第7話 白鷺華麗、と久遠廻音さん


 薄暗い刑務所の中を歩く。

 人口の明かりが不自然に廊下を照らした。

 両脇の刑務官に連れられて、歩く。

 すべてを打ち明けて、嘘をなくしたあとに、わたしにはなにも残らない。

 からっぽの体が、傾くのを感じた。

 ……どうでもいい。もう、わたしは、すべて終わったから。

 瞼を下ろす。

 それは幕のように。

 意識を手放す。

 わたしは目を閉じた。


   2


 カッターナイフを手に持つ。

 それから刃を押し出す。

 カチカチカチ、と軋んだ音がして、さび付いた刃がその身をあらわにする。

 傷だらけの手首に押し当てた。

 手の震えから、かたかたとカッターの刃はその形を定めていない。

 刃が細い手首に当たる。

 力を入れて、それを強く押し当てた。

 じわじわと、軋む音を立てて、刃はボロボロの皮膚を削っていく。

 皮膚がめくれると、小さな球粒みたいな赤色が滲みだしてくる。

 一瞬、躊躇する。それでも、めげないで、より強く力を入れていく。

 ジンジンと、痛む。痛くて熱い。脳髄までしびれてしまいそうな痛みがわたしを支配していくように、鋭く神経が叫んでいる。

 いたい、そう叫んでいるのは誰?

 涙が滲んできて、歯ぎしりをして、それから……。

 パキン、とあっけなく、さび付いたカッターは折れた。

 折れた刃の破片が、間抜けに床に転がるのを目の端で確認する。

「……………、はは」

 渇いた嗤いが漏れた。わたしは誰を嗤ったのだろう。何を嗤ったのだろう。

 わかっている、ほかでもない、何度も失敗している、わたし自身をだ。

 わたし――12年前の、当時10歳だったわたしは、こうして何度目かの自殺に失敗したのだ。

 小さな物置小屋にも満たないような大きさで、ごみにあふれる部屋だった。


   3


 父である、白鷺浩平は、わたしがまだ、もっと幼くて物心つくまでは、それなりの会社の代表取締役だった。

 要は社長だったのだという。

 けれど、その会社は倒産した。

 どうしてかは知らないし、わたしにとってはどうでもいいことだった。

 どうせ、父が家に帰ってくることなんて、ほとんどないのだから。

 

 血が流れた手首を抑えて、洗面台に向かう。

 10歳にしてずたずたになった手首を冷水にさらす。

 冷たい水が流れて、傷に痛む。洗面台に薄い赤色、私の血だ。

 血が流れ切ったのか、赤色はだんだんと薄くなって、わたしは蛇口をしめた。

 無感情に、切り傷のたくさんついた手首を眺める。

 目の前には、鏡。

 醜い顔が写っている。どんどんと、あの女に似てくる自分の顔が、わたしは嫌いだ。

 すべてが嫌いだった。

 この狭い世界のすべてが。

 ゴミにあふれる、この古びた家が嫌いだ。

 過去の栄光にいつまでも縋り付いて仕事もろくにしないで、家にも帰らない父親が嫌いだ。

 わたしを嗤うクラスメイトや学校の教師どもが嫌いだ。

 この間なんて、机の中身を全部捨てられてた。主犯は担任だというのだから救いがない。

 嫌いなものはまだある。

 学校が嫌いで、無理強いされる勉強が嫌いだ。

 そして――。


 いきなり頭を掴まれて、ガラスに叩きつけられた。

「あんた、何ぼさっとしてんのよ! そんなことしてる暇があるなら勉強しなさいよ! あんたのために一体どれだけの学費を払っていると思ってんのよ! この無能の無駄飯ぐらいめ! 早くあたしを楽させなさいよ!」

 がん、がん、がん。

 何度もガラスに額が叩きつけられる。

 なんども。なんども。なんども。

 給食費すらまともに払っていないくせに。

 頭の中でそういいながら、わたしは抵抗しないで体罰を受け入れていた。

 下手な抵抗なんかしないで、言いなりで、やられっぱなしでいれば、少なくとも、この暴力が長続きすることもない。

 すぐに叩きつけは終了する。

 女はふんと、苛立たし気に鼻を鳴らして、そのまま立ち去った。

 わたしは、血が噴き出した額を冷水で洗い流そうと蛇口をひねった。

 すぐに横から蹴っ飛ばされる。大人の力で蹴られれば、子供なんて簡単に吹っ飛ぶ。

 壁に叩きつけられて、痙攣しそうになる体を力ずくで抑え込む。

「水道代がもったいないでしょうが」

 捨て台詞を吐いて、女は今度こそ、立ち去った。またぞろパチスロにでも行くのだろう。

 あの女。

 わたしは母親と呼ばれるあの万葉が世界で何よりも嫌いだった。


 父親は社長だった。

 母親はそれに玉の輿で乗っかった。

 あのクズがどうやって父をたぶらかしたかなんて、考えるだけ馬鹿らしい。

 馬鹿とバカがバカやってわたしが出来たんだろう。

 父の所有物であろうアダルトビデオやエロ本の類が家中のどこかしらにはいつだって転がっているから、その手の知識には事欠かない。

 父親の会社が倒産したのは、馬鹿とバカがバカやった結果、わたしが出来てしまった後だった。

 女はそれはそれは激高したらしい。酒に酔った男がわたしに絡みつきながら、ぐちぐちと言っているのを飽きるほど聞いていた。

 男がわたしの胸に触れるたびに、気色悪い顔をするのを吐き気をこらえて聞いていた。

 女はあることを思いついたらしい。

 それは本当にろくでもないことで、もはや粗大ごみのようになった男の代わりに自分の娘を社長にしようというのだ。

 バカではないだろうか。

 どうやったら、そんな何も考えていないような発想が出てくるのか。

 女はとにかくわたしに勉強させようとした。

 勉強すれば社長になれるらしい。

 バカじゃないだろうか。

 女は一丁前に教育ママを気取っている。お昼のワイドショーに出てくる教育ママたちにいつもあーだこーだ。教育とは云々、言ってる。

 相手は画面の向こう側にいることが理解できないらしい。

 教育ママっていう奴は、普通、学習塾やら通信教育やらを多用するらしいが、あの女はそんな金をわたしにかけない。

 勉強しろとだけ言われる。

 そしていつも、勉強していない! と怒鳴り散らしてわたしをぶつ。

 勉強なんかまともにしたことがないから、やらせ方もわからないのだ。

 ノートの一冊もないのに何を勉強しろというのだ。

 小学校に入ったのだって、春を過ぎた後だった。

 役所から、学校に通わせるように通知が来て、なんだかわからない職員が来た。

 女は玄関先で、ぎゃんぎゃんと駄々をこねた。

 そんな金は出したくない! お前らの言いなりにはならない! この娘はあたしの産んだもんなんだから、あたしの自由にする! 

 そのさまは、デパートでおもちゃをねだり駄々をこねる幼稚園児のようだった。実物は見たことないけど。デパートなんて行ったことないし。

 それから、なんだか大きな騒ぎになって、わたしは夏休み明けに転校生という体で小学校に通い始めた。

 小学校に入って、初めてひらがなが使えるようになった。

 勉強の仕方なんてものを上から目線のクラスメイトが教えてくれたのは最初の数週間だけ。

 だれかが、わたしをくさいといった。

 それは、ごく自然なことのようにクラス中に広がった。

 いじめというらしい。

 読み書きができるようになって、その存在を知った。

 小学生のいじめなんてのは、いうて陰湿じゃない。単純だからだ。

 単純に殴られたり、蹴られたり、ゴミ捨て場なんかから拾ってきた比較的新しめの筆記用具なんかを窓から捨てられたり、ぼーかあーほどじまぬけとか面と向かって言われるくらい。

 担任の中年教師は、最初こそやんわり止めてたが、だんだんとその愉快な遊びに参加するようになっていった。

 教科書を支給されるとき、家が教科書代を払わなったため、面倒な騒動になったことを根に持っているのだろう。

 わたしをいじり倒すときの中年は、それはそれは楽しそうだった。

 その遊びに参加できないことが悔やまれるくらいには楽しそうで、目に見えて毎日生き生きしていた。

「うれしいよね、友達たくさんで」

 とかいう。友達とはどうやらリンチしてくる相手らしい。

 別にどうっていうことはない。

 小学生の暴力は、あの女のそれに比べれば大したことではない。

 担任教師の言葉のあれこれも、直接的な、あの女の罵倒よりずっと大したことはない。

 大したことはない。

 必然、わたしはいつだってひとりで図書室に行く。

 昼休みや放課後は人が多いから、授業中に来るようになった。

 授業中の図書室は静かだった。本棚と本棚の感覚が狭くて、心地よかった。

 問題があるとすれば、しばらくするとクラスメイト達と担任が大挙として押し寄せて、わたしを教室に引っ張っていくことぐらいだ。

 そんなことを繰り返しているから、勉強なんてできるわけない。

 困ったことに学校にはテストというものがあって、そのたびにわたしは実に、あの女的に不愉快な点数を取った。

 まあ、あの女には百点とそれ以外、くらいの区別しかつかないだろうから、基本不愉快だ。

 単発のテストなんかは部屋のごみの中に忍ばせておけば気づかないし、通信簿なんて存在をあの女は知らないのでほったらかしでも行けると思ったりもしたのだが、残念ながら、うちの担任はわたしの成績を定期的にあの女に報告するので、殴る蹴るはそのたびに行われることになる。

 困った。

 教科書をいくら読み込んでも、百点というものがわたしには取れなかったのである。

 担任がわたしの点数を改ざんしていた事実を知るのは、残念ながら卒業後のことである。



 中学に進学するときあの女は渋ったが、ここでは割愛する。

 中学でも、わたしと周囲の距離や雰囲気は別に変らない。大体のメンツは小学校と変わってないし。

 ただ、目に見える形での暴力は減った。シャワーを浴びるということを覚えたおかげで、くさいとか言われることはなくなったし。

 代わりに陰口が増えた。

 別に大したことじゃない。直接的な被害はないから。

 ハブられる、という言葉を覚えてしまった。

 けど別に大したことではない。直接的な被害はない。

 大したことじゃ、ない。

 ここで困っちゃうのは、直接的なことで例えば、トイレにいるとき、頭からバケツの水をぶっかけられたりするといったこと。

 制服なんて当然買ってもらえないから、ジャージで過ごしていたけど、そのジャージがお釈迦になると、服がなかった。

 びしょ濡れになりながら、トイレを出ると、すごく冷えた。

 中学の勉強は、お察しだった。

 別にどうでもいいことだけど。

 あの女のもたらす痛みは、もうわたしにとって慣れたものになっていた。

 


 中学も終わりのころだっただろうか。

 父親とされる男がわたしの体を撫でだしたのは。

 胸も、腹も、尻も、女性器も、酒に酔うとあの男は素手で直接触ってくるようになった。

 吐きそうになる。実際、なんどか吐いた。

 わたしが吐くとあの男は酔いを醒ますので意図的に吐くようにもなった。


 それでも、一度だけ、あの男は酔いを醒まさなかったことがある。

 中学を卒業したとき、わたしは高校に進学することはなかった。

 理由は……語る必要はないだろう。

 中学を卒業し、ただのフリーターになったわたしはバイトを始めた。

 いいとこはどこも雇ってくれなくて、ガールズバーで働くことになった。

 給料が高かった。お触りにも慣れてたし、わたしは割とよく働く店員だった。

 仕事に慣れ始めたころだった。

 深夜に家に帰ると、同時に男が帰ってきた。

 男は驚くほどに酔っていた。

「どうして、どうして、あの女……!」 

 過去の女をののしる声だった。

 不意に男と目が合った。糸が切れたみたいに男は……わたしの父親は、わたしに崩れかかってきた。

 そして、わたしの服を破りだした。

 抵抗するも男の力には敵わない。

 わたしは吐いた。そうすればいつものように男の酔いがさめると思った。

 だが、さめなかった。わたしと男はもみ合いになって、わたしは自分の吐しゃ物の上に叩きつけられた。残った服に胃液がしみ込む厭な感じがあった。

 下着まではぎ取られて、男はズボンを脱いだ。

 すごく痛かった。血が、手首を切ったときなんかと比にならないくらい流れた。

 体が左右真っ二つに裂かれるような痛みだった

 痛みにの中で、涙は出なかった。

 痛みに慣れている過程で、わたしは昇る朝日を見た。

 日の光が、血と吐しゃ物と精液と汗がないまぜになったものを全身に纏ったわたしを照らした。

 太陽の光は、痛くて、熱くて、わたしが焼けてしまいそうだった。


 男はいつの間にか眠りこけていて、そして目を覚ますと、おもむろに自分語りを始めた。

 昔、会社の金を愛人と一緒に横領していたらしい。うまいことやって証拠は残らない。まさか社長が自分の会社の金を横領するなんて誰も思わなかったのか、ばれないで済んだらしい。

 だが、それがよくなかった。金を横領しすぎて会社が倒産した。

 この男は自分の会社の金を横領し、自分で潰したらしい。

 バカじゃねえの。

 しかも、その愛人というのが割といいとこの男と結婚し、すでにわたしと同じくらいの年の子供がいるという。

 そして、そいつにはもう一人子供がいるとか。

 悔しい、馬鹿にされた、慰めて。と男は言った。

 わたしは、なんだか、この世のすべてがさらに馬鹿らしくなって、てきとうな言葉を見繕って口から垂れ流していた。

 もう、何もかもが本当にどうでもいい。


   4


 わたしの人生は、まあ不幸なものだと思う。

 あんまりにも碌でもなさ過ぎて、よく死にたくなる。

 でも、死ぬ度胸がないから、いつだって死ねないままでここまで来た。

 死んでないだけの、ごみのような人生だったと思う。

 でも、それでも、この日まで生きてきてよかったって、思えるのだから。



 その日、わたしは17歳の誕生日を迎えていた。

 迎えたと思う。

 冬の日だった。

 雪が降って、世界を白く塗りつぶそうとしているようだった。

 生まれてこの方、誕生日なんてものに縁がなかったから、あんまり実感がなかった。

 泣きながら生まれてくる日を祝う気持ちなんて、これっぽっちも湧かない。

 その日も、いつものようにあの女に殴られた。

 鏡の前の、あの女に似た醜い顔の頬が赤くはれている。

 すぐに治る。放っておけば。日常茶飯事だ。

 その日が、いつもと違ったのは男が一人の女の子供を連れてきたことだった。

 その子供は、ふかふかの服を着ていた。

 首元にはマフラーを巻いて、高そうなコートにも似た防寒着を着ている。

 泣いてきたのか、目元が赤くはれて、男とつないだ手はしもやけで赤くにじんでいる。

 黒髪がつややかで、大人しく伏せた綺麗な目元が印象に残っている。

「この子、10歳なんだ」

 男が言った。

「ぼくの子供なんだ。君の妹なんだよ、華麗」

 ため息が出た。溜息は白く霧散した。

 子供の整った顔立ちがわたしのほうを向いていて、顔をそらした。


 男と女が家の中で暴れている。

 というより、一方的にぶちのめされているといったほうが正確か。

 あの子供は、頭を抱えて、部屋の隅で怯えている。

 かわいそうに、うちの子なんかになっちゃうから。

 同情はしなかった。不幸なガキがいる。それだけ。

 二人が殴り殴られの末に、寝静まったころ。

 子供がわたしの傍に寄ってきた。

 めちゃくちゃ眠そうだった。深夜に慣れていないようだった。

「なに?」

 わたしは冷たく言い放つ。尋ねるというよりも、威嚇するというのがふさわしい言い方で。

 だけど子供はそんなの全然、わかってない。というか、半分寝てるなこいつ。

「……」

「なに?」

 もう一度言うと、ぴくんと子供は跳ねる。

 それからわたわたと姿勢を正した。

「そ、その、ご挨拶を……」

「……は?」

 素っ頓狂な声が出た。

 挨拶? なんで? そのために待ってたの?

「涼子です。灰崎……じゃない、白鷺涼子です。よろしくお願いします」

 寝ぼけ眼で、子供は頭を下げた。

「あっそ」

 ぶっきらぼうに答えた。

 正直なことを言うと、どう反応していいかわからなかった。

 会話を続けるのも面倒で、わたしはとっとと寝た。

 寝ぼけ眼だった子供は、目的を終えると、うつらうつらと船をこぎ、床で寝落ちした。


 子供はどんくさい奴だった。

 よく、万葉の機嫌を損ねる。これは別に普通のことだ。あの女の機嫌をどうにかすることはどんな超能力者にもできない。

 問題は殴られたら泣いてしまうことだ。

 今朝がた、子供は女とぶつかった。ゴミだらけの狭い家の中を歩くにはコツがいる。当然、昨日今日来たばかりの子供はそんなこと知らない。

 女はぶつかって機嫌を損ねた子供のみぞおちを思いっきり蹴り飛ばした。

 容赦何て言葉はない。

 軽い身体は軽く吹っ飛ぶ。

 子供はえずいて、痙攣して、のちに呼吸を取り戻し泣きだした。

 泣き声が耳障りだったのだろう。

 女は子供を蹴り飛ばして仰向けにすると馬乗りになって殴りつけ始めた。

 50になろうとするババアが十歳の子供にマウントを取ってタコ殴りにしている様はなかなかのものだった。

 わたしは無感情にそれを見ている。

 助けに入って、わたしまで巻き添えを食らうのはごめんだ。

 やがて女は飽きたのか殴るのをやめて出かけた。

 あとには顔面を腫らし、鼻血をだらだらと流している子供が泣きじゃくっていた。

 自業自得、とは流石に思わないが、それでも怪我を最小限にするやりようはあっただろうとは思う。

 家の中に子供のすすり泣きが響く。

 うっとおしさは感じた。

 わたしは泣きじゃくる子供の傍に近寄った。

 無言で、持ち上げて、洗面所に持って行った。

「早く冷やしな」

 それだけ言って、わたしは洗面所を立ち去った。

 後ろで水の流れる音が聞こえた。


  5


 その日も、子供は殴られていた。

 何度も使いまわしている紙皿を落として歪めてしまったのだという。

 もう、一週間だというのにまだ、この子供はどんくさかった。

 ただ、一週間もたつと、いい加減、洗面台で傷を洗い流すことを覚えていた。

 

 蛇口から水が流れる音を聴いていると、誰かが玄関から入ってきた。

 知らない男だった。

 ひょろりとした気味の悪い男だった。

 男はわたしの名前を呼んだ。

 それは本名ではなく、芸名だった。ガールズバーでのわたしの名前だ。

 男は早口で何かをまくしたてる。

 わたしを好きだとかどうとか、縋り付くようにわたしに近づいてくる。

 男がわたしの髪に触れた時、反射的にその手をはたいた。

 男は激高した。

 ただでさえ、荒れ果てていた家の中を暴れまわって荒らした。

 わたしは何もできない。暴れる大人を止めることなんてできない。

 そして、最悪なことにそこに万葉が帰ってきた。

 暴風のようだった。

 ひょろ長な男を手に持っていた袋で女はぶったたく。

 ひょろ長な男は抵抗するが、そのおぞましい剣幕に終始圧倒されていた。

 パチンコの景品が敷き詰められた袋はそれなりの重量を持つのだろう。

 叩きのめされるたびに、細身の男はぐらぐらと重心が揺らがせる。

 その様は哀れだった。

 ふらつきながら、男はゴメンナサイゴメンナサイと叫び続ける。

 耳障りだから、もっと、ぶたれる。

 ふらふらと、男は泣きながら逃げ出した。

 ふーふーと、万葉の怒りは収まらない。

「あんたね、あんなクズ男を連れ込んだのは」

 体が跳ねた。

 小刻みに震えが止まらなくなる。どうにか、どうにかそれを抑え込もうとしているのに、いくら体を抱きしめても、その震えは止まらない。

 頭を掴まれる。正確には髪を鷲掴みにされる。

 思いっきり振り回された。壁に頭が激突する。髪の毛が何本か引き抜かれた痛みがある。

 大丈夫。いつものこと、いつものこと。

 このまま、抵抗しないで。やられっぱなしにして。

「このクズ、クズ、クズが! あんたはいつになったら、社長になってあたしに楽をさせるんだ! あんなバカみたいな男まで連れ込んで! ゴミ! このゴミめ! ブス!」

 振り回される、遠心力で、視界が揺らぐ。

 耐えるだけ、耐えればいい。痛くても、苦しくても、吐きそうでも。

 そうすれば、いつか終わるから。

 そうすれば、勝手に気が休まるだろう。

 いつものこと、いつものこと。だから、早く終わって?

 涙は出ない、代わりに血が出るだけ。

 だから……、


 不意にぴたりと、手が離れた。

 勢いに任せて、わたしは倒れる。

 それは投げられたというより、振り回している途中で手が離れたという感じだった。

 倒れたままで、わたしは目を開けた。

「……やめて、ください……」

 子供の声だった。

 あの子供が、ひしと女のあしにしがみついた。

「……それ、以上は、やめて……」

「この、クソガキ!」

 当然のように蹴っ飛ばされる。

 小さな体は空中に浮いた。ふわりと浮いて、さらに蹴り飛ばされる。

 転がった体は、そのまま殴られる的になった。

 子供は泣きだした。

 何度も何度も、殴られる。

 倒れたまま、わたしは子供をぼんやりと霞んだ目で目で見ていた。

 なんで、あの子供はあんなことをしたんだろう。

 こうなることはわかるだろう。普通に考えて。

 それとも、わからないほどのバカなのだろうか。だったら救いようがない。

 ……救いよう? なんだよそれ。



 小さな部屋がある。

 小さな部屋は、例によってゴミにあふれていて、すごく狭い。

 体を伸ばすことすらままならないほどには狭い。

 そんな部屋に、子供と一緒に押し込まれた。

 昭和のお仕置きみたいだなと考える。そっちのほうがましかもしれない。

 子供のすすり泣きが響く。私の胎のあたりで子供はすすり泣いていた。

 わたしは目を瞑る。

 瞼は、幕のようだ。学校の体育館にあったステージの幕を連想させる。

 上からゆっくりと垂れてきて、閉じる。

 幕が下りればいい。中学の演劇部のあんまりにもつまらない話も、幕が下りれば終わるのだ。

 だから、幕を下ろすように瞼を下ろす。もう、上がらなければいいと思う。

 幕が下りて、暗転すれば、意識は次第に遠ざかっていく。

 遠ざかっていく、はずだったのに。

 くいくい、と服が引かれる感覚がある。

 小さくつままれた手が、わたしの古びた服の腹のところをつまんでいる。

 鼻声で、子供は言う。

「……おきてますか?」

「寝てる」

「起きてます」

「……なに?」

 瞼は閉じたまま。早くこの痛みを終わりにしたい。

「その……」

 子供は言葉に詰まる。

「何も、ないの? ならいいでしょ」

 鋭く言い放った。息を飲むのが聞こえる。この至近距離なのだから、そりゃっ聞こえるだろう。

「……どうして、おばさんは私をぶつの?」

 話をつづける気か。面倒だなと思う。

 幕は下りたまま。

「あの女がクズだから」

「……くず?」

 お行儀がいいので粗野な言葉はこいつは使わない。聞かれて答える義理もない。

「そう、クズ。マジもんの屑。クズだから、誰にだって当たり散らすし、たかる。そういうモンなのアレは」

「……そうなんですか?」

「そうよ。それから、あんたの親父もクズよ。わたしの親父でもあるけど。やりちんで、自分の愛人に貢ぐために自分の会社を潰すバカ。ついでに娘を犯すクズ」

 つまんだ手に力が入るのを感じた。傷つきでもしたのだろうか。言葉の意味を半分も分かっていないだろうくせに。

「クズはもっといる。わたしの周りにはクズばっかり。いつだって手前勝手な奴ばっかで、他人をいじめるのがみんな大好きなの」

 言葉が出ると、それはあふれ出す。

「どいつもこいつも、クズクズクズ。あんたは知らなかったでしょうけど。世の中クズばっかよ」

 喉の奥が鳴る。どうしてか、締め付けられるように。

「わたしもクズ。みんなクズ。きっと、あんたもそうなんだわ」

 すすり泣きが始まった。子供が泣きだしたのだろう。

「でも、ぶたれる理由はもう一つあるの。なんだと思う」

 子供は答えない。啜り泣きだけ。

「運がなかったのよ。あんたは。多分だけど、一番それが本当」

 だってわたしもそうだから。

「わかったでしょ。だから、諦めなさい」

 何を、とは言わなかった。わたし自身、わかっていなかったから。

 静かだ。きっともう夜なのだろう。

 部屋の戸には棒か何かでも立てかけてあるのだろう。全く開く気配がない。

 あの女のことだ。部屋に閉じ込めて、そのまま満足して忘れたのだろう。

 多分、今日は仕事に行けない。

 あの女が追い返したあのヒョロヒョロの男が何か店でしでかしてるかもしれないし。行かなくて正解かもしれない。

 わたしはクビになるだろうけど。

「ねえ、」

 ふと、どうしてか聞きたくなった。

 それは本当に何気ない思い付きみたいな問いかけ。

「なんで、あんときに突っかかったりしたの?」

「?」

「ほら、昼のこと。あたしが頭振り回されえてるとき、なんで、あんたはあの女に突っかかっていったのかって聞いてるの?」

 子供は迷っているようだった。 

 それから、意を決したように答えた。

「だって……痛そうだったから……」

「なに? 同情してくれたの? お優しいことね」

 その言葉だけで、子供は泣きそうだった。

「……痛く、なかったの?」

「痛くないわけないでしょう。血が出たわ。痣も出来てる」

「痛いんだ……」

「ええ、でも、こんなのは慣れっこ、いつものことで……ッて、何してるの?」

 そいつはわたしの頭のほうまですり寄って、短い手をわたしの頭に伸ばした。

「いたいのいたいの、とんでいけ……」

「何よ……」

「いたいのいたいの、とんでいけ」

「やめて」

 わたしは言った。

 その手を払いのけようとした。なのに、その手は動かない。

「なんで、そんなことするの?」

 声が震えていた。違う、震えてなんかいない。わたしは普通。だって痛いのなんか慣れてるし。

「痛いときは、泣いていいって、ママが言ってたの」

「泣かないし、理由になってない」

「だって、怪我したときは、こうするのがいいんだって……」

「……なによ、それ」

 瞼を開いた。ぱちぱちと、瞬きをする。

 幕なんか、開かなくていい。

「なんで、そこまでするの? わたし、あんたがぶたれてるの、黙ってみてただけだよ。クズなの。クズとクズがバカやってできたクズなの。わたしが殴られてるのも、あんたは黙ってみてればよかったじゃない。そうすれば、あんただって。こんな目に合わなくて済んだのよ。少なくとも今日は、殴られないで済んだかもしれない。どうしてほっとかなかったの」

 子供が泣いていた。こいつは泣いていなかった。

 泣いていたのは、だれ?

「でも、やさしくしてくれたから」

「わたしがいつ、あんたに優しくなんかしたの」

「はじめにここに来て、なぐられて、その時はこんでくれたから」

「そんなこと? 別に、あんたに優しくしたわけじゃないし、……わたしは、わ、たしは。……ただ、あんたの泣き声が煩かったから」

「ううん」

 そいつは言った。子供が、泣いている。

「おねえさんは、いいひとだから」

「いい人、なんかじゃ、ない……っ」

「ううん」

 頭を撫でられる。こんな優しくなでられたことなんて、なかった。

「いいこ、いいこ」

「やめて……」

 じぶんでも笑っちゃうくらい、か細い拒否だった。

「すごく、痛そうだから……ちが、出てるから……」

「全然、痛くないし……っ」

「ううん、痛いよ。すごく痛そう。おねえさん、ずっと、痛そうで、辛そうだった。だから」

 いたいのいたいの、とんでいけ。

「あ、……う、ぅ……」

 生まれて初めて、人に優しくされた。

 下心も、損得もなしに。

 だからそれが、こんなに胸を苦しくさせるなんて知らなかった。

 子供が泣いていた。

 泣いていたのは、わたし。

 わたしは涼子に抱き着いた。

 抱き着いて、声をあげて泣いていた。

 初めてこんなに、泣いていた。

 人は泣きながら生まれてくる。それは、精いっぱい息を吸って生きるため。

 泣きながら生まれてくるというのなら、この日がわたしの生まれた日だった。


   6


 冬がまだ終わらない。

 クリスマスもお正月も、わたしのは関係のない行事だった。

 だから、冬はただ寒いだけのいつもの日。

 でも、その冬は違った。

 涼子のことを、思う。涼子のぬくもりを思いだす。

 それだけで、心が安らぐ。安らぐなんて状態をわたしは始めて感じている。

 わたしは涼子ができるだけぶたれないように気を使った。あのけがれた女に合わせないようにできるだけのことをした。

 それでも、涼子がぶたれるときはある。

 自分がぶたれるよりも、それは痛かった。

 ぶたれた涼子にわたしは近づく。変わってあげたいのに、体が震えてそれができない。そんな自分が情けなくて、目をそらしてしまう。

 いたいのいたいの、とんでいけ。

 あのとき、涼子がくれた言葉をかけたかった。

 だけど、あの言葉はわたしにとって何よりも神聖な言葉のような気がして、とても自分で口にすることが出来ない。

 ううん、それ以上に怖かった。何かわからない怖さがあった。穢れた自分が涼子に触れてしまうのが怖かった。

 涼子に優しくされて、わたしは生まれた。

 けれど、生まれることが出来ただけで、わたしは後、一歩変わることが出来ないでいたのだ。

 こんなの、おんなじだ。

 今までと変わらないままで、涼子に対する想いだけが汚泥のように積もっていく。

 

 だからだろうか、涼子がふらふらと、どこかへ行ってしまったのは。


 昼のバイトをわたしは探していた。

 お金が欲しかった。お金をためて、どこか遠くに行きたい。

 涼子を連れて、涼子が傷つかない場所に行きたかった。

 それでも、中卒で身なりの汚い子供を雇ってくれるような仕事はなかなかない。

 わたしは冬の日の中をとぼとぼと歩く。

 雪が降りだした。その年の冬は例年より寒くて、乾燥しているらしい。

 住んでいる家の慣れ親しんだ洗面台に立つ。

 血やら何やらがこびりついた鏡にわたしが写っている。

 ガサガサの唇を持ったそいつは万葉だった。生き写しと言ってもいいほどに、あの醜い女だった。

 鏡を殴っても、そいつは消えていない。

「……涼子?」

 ふと、家の中に気配がないことに気づいた。

 涼子は学校に行っていない。正しくは通わせてもらっていない。だからいつも家の中にいるのに。

「涼子?」

 わたしは家中を探す。ゴミの中から見つかるかと思った涼子の姿が見えない。

 全身が粟立つのを感じた。焦燥がわたしを襲う。

 わたしはサンダルを履いて外に飛び出した。

 走り回る。涼子の名前を呼び続ける。

 雪がしんしんと降る音が煩かった。

 寒い、手足がしもやけでかじかみ始めている。

 そんなことはいいと、強く指を握った。

 寒いのは心のほう。

 涼子、どこにいるの?

 走っているうちに、小さな足跡を見つけた。

 雪は降り積もり、歩いた後には足跡ができるくらいに積もっていた。

 小さな足が、ふらふらと続いている。

 なおも雪は降っている。

 足跡を追いかけた。息が乱れる、そのたびに口から白いものがこぼれる。

 走る走る。肺が、手が、足が、赤くにじんで鋭い痛みにさいなまれる。

 それでも走る。涼子がいないことのほうが、ずっと、わたしには痛くて苦しい。


 走り続けると、小さな背中が見えた。夢遊病のようにふらふらと歩いている。

 知っている。わたしの大好きな背中。

「りょ……!」

 名前を叫ぼうとして、息を飲む。

 そこは大きなお屋敷だった。お金持ちの家だった。

 涼子が門の前に立ち、中から誰かがやってくる。

 わたしと同じくらいの年齢だろうか。

 それはとてもきれいなひとだった。

 色素の薄い髪に、やや垂れた眼差し、白い肌は冬だというのにきめ細やかで、しっとりとした大人びた服を着ている。

 その美しく端正な顔立ちを見て、すぐにわかってしまった。

 涼子がその娘に連れられて、屋敷の中に這入っていく。

 わたしはゆっくりと、屋敷の前に近づいた。

 表札には『灰崎』と書いてあった。


   7


 わたしは屋敷の周りをぐるりと回る。

 ……なにをしているんだろうか、わたしは。

 涼子は自力でこの家に戻ってきた。もしかしたら、こんどこそ本当にこの家の娘に戻れるのかもしれない。

 そう思うと、胸が苦しくなった。

 どう考えても、あんな家にいるよりも、この家の娘でいたほうがいいのだと思うのに。

「そうすれば、涼子は幸せなのかな……」

 それはとても素晴らしいことのように思う。

 だって、あの子が幸せだと考えると、嬉しいと思えるようになるから。

 だけど、そこにわたしがいないことを考えると、苦しい。

 哀しくて、涙が出そうになる。

 だからこうやって、屋敷の周りをうろうろしていて。

「そこで、何をしているんだい」

 男の声がした。

 白鷺浩平だった。



 何をしているのだろう、わたしは。

 レディーススーツをそれっぽく着ながら、なんだかその似合わなさに惨めになる。

 ここで何をしているのかと聞かれて、わたしはどうこたえるべきか悩んだ。 

 こんな男に、正直にすべてを話すことが正しいことかなんて微塵も思えなかった。

 だけど、ほかにどうすることもできなくて、わたしは涼子がこの屋敷に帰ったことを告げた。

 男は、しめたと思ったのかわたしにこのスーツを渡した。

 女性秘書か何かが一人いると様になるからだろう。

 男はよれたスーツを着込んでいた。

 何度も何度も、男はこの屋敷を訪れていた。貢いだ金を返して欲しがっていたのだろう。

 そのたびに追い返されるのに、男は何度も訪ねていた。

 それ以外、やることなんてなかったのだろう。働く気さえなかったのだ。

 男はわたしを連れて、灰崎家に乗り込んだ。家主の灰崎良平はおらず家内の灰崎夏葉がその家にいた。

「ダメよ、浩平さん」

 口ではそういいながら、灰崎夏葉は無理やり上がり込んできた男をキスで出迎えた。

「いま、家には私一人だから」

 平然と、灰崎夏葉は嘘を吐いた。

 わたしがすぐそばにいるのに二人はやたらをキスをして屋敷の中に上がり込む。

 わたしは涼子を探すために二人と離れた。あの二人はあの二人の世界に入り込んでしまって、わたしに気づかない。

 涼子、とわたしは掠れた声をあげる。

 涼子に会って、どうしようというのだろう。

 あって、一体何を話すというのか。わたしは自分でもわからなくなっていて。

「涼子を探してどうするの、貴女」

 わたしは声をかけられる。涼子の姉の灰崎夢夜だった。


    6


「お母様はわたしに隠れていなさいとおっしゃるの。あの男と不倫するのに、わたしは邪魔なのね。酷い話だとは思わない、秘書さん」

「は、はぁ。そうですね」

 わたしは灰崎夢夜の話に曖昧な相槌を打つ。

 夢夜はそれだけで満足げに鼻を鳴らした。

「秘書さん。涼子を探していたみたいだけど。どうして?」

「その、妹さんが屋敷に入られるのを確認いたしまして」

「さっきから、敬語の発音がおかしいわ。あなた、慣れてないんでしょう」

 さらりと、夢夜はわたしの敬語慣れのしてなさを見抜いた。

「べつにいいわ。もう、どうでも」

 強い言い方で、吐き捨てるように夢夜は言った。

「涼子を探しているんでしょう? 確かにあの子はこの家に入ったわ。汚い身なりをしていたから、シャワーを浴びせて、クローゼットに突っ込んでおいたわ。あの子バカだから、かくれんぼだっていたらすぐに入ってくれて」

 夢夜は涼子を鼻で笑った。

「その、妹さんは。どちらのクローゼットに……」

「そんなの貴女には関係ないでしょう。わたしが貴女にわざわざ話しかけてあげたのは、そんな話をするためじゃないわ」

 ……この女、腹立つ!

 なんだこの上から目線は。

「では、なんのために?」

「さっさと帰りなさい。屋敷を出ていくの」

「な。なぜ?」

「見苦しいものを見せるからよ。わたしね、これから大ごとを起こそうと思っているの」

 心底つまらなそうに灰崎夢夜は言った。

 心から、憎々しげでさえあった。

「そろそろね」

 ガチャリと扉が開いた。

 白鷺良平が帰ってきたのだ。


    7


 修羅場になった。

 彼ら彼女らの関係性を鑑みれば、それは当然のことのようにも思う。

 ひどい罵りあいが屋敷中に広がった。

 わたしにとってはどうでもいい。

 涼子を探した。部屋を一つ一つ探っていく。四人暮らしのくせになんでこんなに部屋があるんだ。

 屋敷内で行われている罵りあいは殴り合いに発展していくのか、悲鳴と怒号と食器が割れる音が響く。

「呆れたわ。まだ涼子を探しているのね」

 灰崎夢夜だった。

 その表情は無だ。何も読み取れるものがない。

「ねえ、貴女って、涼子のなに? なんなの? よその家で殴り合いが起きているのよ。修羅場なのよ。普通、さっさと退散するでしょ? なんで涼子を探すの? 仕事だから?」

「それは……」

 矢継ぎ早の灰崎の言葉に答えを窮する。

 けれど、灰崎夢夜にわたしの言葉を聞く気はなかったらしい。首を横にふるふると、

「違うでしょ? あの男のことはある程度調べたの。ろくでなしよね。心底汚らわしいわ。人を雇う金がないし、働く気がないから愛人だったお母様にたかりに来たのよ。そしてそれを拒否できないお母様。お笑い草だわ」

 灰崎夢夜は嗤った。それは嘲笑にも近く、自暴自棄な笑いにも見えた。

「ねえ、もう一度聞くけど、貴女は涼子のなに?」

 その問いは、わたしを貫いた。

 涼子にとってわたしは何だろう。

 姉? 確かに血縁上はそうかもしれない? けど、違う。だって、あの子にとって姉は目の前にいるただ一人なのだ。

 わたしは、姉と言えるようなことなんかしていない。もしかしたら、あの子はわたしのことなんて……。

 わたしは自分を抱きしめる。

 考えれば考えるほどに、答えは見えなくなっていく。

 わたしが出せないでいる答えを灰崎夢夜は端的に答えてしまった。

「そう、赤の他人ってことね」

 つまらなそうな答えがわたしの心に突き刺さる。

 そうだ。当たり前だ。わたしが勝手に涼子に救われただけで。白鷺華麗は灰崎涼子にとっては赤の他人なのだ。

「なんなの貴女? 気持ち悪いわ」

 わたしは泣いていた。泣いていた。その事実がどうしようもなく心にのしかかってきた。

「まあ、いいわ。気持ち悪い奴のほうが罪悪感もないしね。……ね、わたしが手に持っているもの、わかる?」

 灰崎夢夜が、持っているもの? 

 視線を彼女の手元に向けた。

「……ろうそく?」

「そう。わたし言ったわね? 見苦しいものを見せるって。これをね、こうするの」

 彼女はろうそくを落とした。

 床に落ちたろうそくから炎が燃え広がる。

「貴女が涼子を探している間。大人が三人、年甲斐もなくわめいている間、わたしが何をしていたと思う? 家中にね、ガソリンをまいていたの。油じゃなくてガソリンよ」

 灰崎夢夜は狂ったように嗤った。嗤った。甲高く。

 それから廊下を走りぬけていった。

「待っ!」

 わたしはその姿を追いかける。


   8


「いた、痛いよ! お姉ちゃん!」

 灰崎夢夜は涼子を引っ張っていく。

 向かう先は大人たちが争っているリビングだった。

 彼女はガラスのコップを床にたたきつける。

「わたし、今から涼子を殺すわ」

 ナイフを涼子の首筋につきつける。

「涼子!」

「涼子!」

 反応したのは白鷺浩平と灰崎夏葉だった。

「ねえ、夢夜、これは一体どういうことなの。さっきから、焦げ臭いし、一体何をしたの?」

「お母様。別に大したことをしようってわけではないんです。ただ、この家ごと全部燃やしてしまおうと思って」

 にっこりと夢夜は嗤った。

 けれど、全く笑ってはいなかった。

「な、なにを言っているんだ。この娘は気がくるっているのか!」

「貴様は黙っていなさい。お母様をたぶらかし、子を設けるような男に話すべきことなどありません!」

 白鷺浩平の言葉を夢夜は一蹴した。

 その剣幕に、男は何も言えなくなってしまった。

「ねえ、夢夜、どうして、どうしてこんなこと……」

「そうだぞ、夢夜、早くそのナイフを離して、消化を・……」

 灰崎夫妻は必死に説得しようと言葉を連ねようとする。

 その様を見て、夢夜は嗤った。

 嗤った。

 嗤った。

「どうして? どうしてですって? 汚らわしいからよ!」

 そして叫んだ。それは心から、腹の奥底から響くような声だった。

「ねえ、考えたことあるかしら! 自分の妹だと思って可愛がっていた子がどこぞの知らない男との子だったなんて! しかも、その相手と横領事件を起こして私腹を肥やし、あまつさえ落ちぶれた後もひものように面倒を見ているだなんて! そんな汚らわしいことをわたしはずーっと気持ち悪いのを我慢してきたのよ! そのうえ毎日毎日その男とお父様は争いばっかり! 涼子涼子涼子涼子! お母様まで一緒になってよく飽きないわね! そんなに不貞の娘が大事⁉ ようやく涼子がいなくなったと思ったら、また男はやってきて、今度は金金金金! もううんざりよ! 汚らわしいモノばっかり! ……だからね、だからもう、全部燃やしちゃうの……、もう、汚いモノなんかない、昔に戻るの……、そう、全部、涼子から始まったんだわ……、殺すの、そして、もう一度わたしは始まるの!」

 ナイフが振り上げられる。

 わたしは灰崎夢夜に激突して、ナイフを落とさせ、涼子を抱える。

 いや。絶対になくしたりしない! この子はわたしの、ただ一人だけの光なの!

「返しなさいっ!」

 叫びをあげて灰崎夢夜は迫ろうとする。

 その傍らから、灰崎夏葉が叫びをあげて迫った。

 夏葉は落ちたナイフを拾い上げて振りかざした。

 燃え広がろうとする焔が銀色のナイフに写った。

 振りかざしたナイフは、あとは振り下ろすだけ。

「あ、」

 その間抜けな声は誰だろうか。

 振り下ろされたナイフが灰崎夢夜の胸を貫いた。

 コポ、とまた間抜けな音がして血がこぼれる。

 信じられないものを見る目で、灰崎夢夜は夏葉をみた。それから、何もかもをあざ笑うかのようなまなざしをすると、がくりとその体を手放した。

 静寂とともに、絶叫が起きる。

 涼子は叫んでいた。

 今まで聞いたこともないような、地獄の底からあふれでるような絶叫だった。

 実の母親が、実の姉を殺すさまは幼い子供には耐えきれなかった。

 絶叫とともに涼子は泣いた。

「夢夜! 夢夜! 夢夜!」

 灰崎良平は夢夜を抱きしめる。息をしていないその体を抱きしめて、離さない。

 灰崎夏葉は呆然と、涎を垂らして虚空を見つめていた。その手に持ったナイフは血に濡れていた。

 火の手がどんどんと回ってくる。

「おい! おい! 燃える! 燃えちまうよ! 言えよ! 暗証番号を! 知ってんだぞ! 横領した金は地下の金庫に全部隠してることを! 暗証番号を言えよ! 全部燃えちまうよ!」

 気化したガソリンは虚空で燃えて、その火が白鷺浩平の体を燃やした。

 炎は次々と広がり、3人の生きた人間を燃やした。

 涼子は必死になって手を伸ばす。

 わたしはその手を掴んだ。

 行かせない、死なせない!

 いやいやと涼子は泣きながら首を振る。目の前で希望が、安らぎが、よりどころが、思い出が、全部全部燃えていた。

 ああ、このまま死んだほうがこの子は楽なのではないのだろうかと、そんな考えが一瞬、脳裏をよぎった。

 それを全力で否定する。考えろ、考えろ。この子が生き残って不幸にならないで済む方法を! それが、それがわたしのすべてだから!

 その時、すさまじいことが浮かんだ。

 いや、普通に考えて、絶対にうまくいかない。だけど、それでも。もしかしたら。

 腕の中で、ぐったりと涼子は意識を喪っていた。凄絶すぎる現実に彼女は耐えられなかったのだ。

 わたしは傍にあったテーブルクロスを引っぺがす。自分の服も脱ぐ。

 そこに紅茶やら、ミネラルウォーターやらリビングにあるアルコール以外の液体を全部かけて、涼子をくるんだ。

 気休めだ。だから、すぐにすべてを終わらせる。

 わたしは涼子を抱えて、炎の中に飛び込んだ。

 炎に全身を焼かれていく。死ぬわけにはいかないから、それでも全力疾走する。

 痛みや熱さになれることなんかない。それでも耐えられる。この腕の中の重さが、わたしのすべてだから。

 炎の中を走って、窓ガラスをたたき割る。そこから涼子を外に放り出す。

 それを確認したら、わたしは最後の仕上げにうつる。

 わたしと灰崎夢夜は、年のころも背丈も同じくらいだ。

 炎の中で、燃えている柱。そこに顔面を押し付ける。

 死ぬのなんか生ぬるいといわんばかりの痛みと熱さがわたしを襲う。

 顔が燃える。灼けて、ただれる。

 最後に見たものは鏡だ。割れた鏡の中で万葉が燃えていた。わたしの憎んだわたしの顔が燃えていた。

 白鷺華憐は、その時死んだ。


   9


「そして貴女は灰崎夢夜となり、その金庫の中のものを含め灰崎家の遺産を相続。白鷺涼子となり、記憶を失った彼女を三原万葉から遠ざけ、ずっと支援を行ってきた。ということですわね」

 穏やかな光の中で、目を覚ますと白い天井が見えた。

 ボンヤリと、ベットで寝ているのだと、認識する。

 白い部屋だった。天井も、床も、壁も、ベットも、わたしの服も白かった。

「……わたし、貴女に話をしていましたか? 久遠廻音さん」

 白い部屋に一つだけ、ピンク色の異物がある。

 久遠廻音はわたしの問いかけには答えない。ただ、曖昧に笑うだけ。

「……そうね、思った以上にやけどがひどくて、たらいまわしにされたわ。そこで全身黒焦げで手術を受けたの。かすれた声で、わたしは灰崎夢夜ですといえば、それですんだわ」

 古い記憶。

 手術の後、この顔になって、その美しさに嫉妬した。

 涼子の求めるお姉さんは、こんなにも綺麗だった。そのことに嫉妬して、今は自分がその持ち主であることに優越感を覚えていた。

「涼子の記憶がなくなっていたとき、心から安心したの。あの子が精神的に受けた傷を思ってじゃなくて、自分の正体がばれない可能性がずっと高いことに。その時、初めて神様がわたしに微笑んでくれたと思ったわ。わたしね、クズなの。涼子のことなんて、微塵も考えていなかったのよ」

 ゆっくりと、体を持ち上げる。全身が軋むように痛むが、この程度なら耐えられる。

 久遠廻音は曖昧な表情を崩さない。

「灰崎夢夜になって、わたしは確かに幸せだったの。小さな家には万葉がいなくて、毎日のように涼子が来てくれるの。あの子のために奪い取った遺産を使ったわ。万葉は面倒を見なくてよくなったから、暴力も減ったんでしょう。無関心というか、寝るために戻るだけになった涼子がどうでもよくなったのね」

 言葉を区切る。

 口の中が、少し苦い。ぐっ、と飲み干した。

「わたしね、幸せだった。こんなに幸せなことがあるんだって、こんなに幸福な日々が続くんだって、涼子と何でもないお話をして、涼子のためになれない料理を作って、涼子と一緒に紅茶を飲んで。そんなことを繰り返す日々は、毎日は、瞼の裏がぼやけてしまうくらい、幸せだったの」

 そう、幸福だった。

 どんな言葉を尽くしても、足りないくらい幸せだった。

 ちょっとくらい大変なことはあったけど、そんなの吹き飛んでしまうくらい、好きになった人の傍にいられる日々は幸せで。

「とても幸せで、でもね、時々つらくなった。だって涼子が見ているのは、好きでいてくれるのは『わたし』じゃなくて『灰崎夢夜』なんですもの」

 あの子がわたしを見つめて、素敵な言葉をかけてくれる。

 でも、それは『灰崎夢夜』に見せてくれる言葉と思い。

 口が叫びそうになる、わたしを見てと。

 心が叫びだしていた、わたしを見ないでと。

「おかしな話でしょ? わたしは『灰崎夢夜』になって、……そうすれば涼子と一緒の未来が見えた。そして本当にそうなっていたのよ。でもね、それは『わたし』じゃないって思うと、苦しかった。騙しているのはわたしなのに、嘘を吐いているのは、わたしなのに」

 ちちちち、とどこかで小鳥が鳴いている。

 もう冬なのに、穏やかな静けさの中で鳴いている。

 一羽だけで鳴いている。

「そこから先は、わたくしの推察通りですわね?」

「ええ、三原万葉を殺したの。黒鵜さなに罪を擦り付けようとしたのは、あの子に嫉妬したから」

「嫉妬ですか?」

「ええ、だって、涼子ってばあの人の話をたくさんするようになったの。苦しかったの、哀しかったの。いつかその人に涼子を取られてしまうんじゃないかって思うと。案の定、会ってみたらすぐにわかったわ。あの子もわたしとおんなじ、どうしようもない人で、涼子が好きなのね」

 目を閉じる。

 それは幕を閉じるように。

「三原万葉を殺したときね。わたし、心底から嬉しかった。そして後悔したわ、もっと早くこうしていれば、わたしはわたしとして涼子の傍に入れたのかしらって。……そんな訳ないのにね」

 くすりと微笑った。

 あの女を殺したことは、微塵も後悔がない。むしろ、ようやく殺せたんだって、そう思ったくらい。苗字を変えたあの女がわたしにたかりに来た時から、いつか殺すと思っていた。

「ひとつ、よろしいですか? どうして貴女は自分が灰崎夢夜ではないとお認めになられたのでしょう? 否定することもできましたし、普通、こんな話、否定されたら誰も反論できませんわよ」

「もう、その必要はなかったんです。三原万葉は死んで、白鷺家も灰崎家も、もう誰も残っていません。真実が明らかになった以上、あの子についてしっかりと調べが入れば、あの子が順当に遺産を相続できますから」

「それだけで、ございますか?」

 わたしは答えない。教えてなんてあげない。

「本当は、殺害を行なった時からここまで、全部あなたの筋書きがあったのでないのでしょうか? タレコミをいれて黒鵜さんに罪を擦り付けたようとしたのは、そこを経由して自身が犯人であることを知らせるため。刑務者に入ってからは……」

「久遠さん」

 わたしは言葉を遮る。そこから先まで言われるのは、なんか癪だし。

 だから、ちょっと思ったことを投げかけてみる。

「久遠さんって、死神なんですか?」

「あら? どうしてそう思われるのですか?」

「わたしを殺しに来たのかなって」

 瞼の裏から見える光は、少しずつ弱くなっている。

 体の痛みが少しずつ鈍くなっていく。

「……残念ですが少し違いますわね。わたくしはあくまで死を収集するものであって、裁定するものではありません」

「それって違うんですか」

「全然ちがいますわ。それに貴女の死を収集するようにとは言われておりません」

 そうなのか。

「なーんだ。じゃあわたし、死ぬわけじゃないんだ」

「死ぬかもと、思っていたのですわね」

「ええまあ」

 自分の体の外側は変えられても、内側は変えられない。

 そこからばれるわけにはいかないから、火傷後のカルテを盗んだし、病院にもずっと言っていなかった。

「貴女の体の中は幼いころの虐待と大やけどの後遺症等で随分とボロボロでしたわ。鈍痛が常に付きまとっていたはずですが」

「ええ、でも、我慢には慣れてますから」

 耐えられる理由があれば、人間、無理が出来たりする。

「白鷺さんに戸籍を取りに行かせたのは、もし真実が明るみに出ずに死亡した場合、自身の持つ遺産を彼女にすべて譲渡するためですわね」

「秘密です」

 言わぬが花ということもある。どうやら死ぬような事態でないらしいから言わない。

「じゃあ、灰崎夢夜の収集はしないんですね」

「灰崎夢夜さんなら五年も前にお亡くなりになっているはずですが」

「それも、そうですね。けど、白鷺華憐も死んでいますよ。もう死んだんです」

「不思議なお話ですわね。では、いま、わたくしの目の前にいる方はどちら様なのでしょう?」

 わたしは体を横に倒す。

 しかし華憐だなんてひどい名前だ。自分の娘が綺麗になるとでも思っていたのだろうか、あの母親は。

「わたしは『灰崎夢夜』でも『白鷺華憐』でもありません」

 わたしは答える。

「しいて言うなら『嘘』ですね」

「嘘、でございますか?」

「ええ、でも、それがわたしにとってのすべてで、ただ一つの本当なんです」

 わたしのすべてが嘘でも、この想いだけは本当だから。


   10


「では、わたくしはこれで」

「ええ」

 久遠廻音は礼をして煙のように立ち去り。

「最後に一つだけ。お客様はもう一人いらっしゃいますわ」

 そんな言葉を捨て台詞に残した。

 ……もう一人?

 怪訝に瞼を開ける。

 すると不意に扉が開いて、一人の背の低い少女が入ってきた。

 黒い髪は短く澄んでいて、肌は白く、瞳は黒曜のよう。

「涼子……」

 思わず、わたしは彼女の名前を呼んだ。

 どうして、とわたしは問う。

 わたしはずっと、貴女をだましてきたのよ。大ウソつきなの。貴女の姉を騙った詐欺師なの。

 もしかして、わたしを責めにきたの?

 そう問いかける。心臓が掴まれるように、苦しくなる。

 けれど彼女は首を横に振った。

 話をしようと彼女は言った。

 私とあなたの、これまでとこれからの話を。

 一人だけで逃げないで。今度は本当に向き合おうと。

 そういうことをいって、彼女は不器用に微笑む。

 わたしは、どんな顔をしていただろう。どんな顔をすればいいだろう。

 わたしは、わたしとして彼女に向き合ったことがなかったから。

 それでもどうにか、微笑って見せた。



 格子の窓から降る冬の日差しは、柔らかく。

 その明るさは穏やかで、痛くも熱くもない。

 ただ、それでも、いまのわたしには少しだけ眩しかった。

 それでもいつか、この日差しとともにいられるような、そんな夢を見る。




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