なわけでも金があるわけでもないのだが――の蔵には、果たして使えるのかどうか、怪しいような代物が山ほど転がっている。

 一度、虫干しくらいした方がいいとは思うのだが、それにかかる手間と、どうせ出てくるだろうゴミの山を思うと、手を出さずにすまないものかと、つい思ってしまう。

 言うなれば、この蔵は、そんな先人たちの思いが集約した場所だ。そしてついでに、不要物を押し込んでしまえという思惑も絡み、一層混沌こんとんとしていく。


「あーっつー」


 つぶやいて、何気なくあおぐ。思っていたよりも風が来て、これはいいやと、箒と一緒に外に出す。

 現在この蔵は、ただの立派な物置だ。


「きゃーっ」


 蔵を出た途端に聞こえた悲鳴に、一瞬だけびくりと身をすくませて、溜息をつく。どうせ、母に違いない。あの人は、やたらと叫ぶ。

 声が少し遠いから、おそらくは家の中だろう。

 頼まれたはき掃除は後にして、箒と団扇を持ったまま、勝手口に向かった。


「母さん? 今度は」

「きいっちゃん、助けて大変よ!」

「…何したの」


 実年齢よりも、下手をしたら二十近くも若く見える母は、勝手口でしがみついてきたまま首を振った。


「何もしてないわよ、本当よ!」

「あー…わかった。じゃあ、何が起こったの? それととりあえず、中入れて」

「信じてないわね?」

「さすがは母さん、伊達だてに二十年近くも俺の母親してないね」

「そりゃあそうよ。きいっちゃんの考える事なんてお見通しなんだからね」


 泣きそうだった顔からふくれっ面になって、得意気になって。二十年近くもこの人の子供をしていれば慣れるとはいえ、果たしてこれでいいのかと、少し思う。

 どこをどうとっても、この人はこれがなのだから余計に恐ろしい。


「…水だね」

「いきなり噴き出したの。ねえ、壊れちゃった?」


 のいてくれない母をそっと押して家の中を覗き込むと、勝手口のすぐ近くの流し台の、蛇口から水が噴き出していた。

 思わず、声が漏れる。

 噴水ほどではないにしても、きらきらと飛ぶ水は、床をたっぷりと濡らしていた。


「ねえ、どうしよう。床上浸水とかしちゃわない?」

「……」


 この人は、これで昔は教師だったというのだから。


「とりあえず、雑巾ぞうきん持ってきていて。何がどうなったのか知らないけど、パッキンが壊れただけみたい。交換すれば大丈夫」


 蛇口をいじってそう告げる。

 素直に母は、雑巾を取りに行った。その間に、吹き上がる水を、どうにか流し内に落ちるように手を加える。

 しかし、今まで何の不具合もなかったパッキンがいきなり壊れるとは。一体何をしたんだあの人はと、密かに溜息をつく。


「母さん、パッキン買ってくる」


 果たしてあれの正式名称はパッキンで良かったかな、売ってるのかなと思いつつ、財布を持って家を出る。

 家を出て、直射日光の熱さに、せめて帽子くらいかぶれば良かったと軽く後悔する。そこでふと、ズボンに差し込んでいたらしい、ぼろ団扇に気付く。


「あれ」


 いつの間に。

 無意識の行動だろうと適当に納得して、一あおぎ。


「うわーっ!?」

「?」


 公園の方から大きな声がして、高々と噴き上がった水が見えた。

 公園には確か、蛇口の向きを変えられる水道があったが、あんなに高くまで噴き上がっただろうか。おそらくは、三階建て校舎に届くかと思うほどの勢いだ。


「…まさかなあ」


 家で噴き出した水と、公園の噴き出した水と。その共通点を、あおいだ団扇に見出して、六割方冗談で考える。

 この団扇をあおげば、水が噴き出すのか?


「まさか」


 とりあえず団扇はズボンに差し込んで、道を歩く。


「おおい、おぬし。お主じゃよ、お主」

「――俺ですか?」

「そうじゃ。お主、良い物を持っておるな」


 そう言って、老爺ろうやはにこにこと近付いてくる。

 変なじじいだ、と思うが、祖父を思うとそう無下むげにも扱えない。

 さてどうするか、と思ううちに、老爺は近付いたかと思うと、ひょいと団扇を取り上げた。


「これじゃ、これ。まさか、水団扇ミズウチワにお目にかかれるとは思わなんだなあ」

「水団扇?」

「知らんと使っておったのか? なんとまあ」


 老爺は、驚いたように、目を見開いた。呆れているのかも知れない。


「お主、芭蕉扇ばしょうせんは知っておるか? 西遊記という、小説にも書かれているが」

「ああ…火を起こす扇?」


 読んだ覚えもないのに、いつの間にか記憶に定着している知識を呼び出し、そう言うと老爺は、目を細めて頷いた。


「て、え?」

「そう、これは、簡単に言えばその水版じゃな。もっともこれは、この国で作られたものだから、芭蕉扇と完全についを成すわけではないがの」

「はあ…」


 どう応えればいいのか、迷っている間に、老爺はゆたりと微笑んだ。

 表現豊かな顔で、思えば、先程声をかけられてから、一度として同じ表情を見ていないような気がする。


「良い物を手に入れたな。大切にするのじゃぞ」

「…はぁ?」


 団扇を渡されて、それに気を取られている一瞬の間に、老爺は姿を消していた。


「…日本昔話か?」


 首をひねって、呟く。

 とりあえずは団扇を元通りにズボンに差し込んで、パッキンを買おうと先を急いだ。

 じりじりと太陽の熱にかれた髪は、触ると熱かった。 

   

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