泡沫譚 -うたかたたん-

来条 恵夢

取酒口 -しゅしゅこう-

 近所と言うほどには近くない気もするけれど、時折足を伸ばす公園がある。

 公園と云っても遊具はなく、広場と云う方が正しいのかもしれない。そしてそこは、駅から近く通り道にもなる。

 そこでは月に数度、フリーマーケットが開かれる。

 フリーマーケット。

 主には、家庭の不用品などを多少なりと売りさばく、それ。いろいろとあって、眺めるだけでも楽しい。

 まだ十分に着られる服や、使える家財道具、何故か着物の山、小さなおもちゃの数々。中には、どう見ても壊れていて、金をもらったところで要らないと思うものもあるのだが、時折売れていたりもするから面白い。

 私がそれを見たのも、そんなガラクタ品の中でのことだった。


 それ――鈍色にびいろの、蛇口じゃぐち


 そもそも、一体どこからどこまでを蛇口と云うのか。

 水の出てくる口の部分飲みかパイプのような部分も含めるのかコックとでも呼ぶだろうあの部分はどうなるのか。よくわからない。

 調べようはあるのだろうが、今のところ、必要に駆られたことはない。

 とにかくそれを、何か判らずに眺めていると、蛇口だよ、と、眠たげな青年が、眠たげに教えてくれた。


 多分、中までは錆びてないよ。


 そうですか。


 買うつもりもないのだが、一度声を交わしてしまうと、そそくさと身を退くのも気が引けた。何か、比較的使えそうなものを見繕みつくろって買おうかと、ありふれた小さなブルーシートを見渡した。

 ろくなものがない。

 端の欠けた扇子を眺め、片目の入った達磨だるまとにらめっこをしていると、ついと、隣から手が伸びた。しわだらけの、しぼんだような手だった。

 迷わず蛇口を取った手に、思わず、あ、と声が漏れた。


 うん? 兄ちゃん、ほしいのか。


 しなびながらも、今までの生に対する自負や責任の感じられる老人は、ぎろりと大きな目で、少しばかり愉快そうに私を覗き込んだ。

 いいえと、慌てて応える。見ていただけで、欲しいと思ったわけではない。

 そうか、と応えた老人は、ためつすがめつ鈍色の物体を検分すると、兄ちゃん、と青年に声をかけた。眠そうに、青年は視線だけを寄越した。


 いくらだい。百円――ああ、二百円。そうかい。


 私の目の前で、二枚の銀色硬貨がやり取りされた。

 本当に、元からその値を設定していたのだろうかと、怪しく思ったが黙っておくことにした。双方が納得しているのならば問題はないはずで、売り手でも買い手でもない私が、口を挟む問題ではない。

 ありがとうよ、と言って老人は、ひょいと歩き出した。

 私は、少し迷ったものの、老人を追った。少しばかり足を引き摺っていることもあり、歩みは遅く、容易に追いつくことができた。


 すみません、あの――それ、どうするんですか?


 ろくに考えもせずに口走った言葉があまりに間抜けで、私は、逃げ出したい気分になった。

 実際、老人が、面白い奴だ、とでも云うように笑わなければ、家へと帰り、二、三日は外出さえも避け、一人悶々としたことだろう。


 兄ちゃん、いくつだ。

 今年で、三十――八だったか九だったか――もしかすると、四十になるかもしれません。


 我ながら、頼りのない返答をすると、老人は、きょとんとしてから大声で笑い飛ばした。

 呑気だなあ、とにかく面倒はないな、と言って歩き出す。

 一歩行って振り返り、すぐそこだ、付き合ったら答えが判るぞ、と言って、あとは後ろも見ずに歩を運ぶ。

 私は、やはり逡巡したものの、老人を追って歩き始めた。

 ひょこひょこと歩く老人は、フリーマーケットの人混みを抜け、駅に向かう道を右に折れた細い路地を、迷うことなく進んで行く。この辺りは神社の裏手で、小さな住宅が集まっているはずだった。


 兄ちゃん、仕事は何やってんだ。


 あ――ええと。


 働いてないのか?


 似たようなものです。色々と書いていて――文筆業だ、なんて言っていた時期もありますけど、先年、口煩かった親父が、呆気なく死んでしまって。もの書くにしたって、仕事は選べと言われていたのが頭から離れなくて。なんとなく、休業中です。


 親父さん、いくつだった。


 昨年で、六十八でした。


 若いなあ。


 七十代か、八十代か。おそらくは、父よりも年老いている老人は、そうぽつりと呟いて、草木の生い茂った庭に踏み入った。周りの家々よりも一層小さな、家だった。

 上がると、ふうと白檀びゃくだんのような匂いがした。適当に座ってな、と言い置いて、老人は流しに立ったようだった。


 兄ちゃん、小説は書かないのか。


 一時は。


 今はどうなんだ。


 どうにも。友人に読んでもらったら、酷評されて。それが堪えました。以来、書いても見せる気にはなれなくて。


 書いてはいるんだな。いいぞ、あれは。俺は学なんてないが、あれは好きだ。仕事も何も、老いぼれるとやることもなくて、色々読んだ。命をかけたあの戦争さえ、どうなってたのかは小説で知った。


 作り物ですよ、まるきり信じるのは危ない。

 そう言い掛けて留まったのは、そう思われる小説と書き手が幸せだと思ったのか、老人の満足を壊したくなかったのか、それとも、そんなことは承知で語っていると思ったからか、判然とはしなかった。

 ただ、口をつぐんだ。


 老人は、二つの湯飲みを持って戻ってきた。


 さあ、飲んでくれ。


 湯呑みからは、酒の匂いがした。

 驚いて見つめると、まあいいからと、先立って口をつける。うまそうに飲む様子に、心が動いた。元々、嫌いではない。

 飲むと、きりと甘い味がした。何の酒かは判らないが、とてつもなく美味だった。


 美味しいですね。


 そうだろう。


 どこの何と云う酒ですか。


 そう尋ねると、老人はにやりと笑い、台所に来るよう促して立ち上がった。流しの前へと導かれる。

 そこには、あの蛇口が取り付けられていた。近くに、元についていたと思われる、短いよくある蛇口が転がっていた。


 これが――何なんですか?


 いいか、出すぞ。


 老人が蛇口をひねると、あの酒の香りがした。

 ぎょっとして、流れる液体――水のはずのそれと老人を見比べると、にやにやと笑って、飲んでみな、と言う。恐る恐る手を伸ばし、液体を手で掬って口に含む。

 先刻の酒の味がした


 こいつはな、水を酒に変える。捻った奴の気分次第で、甘くも辛くも、薄くも濃くもなる。元はうちの蔵にあったんだ。こう見えても、昔は大金持ちの家でな。そうは言っても、俺が六つの頃に潰れたがな。珍宝だと言われていたが、二百円とは凄い。


 苦笑いを浮かべ、そうして、老人は私を見遣った。


 なあ兄ちゃん、これも何かの縁だ。貰ってやってくれないか。


 え? 


 こんな老いぼれ、すぐにくたばる。いや、いいんだ、本当のことだ。生き過ぎたくらいだよ。俺がいなくなったら、こんな蛇口、家ごと潰されて終わりよ。


 ご家族に伝えておけば――


 狂ったと、笑うのがおちだろうさ。俺は、あいつらには好かれてないからな。


 自らをさげすむような笑いは、つらく寂しそうだった。

 それでも話せばと、思ったが言葉には出来なかった。私は、老人とその子らの関係を一欠ひとかけらも知りはしない。気休め程度の憶測など、私には口に出来ない。

 私は、蛇口から流れ落ちる酒をすくい取った。とろりと甘い酒が、口中に広がる。


 どうせなら、遺言状にでも書いておいてください。独り占めするには勿体もったい無いですよ。


 兄ちゃんが友達と飲めばいいだろう。


 生憎、家で酒を飲み交わす友人なんていません。それよりも、私がこちらに、度々たびたび飲ませてもらいに来てはいけませんか。


 老人は、はじめ唖然とし、次第にゆっくりと、笑みに口元をほころばせた。深いしわが、刻まれる。


 仕方がねえな、そういうことにしといてやる。その代わり、俺が死んだらきっちり貰ってやってくれよ。


 もちろんと、肯きを返す。


 そうして始まった老人との交流は、しかし、長くは続かなかった。

 ある日、そろそろ老人を訪ねようかと思った矢先に、長細い包みが届けられた。

 老人の孫だと云う少年は、それじゃあと、無愛想なほどにさっさと行ってしまい、私は、葬儀がいつなのか――いつだったのかさえ、訊きそびれてしまった。

 それほどに、呆然としていた。


 そうしてのろのろと、蛇口を取り替えた。老人のようにうまくはいかず、服や髪を濡らしてしまったが、まだどうにも、夢の中のようだった。

 蛇口を捻ると、酒がうるさいほどにほとばしり、私は、それを掬い上げた。

 いやに、苦い酒だった。

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