第2話 太川刑事、と久遠廻音さん
1
取り調べの一切が終了した。
おれはこうして後輩の書類ミスの尻拭いをさせられ、残業の後にとぼとぼ真っ暗い夜道を歩いている。
明日にもあの灰崎とかいう小娘は送検されるだろう。同情も興味もない、おれは刑事で、仕事をするだけなのだ。
ふと口が寂しくなった。
自販機があつらえたかのように見つかったので、缶コーヒーを買う。無糖だ。
口の中にまずい泥の味が染みる。まずいとわかっていて買ってしまうのはなぜなのか。
一気に中身を飲み干した。空になった缶をそこいらに放り投げる。
だが、缶が地面に落ちる甲高い音が聞こえてこない。
怪訝に投げた方向を見ると。
「ポイ捨ては推奨できませんわね。太川(おおかわ)刑事」
「うおァ⁉」
闇の中からヌッ、とピンク色の影が現れた。
「く、久遠さん……い、いつの間に……」
久遠廻音は質問に答えない。代わりに今しがた捨てた缶をおれに差し出す。
おれはおそるおそるそれを受け取った。
愛想笑いをうかべて、内心を悟らせないようにするが、果たしてこの女にどこまで通じるか分かったものではない。
おれは、この女が怖いのだろうか? それすらわからない。わからない女だ。
おれは久遠廻音と初めて会った時のことを覚えていない。気が付いたらこの女のことを知っていた。人によってこの女との出会いを克明に記憶している奴もいれば全く覚えていないやつもいるらしい。
ショッキングピンクの色をした短い髪に金色の瞳。やたらとフリフリのドレスのような衣装。ハロウィンに街中にあふれる若者のような、馬鹿な恰好を常にしているのに、なぜかそれが浮かない。スクランブル交差点の影のようにこの女は何かに溶けている。それでいて、遭うときは必ず、事件の真実のすぐそばにいる。
何より、何を考えているのかまるで読めない。どんな脅しや揺さぶりも全く効かない。どう調べても素性すらわからない。得体のしれない、そこのしれない女だ。
「太川さん。事件の進捗はいかがですか?」
おれは努めて、平静を保って飄々と答える。
「はっはっは。久遠さん、いくらあなたでも、そんなこと教えるわけにゃ」
「捜査は終了。灰崎夢夜は犯行を認め、それは事実と合致し矛盾はない。動機だけが曖昧だが、ほかに犯人の当てがあるわけでもなく、検察側はこのまま立件する気でいる。といったところでしょうか」
「……、知ってたんなら」
「わたくしたちはその動機について調べる気でいますわ。ぜひ情報をいただきたく」
久遠廻音は平然と言い切る。
「あげるとお思いで?」
「思っていますわ」
街灯が点滅する。老朽化しているせいか、不安定に点滅する。
「わたくしたち、といいましたよね。あんたの他に、今度は誰がくっついてるんです?」
久遠廻音は、いつだって誰かしらをくっつけて行動している。それは事件関係者である場合もそうでない場合もある。
陰から白鷺涼子が現れた。
喫茶店で軽く脅しをかけたときのか弱い少女だ。だが、発破をかけられたらしい、目に鋭い光が宿っている、答えを求める人間の目だ。
「……、被害者遺族じゃないですか。猶更、被疑者の情報を渡すわけにいかないですよ」
ガキがじっ、と見つめてくる。睨まないだけ、まだ弱っちい。
久遠廻音は全く揺らがない、想定内だからだろうか。次のカードをすぐに切ってくる。
「情報を開示してくださるなら見返りを渡しますわ」
「見返り? なんです?」
久遠廻音は2本の指を立てた。
「……いえ、やっぱり一つですわ」
「なんです。もう一つは当てがなかったと?」
「ええ、お恥ずかしながら。真相を完全に解明しても、それを警察に話すかどうかはわたくしが決められることではありませんから」
まるである程度の察しはついているといわんばかりだ。いや、実際、ついているのだろう。この女は、そういう奴だ。
「ですので、もう一つのほうを」
久遠廻音は2本の指を閉じた。街灯が点滅から消灯し、顔に影がかかる。
「太川刑事の汚職を口外しないことをあげさせていただきます」
「……何のことですか。あらぬ誤解ですよ」
……問題ない。証拠なんてどこにも。
「証拠ならありますわ。こちらです」
リストが渡される。おれとかかわりを持つ後ろ暗い連中の名前が並んでいた。
「その手の伝手(つて)も、時には捜査に必要という考え方自体をわたくしは否定いたしません。ですが、違法捜査はもう少し、ばれないように行うことをお勧めいたしますわ」
リストを持つ手を凝視する。そこには連中の名前と現在の社会的立ち位置。そしておれとのやり取りが事細かく、けれどわかりやすくまとまっている。そしてそれは凡て事実である。ああ、証拠もあるんだろうなと不思議と納得があった。
久遠廻音はきっと、いつもの得体のしれない顔をしているのだろう。
「……いいでしょう。おれも事件のすべてを知っていたい。このままの調書だと、上司にどやされかねませんからね。灰崎はガイシャとのやり取りについてはずっと黙秘を貫いていますから。しかも頑なに。外から崩すしかないんですよ。じゃあ、そうですね、何から話しましょうか」
この女相手に腹芸など無理だと、なぜ最初から考えなかったのか。まあいい。刑事といったところで所詮は一介のサラリーマンに過ぎないのだ。多少の情報流失など、構いはしない。ほぼ終わったような仕事だ。うまくいけば点数が上がるのだから儲けものだろう。
2
半月前、11月28日の早朝。
どこぞの女の死体が河川敷で発見された。
頭部には殴打痕があるが傷は浅い、これは非力な女の仕業だろう。
死因は転落死だ。
凶器も何も川に流されてしまっていると踏んでいいだろう。
ガイシャは五十代の女性。身なりから決して裕福な家柄ではなく、財布がないことから行きずりの強盗かひったくりにでもあったのだろうと、大方で予想されていた。
ガイシャの身元はすぐに割れる。
三原万葉、52歳。隣の隣町で暮らす無職の女だった。
警察はいつも通りに捜査に入る。然程、大きなヤマではないとないと判断されたのか、割かれる人員も決して多くはないが、まあ、このさほど栄えてもいない町ではよくあることだ。
おれは三原万葉の周辺を洗うことにした。
まずは肉親を洗うため、戸籍を調べた。
すると、三原万葉は既婚者であることが判明した。近所に住んでいた人間は、皆、そろいもそろって、あれは独身の孤独な女だったといっていたので、意外だった。
よくよく調べると三原は旧姓で結婚後の性は白鷺だったらしい。だが、ガイシャは三原を名乗っており、アパートも三原万葉名義で借りていた。家賃をよく滞納していたらしい。
離婚でもしたのかと調べたら、どうやら夫は5年ほど前に行方不明になっているらしい。
白鷺家の家族構成は夫、白鷺浩平。妻、白鷺万葉(旧姓が三原だ)。長女の白鷺(しらさぎ)華麗(かれい)。次女の白鷺涼子となっている。
長女の白鷺華麗(・・・・・・・)は、夫とともに蒸発しているらしく、身元も明らかになっていない。
「身内は、次女の白鷺涼子だけか」
ホシである可能性は極めて低いであろう。事実、ガイシャの死亡推定時刻には役所にいたことがアリバイとして成立している。公的機関だ。監視カメラにも写っている、アリバイは確実だった。
そもそも、だれもが行きずりの犯行で、すぐにホシが上がるであろう事件だと思っていたので、これらの調査は形式的なことだった。
白鷺涼子は三原万葉とはまるで似ても似つかない、美人だった。
それは顔立ちの話ではない、顔立ちも整っているが、それ以上に、美人の雰囲気とでもいうようなものがあった。梳ったような黒髪は揺れ、隙間から厭に白い肌が見え隠れした。カツカツと、歩くたびに音がしそうな冷たさがある。蝋で作った死体のような不健康な美しさだった。
端的に言うと辛気臭い。
おれが中学生だったとしてもこの女には欲情しなかっただろう。こいつの美しさとはそういう美しさだ。そのまなざしは重たく、それでいて人好きはするだろうが妙に惹かれる雰囲気がある。死を引き寄せる類の女だと、感じた。
白鷺涼子を三原万葉の死体と合わせた。
想像以上になんの反応もなかった。
想定を上回るレベルでこの親子は他人だった。
親子の間なら多かれ少なかれあるであろ愛憎の類が、三原万葉の死に顔をぼんやりと見つめる白鷺涼子からは感じられなかった。
白鷺涼子は犯人ではないと分かった。
「……母とはもう2年もあっていません。苗字が違うことからわかる通り、ほとんど他人みたいな関係でした。確かに昨夜のアリバイはありませんが、同時に殺害動機もありません」
「なるほど、では白鷺さんは心当たりがありませんか、三原さんが誰かに恨まれたりなどは?」
「ありません。……ごめんなさい、全然、捜査の手助けになれなくて」
「いえ、白鷺さんは捜査に協力的で助かりますよ。普通ならもっと大げさに取り乱したりしますからね。まあ、今日は何です。詳しい話は後日、ゆっくり聞かせていただきますから。お帰りいただいても結構ですよ。ご安心を、犯人は必ず逮捕します」
愛想笑いを浮かべ、お約束のやり取りを行う。おれの顔は人がいい奴の顔だそうだ、前に誰かに言われたことがある。実際は全くそんなことはないのだが、こうして愛想笑いを浮かべるとまるで優しいおじさんみたいに見えるそうだ。おかげで何度か楽をしたこともあるが、白鷺涼子には効かないだろう。なんとなく、そう思うからそうのはずだ。
白鷺涼子が警察署から出ていくとき、見覚えのあるピンク髪とぶつかった。
その一瞬だけ、白鷺涼子の瞳に妙な揺らぎが見えた気がした。それと同時に久遠廻音の視線が明確に白鷺涼子を捉えたような。
すぐに何事もなく、両者は別れた。……気のせいだ。二人に因果関係が大きくあるわけではない。
「あら、太川さん。奇遇ですわね」
久遠廻音が声をかけてくる。おれはいやな顔をしただろう。最も、おれの嫌な顔が他人にとっては少々困っているだけの顔に見られることは多々ある。とはいえ、久遠廻音は別だ。
「そんな嫌そうな表情(カオ)をされては傷つきますわ」
「はっ、どの口が言うんです。で、今日はどんなご用件で?」
「先日お亡くなりになった三原万葉さん、もしくは白鷺万葉さんのご遺体を見せていただきたいんですわ」
「何を、馬鹿なことを。できるわけないでしょ、そんなこと」
……この女、事件について嗅ぎまわっているのか? 毎度毎度、一体どこから情報を得るのか。
だが久遠廻音が絡みだしたとあって、おれのなかでこのヤマの重要度が確かに上がったのは事実だ。
「まあまあ、そうおっしゃらずに。いいじゃありませんか。減るものではありませんし」
「おれの信用が減ります」
「うふふふふ」
「うふふふふ、ではないんですよ。お帰りください」
「そうですか、残念ですわね。では、お暇させていただきましょう」
あっさりと久遠廻音は引きさがる。この女はしつこくない分、下世話な雑誌記者や探偵もどきよりよっぽどましだ。不愉快に表情を変えないのもよい。
はよ帰れ。
「では、最後にひとつだけ」
去り際、久遠廻音はこちらを振り返る。
「太川刑事はわたくしが関わることによってこの事件が厄介なものであるかのようにお思いになられたのでしょうけれど、そうとは限りませんわ」
それが事実だとおれが知るのはもう少し後だ。
「久遠さん。あんた一体何を……」
久遠廻音は答えずに煙のように消えた。
3
タレコミがあった。匿名で、ガイシャと会っている人間がいたという話だった。
不自然な点が多かったが。思いのほか捜査が難航していたとの時点で、このタレコミはあまりにも都合がよく現れた糸だった。
すぐにこいつをもとに捜査が行われた。
すぐに黒鵜さなが捜査線上に浮上した。
黒鵜さなは警察組織の中でも名の知れたガキだった。
父、黒鵜鬲はそれだけ悪名高いジャーナリストで、娘のさなは実にそれによく似ていた。野次馬根性でよく面倒ごとに首を突っ込み、事態を面倒な方向へ引っ掻き回す。
こいつが捜査線上に浮上し、どうやらタレコミが指している人物がこいつであることと、三原万葉に会っていたことが事実であったことが明らかになればなるほどに、捜査員の顔に関わりたくねえの文字が浮かび始めた。
こういう時、いつだって白羽の矢はおれに降りかかってきやがる。
面倒だ。断りたい。だが上司がおれを直々に指名してきやがる。ついでに、これをやってくれたら無能の細田を相方から外してくれるというのだから、頷くしかなった。つらすぎる警察官(サラリーマン)……。
「はあ、ご同行ですかぁ? でも任意ですよねぇそれ。アタシがそれに乗っかる理由とかなくないですかぁ」
この間延びした言い回しは単純に相手を挑発する際のものだと、こいつを知っている知り合いからは聞いている。本来はもっとカツカツした喋り方らしい。つまりこいつはおれをなめ腐って挑発を仕掛けているのだそうだ。ぶっ飛ばすぞ。
「そぅのですね。先日、三原万葉さんという女性が殺害されているのが発見されましてね、お知り合い、でしたよね?」
「さあ。プライっバシーに関することですから」
なぁにがプライっバシーだ。変なところでアクセントをつけるな。
座っているパイプいすを蹴っ飛ばしたくなる衝動を抑えて、おれはいつもの愛想笑いを浮かべる。
「困りますよ、さなさん。こちらも仕事でね、知ってることがあるなら話していただきたいんですよ。我々も、いらない疑いをかけたくはない」
「へえ、アタシが犯人だと決めてかかってるわけじゃないんですね」
「……どうして、自分が犯人だと思われてるって思っていたんですか?」
「別に、警察に呼ばれたら、普通はそう思うんじゃないですか?」
ちょっとした揺さぶりにも動じない。なるほど、これは骨が折れる相手だ。
結局、三原万葉と黒鵜さなとの間になにかがあったのか、それを引き出すことはできなかった。これはおれのせいだけではない、こいつが手強すぎただけだ。
そのうえ、おれがいない間に担当した若手が随分と情報を持っていかれたらしい。
戻った時、すでにこの女は満足げな顔で待っていた。
「一応、言っておきますね。アタシ、犯人じゃないですよ」
名目上では任意同行で連れてきたことになっている。長時間の勾留は不可能であり、そのまま黒鵜さなは返すことになった。
4
「タレコミの電話があって、それをもとに黒鵜さなさんを最重要被疑者としていると聞き及んでおりますわ」
携帯に非通知設定の電話がかかってきた。怪訝に思って電話に出るとすぐに久遠廻音からのものだと分かった。その独特の澄んだような濁ったような声は間違えようがない。
「なんでまたそんなことを知っているのか、なんてことは聞きませんよ。何の御用ですか?」
「前置きがなくて済むのはありがたいですわね。では用件だけお伝えしますわ」
そのタレコミの音源を指定する時間、指定する場所に持ってきてくださいまし。という内容の話を聞いた。だが詳しいことはなにも聞かされなかった。
問いただそうとした、その瞬間に電話を切られたのだ。
「……くそっ!」
なんだこの感じは、おれはマリオネットの如く舞台の上で都合よく踊っているような感覚すら覚えていた。
いいように踊らされている。久遠廻音の収集とやらの都合のいいよう。だが、仕事だからな。早く終わらせるように善処しなくてはならない。
しかしなんだってそんなものを欲しがるのか。音源を取りに行って、物凄く怪訝な顔をされた。当然だろう、すでに犯人は黒鵜さなという方向で捜査は動いているのだから。今更、証拠としては弱すぎるこのタレコミに一体何を期待しているのか。
結果として、タレコミの主が誰なのかが判明した。
それだけであるなら、おれははいそうですかとなるところだ。これが久遠廻音が指定したものでなく、また、あの声を聴いた瞬間、死体のようだった白鷺涼子の様子が激変っした様を見せつけられたりしなければ。
「久遠さん。なんであのタレコミが怪しいと思ったんですか。白鷺涼子がいる場であれを流す必要があったんでしょう。ほかにもいろいろと聞きたいことはありますけど、まずはそれを聞かせていただきたい」
白鷺涼子から、灰崎夢夜という名前を聞き出した後、おれは久遠廻音に問い詰める。かなりの剣幕で問い詰めるが、久遠廻音は顔色一つ変えない。
おれがより強く問い詰めようとすると目の前に真っ白な手のひらを出される。
「そう眉間にしわを寄せないでください。できる範囲で説明をいたしますわ」
にこやかに久遠廻音は微笑む。夜の影に、それが重なり、おれは息を飲んだ。
「そうですわね、まずはなぜ、タレコミを怪しんだかについてですが、これはあくまでの仮設の息を出ませんでしたが、まず、黒鵜さなともみ合いになっている女性と先の死体をどうやって、結びつけて警察にタレコミなどしたのでしょう。警察は被害者の死亡推定時刻を公表しましたが、それはかなり遅い時間ですわ。もし二人を目撃したのが犯行直前というのでしたら、その時間は既に夜は更けていて、遠目に犯行を目撃するのは難しいかと、犯行現場とその周辺は薄暗くなり、明かりも頼りないものですから。信憑性という意味では何とも、そしてもし、明るいうちに二人のもみ合いを見たというのでしたら、そこから犯行までの間に結構な差が出来てしまいます。そんなことを殺害と連想するでしょうか?」
「しかしそれは、そういう思慮の薄い人間もいますし」
「そう、その通り。ですので警察は本来ならこのような信憑性に欠けるタレコミは当てにしません。ですがそれをあてにするということは捜査に進展がなかったということにほかなりません。つまり捜査線上に人が浮かんでいない状態。なにせ、一番近い関係性を持っている白鷺涼子にはアリバイがありましたし、近所づきあいも決して深くはなかった。なんどか一方的に三原さんが娘の話をしていたという話が聞けるぐらいで、ご近所さんサイドからの反応は希薄だというのはすぐにわかります。そうなると行きずりの犯行を疑いますが難航しているということは犯人は証拠をほとんど残していない。もしかしたら死体発見現場には下足痕(げそこん)の類でもあったかもしれませんが。なにせ財布がないといっても漁られた形跡は希薄で、物取りなら落とすであろう証拠が薄い。犯人への手がかりが乏しい状況でいかにも降って湧いてきた情報に、いかにも犯行を犯しても不自然さがない人間。少々、都合がよすぎます。一体だれが、そんなあり難い情報をくれるのかと考えたでしょう?」
確かにそうだ。だが、タレコミは匿名のものでしかも中古の携帯電話からのもので持ち主を特定するのは難しかった。そもそも、捜査陣にとってはタレコミの主それ自体には大きな意味を持ってはいなかったのだ。
「市民がタレコミをするのは何のためでしょう。簡単です、警察に情報を渡してより事件の早期解決の糸口になるようにですわ。実際、このタレコミで捜査方針は一気に固まりましたわ。黒鵜さんという存在が捜査線上に浮上することによって。ですが証拠がなく、立件のために警察は手をこまねいていたのでしょう。そんな時に、わたくしは彼女に出会いました。白鷺さんです。聞けば彼女は黒鵜さんの高校での後輩で被害者の娘に当たる存在だと。わたくしは引っかかりを感じ、黒鵜さなは犯人ではない。という体で、調査を行いましたわ。まあこれは白鷺さんとの縁も大きく関係しておりましたが。その過程でわたくしは灰崎夢夜に出会い、ふと、考えたのです。白鷺涼子さんを中心に考えた時、不思議と関係者の間に関係が生まれたということを。そして白鷺涼子を中心とした関係の中で一番近いのは灰崎さんですから。もしかしてと」
「……無茶苦茶だ。理由になっていない。あまりにも突飛すぎる」
「ええ、だって、今考えた後付けの理由でございますから」
何でもないことのように久遠廻音は言いやがった。
「要するにわたくしは、タレコミの電話怪しいなと思ったから、その相手を知りたがっただけ、そこにたまたま、白鷺さんも居合わせたというだけですわ」
「ば、馬鹿な……」
「理由なんて、あとからくっついてくるものですわよ」
それすらも後付けの理由のような気がした。
この女は最初から全部わかっていて、おれを手のひらの上で転がしているような気さえしている。
「ですが、灰崎夢夜、調べてみる価値はかなりあると、わたくしは思っておりますわ。先ほどの白鷺さんの動揺はいささか、大げさに過ぎるとしてもですが」
「それは、何か理由でもあるんですか?」
「いいえ、わたくしの勘ですわ」
その勘は当たることになる。いや、もしかしたら、久遠廻音は既に確信していたのかもしれない。
5
灰崎夢夜は大人しい女だった。
二十二というには、その容姿は幼く見えた。背丈や体格も決して小柄といっていいだろう。ウェーブのかかった色素の薄い髪を肩口まで伸ばし、とても整った容姿をしている。
もしも、彼女が鈍器を振りかざしたら、ちょうどよく頭部を殴打できるだろうとぼんやり考えた。
「それで、警察の方がわたしにどのようなご用件でしょう?」
知らず、背筋が伸びたような気がした。
せいぜいが17,8にしか見えない容貌でありながら、その所作や落ち着きはどこか老成している。
灰崎夢夜、灰崎良平と灰崎夏葉の一人娘で、5年前の火災でのおりに両親を失い、現在は焼け跡から発見された金庫――そのなかには莫大な額の金銭が入っていたという――の中身と、割合裕福な家柄の祖父母からの遺産で細々と暮らしているという。なるほど、それなりの苦労をしていたのだろう。
「まあ、前置きは好きじゃないんで、とりあえず、これを聞いてください」
タレコミの録音を流した。それを聞く灰崎夢夜の様子を観察したが、特に目立つ動揺はない。
「これが?」
「あー、貴女ですよね。この声って」
「これって、匿名じゃなかったのですか」
痛いところをついてくる。そしてその様子に動揺や作為の類を感じない。
「いや、どうも、そういうことを言っている場合じゃなくなったぁっていうか、その」
飲みますか、と言い灰崎夢夜は紅茶を差し出した。
「いえ、これも仕事ですから」
そういっておれは断った。
「そう、残念だわ」
穏やかに灰崎は言った。口ではそういいつつ、答えは予想していたとおりだったといった感じである。
「で、結局のところどうなんです。この音声は」
「わたしの声ですね」
穏やかに、当たり前のことを当たり前に受け入れるように、灰崎夢夜は肯定した。
捜査線上に灰崎夢夜の名前が挙がった。
そのうえで調べれば調べるほどに、灰崎夢夜の名前は事件の中で大きくなっていく。
三原万葉との接点は増える一方であり、タレコミそれ自体の不自然さもどんどんと大きくなっていく。
調べれば調べるほどに自身が不利になっていくというのに灰崎夢夜は捜査に対して決して積極的ではないにせよ非協力的な態度を示すことはなかった。
その穏やかな様子はどこか虚ろで、穏やかで、うすら寒いものがあった。
まもなく、灰崎夢夜は勝手に自白を始めた。捜査陣、だれもが戸惑う中、戸惑いの中でとんとん拍子で事件は終結に向かう。
犯人が灰崎夢夜であることは確定し、捜査は終了した。
6
思い返せば思い返すほどに、なんとも奇妙な話だ。
「ま、おれから話せることなんて、たかが知れてますがね、こんなもんですよ」
「いえいえ、それなりに参考になりましたわ。感謝いたします」
久遠廻音はそう言って深々と頭を下げた。
「やめてくださいよ、なんだか久遠さんの礼は空恐ろしいものがある」
「あら、それは失礼いたしましたわ」
久遠廻音は表情を変えない。おれの話から一体何を得たのか、定かではないし、なんとなく、おれがそれを知ることはないのだろうと思うのだ。
「なあ久遠さん、灰崎とは別に犯人がいるとかじゃあないんだろ、じゃあ何を一体調べるっていうんだい。あんたは真実を明らかにしたいだとか、そういったことを思うタイプじゃないと、おれは見ているんだがね」
街灯が点滅する。暗闇が現れては消え現れては消え。
「さあ、わたくしはただ、収集するだけですから」
久遠は答えた。いつだって、その答えが返ってくる。そのことはわかっていた。
だから、おれはもう片方にきく。
「嬢ちゃん。あんたはどうなんだ。何を求めている」
白鷺涼子はおれに視線を向けた。その表情(カオ)は三原万葉の死体を見た時の死人みたいに覇気のないモノでも、灰崎が犯人である可能性とおれの詰問を同時に受けた時の今にも泣き崩れてしまいそうな子供の顔でもなかった。
だが決して前向きなものだけでもないような気がする。
こいつも、一筋縄ではいかない性質(たち)なのかもしれない。
「私は、知りたいんです。たとえ後悔することになっても、知らなきゃいけないって、そう思うから」
「知りたいって、何をだよ」
「夢夜のことを、少しでももっと」
街灯は少女を眩しく照らす。
「そうかい」
おれは答えた。
「じゃあ、あとは好きにしろ。けど、おれの損があるようにはするなよ」
おれは空になった缶をポケットにしまい込んで踵を返した。
闇の中で街灯が揺れていた
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