久遠廻音さんの収集
葉桜冷
第1話 白鷺涼子、と久遠廻音さん
燃える屋敷の中にいる。
わたしは、泣いている彼女を見ていた。
炎は油と、燃える燃える。
宵闇が燃え尽きていくような甘い甘い夢の箱。
ああ、もし、わたしが―――。
プロローグ
母親が死んだと警察から連絡があった。殺されたらしい。
そうですか、とだけ答えて私は家を出た。
身元の確認のためである。
戸籍上の私の母親とされている人とはもう2年近くもあってはいないが、あの人の身内と呼べる人間は私だけだった。
ほとんど赤の他人といってもいいような人だったけれど、だからといってほったらかしにしておくのはどこか気が引けた。
私の母親とされる人――三原(みはら)万葉(かずは)の死体は今、隣町の警察署にあるという。
私は今日の学校を休む旨を担任教師に連絡した。
生真面目な新人国語教師は私のことをひどく心配していたが、私はどこか他人事で上の空。なんだか曖昧な返事を返していたような気がする。
身支度を簡単に整えると、アパートを出る。安くも高くもないアパートに一人暮らしなのだ。
指先に息を吹きかけると白くかすんだ。
隣町に向かって、自転車を走らせる。
すぐ傍らに川が流れている道を行く。川の流れに沿うように走っていく。
さび付いた自転車は乾いた空気の中でカラカラと音を立てていた。
警察署について入り口で三原万葉の名前を出すとすぐに刑事らしい男性が二人、現れた。
細身で肌の荒れが激しい人と、太くて眼鏡をかけた人だった。
「白鷺(しらさぎ)涼子(りょうこ)さんですか?」
太い眼鏡のほうが聞いてきた。彼のほうが階級は上のようだ。
私は、はいと答えた。
彼らはそれぞれに細田と太川だと自己紹介をした。なんだかそのまんまだと思った。
こちらです。二人は私を案内した。
警察署の中、冷たい廊下のリノリウムの上をコツコツ、淡々と歩いた。
どうぞ。
廊下の突き当り、二人の警官が大きくも小さくもない扉を開いた。
冷気が頬を撫でて、思わず自分の体を抱きしめた。
目の前の寝台はなんだか滑稽な儀式のように見えた。
細田が、顔にかかっていた布を取る。側頭部を殴打されているため、その部分には覆いがしてある。でも直接の死因は転落によるものらしい。そんな言葉が耳から入って零れ落ちていく。
化粧をした彼女の顔は義務教育終了と同時に縁を切った時で時間が止まっていたかのように記憶のままだった。
誰かに殺されただなんてとても信じられないほどに。
「三原万葉で間違いないと思います」
私は答えた。
自分でも驚くほどに声が震えていなくて、そのことがひどく自己嫌悪を誘発した。
目の前で浅からぬ縁がある人が死んでいるのになにも感慨がない自分のことをこの霊安室の空気のように感じてしまう。
死を纏っているような、冬の海辺のような、冷たさと静かさに満ちている。
「早く、出ましょう」
私の口からそんな言葉がこぼれた。
自然と零れた言葉だった。
「……母とはもう2年もあっていません。苗字が違うことからわかる通り、ほとんど他人みたいな関係でした。確かに昨夜のアリバイはありませんが、同時に殺害動機もありません」
「なるほど、では白鷺さんは心当たりがありませんか、三原さんが誰かに恨まれたりなどは?」
「ありません。……ごめんなさい、全然、捜査の手助けになれなくて」
「いえ、白鷺さんは捜査に協力的で助かりますよ。普通ならもっと大げさに取り乱したりしますからね。まあ、今日は何です。詳しい話は後日、ゆっくり聞かせていただきますから。お帰りいただいても結構ですよ。ご安心を、犯人は必ず逮捕します」
太川刑事はずっと愛想笑いをうかべていた。
その眼の奥に鋭く射貫く疑惑の鏃が痛くて、私は目を背けた。
「では、これで」
私は逃げるように、警察署を後にした。重たい泥が胸の内にたまっているような不快感が残っている。
「きゃ」
俯いて小走りだったからか、誰かとぶつかった。
「あら」
倒れこみそうになるのをぶつかった誰かに受け止められる。
相手の右手が滑りこむように私の背中を支えた。
踊っているかのような流麗な動作に驚いて体がこわばる。
「貴女、お怪我はありませんか?」
鈴のような声だった。けれどそれは軽やかな音色であれどもどこか、しん。とした薄氷を連想させるような冷たさがある声だった。
倒れそうになったときに瞑った目を開く。
目と目が合う。
すべてを見透かすようでいて何も見ていない猫のような金色の瞳。
黒いモノを塗りつぶす雪のような白い肌。
異彩を放つ、波打ったピンク色の肩ほどまで伸びた髪の毛。
ゴシックともロリータともつかないフリルの多い、全体的にピンクな服装をしている、現実感のないひとだった。
「あら、いかがいたしましたか? ぼう、っとしたご様子で」
「……え?」
彼女は私の体勢をごく自然に整えつつ妙な言い回しの言葉を連ねる。
「申し訳ありません。わたくし、不注意から貴女様にぶつかってしましましたわ」
「い、いえ。私が前を見ないで歩いていただけで、謝るのは私にほうで、その、ごめんなさい……」
「あらあら、謝ったら謝り返されてしまいましたわね」
彼女は軽やかに微笑むかのような表情を作った。
「では、今回は両成敗ということで手打ちにいたしましょう」
彼女は目を細め提案した。そうすることが最適だからというような穏やかさだった。
私はなんだかよくわからない、煮え切らない返事をしたような気がする。
だというのに彼女はそれが肯定であると的確に受け取り、ありがとうございます。と私に言った。
「不思議ですわね、わたくし、なんだか貴女とはすぐに再会できるような気がしますわ。ええ、そんな感じがします、貴女からは」
彼女はそんなおかしなことをいってその場からどこかへと姿を消した。
おかしな人がいるなと、他人事として私はその時に思った。
だが実際のところその予感は的中することになる。
そして、この一連の事件に明確な起点があるとするならば、やはり私はこの瞬間だったのだと思うのだ。
5年前の悲劇でも、あの人があの人でなくなった瞬間でもなく。
私、白鷺涼子とこの不思議な人、久遠(くおん)廻音(めぐりね)との出会いの瞬間であると。
第1章 白鷺涼子、と久遠廻音さん
1
三原万葉の死体が上がってから、一日が立った。
昨日の昼から半日以上たったことになる。
目が覚めて、まず学校に行ける気力があるかを確認する。
普通に起き上がって、カーテンを開けた。
古びた電線が幾重にも窓から見え、朝日はすぐ隣のアパートの影になって差し込まない。
いつもよりも早く起きてしまったが、心身に大きな不調はないようだった。
布団をそのままにして、古びた冷蔵庫から賞味期限の近い牛乳を取り出し、飲み干す。
一息に飲んで、大きく息を吐いた。悪夢から現実に立ち返るために儀式。
いつだって、あの夢を見ている。
大きなお屋敷。誰も住んでいないような幽霊屋敷に、いろいろなものが焼けていく。
詳細を思い出すことはできなくても、ひとの焼けるにおいを、肌にさらされる熱風を、誰かの絶望の叫びを忘れることはできていない。
顔面に冷水を叩きつける。鏡には冷たく濡れた私がいる。
長い黒髪と血色の悪い肌、黒いがらんどうの洞のような瞳。
能面のように私は私を見つめていた。
ああ、時間だ。
散らかった部屋から制服を取り出して着る。
ふと、どこかでアラームの音が聞こえた。確かこれは私の携帯のものだったような。
散らばった服の中からガラケーを取り出す。
『夢夜』と画面に文字が写っている。
「もしもし」
『もしもし、涼子? よかった、きちんとつながって。調子はどう? 大丈夫?』
「うん、大丈夫です。灰崎さんも、もう知ってるんですか……その、母のこと」
『ええ、もう知ってるわ。その、なんといっていいか……』
「いいんです。私、そこまで凹んでないんです。その、変ですよね」
『ううん、変じゃないわよ。涼子、もうずいぶんとあの人とは会っていないんでしょう? それに、いい思い出も少なかったし。それが普通よ』
「そう、でしょうか……」
『そうよ、だから気負わないで。貴女にとって負担になるような人のことは、どうかすぐに忘れて頂戴』
「……、そう、ですかね……」
『ええ、きっとそうよ。もしなにか、面倒なことに巻き込まれそうになったり、警察に追及されそうになったら、わたしのところまできて、必ず、貴女にとって悪いようにはしないから、ね?』
「うん。ありがとう。やっぱり灰崎さんは頼りになる……」
電話の向こうで灰崎(はいざき)夢(む)夜(や)が控えめに頷いているのが見えたような気がした。
その様子を思いながら、少しだけあたたかい気持ちになる。
5年前、私の住んでいた町の大きな古い幽霊屋敷で火事が起きた。
その時、屋敷にいた生き残りは私と灰崎夢夜の二人だけ。
以来、私にとって6つくらい年上の彼女は姉のような存在だった。
三原万葉とうまくいっていなかった私に高校に行かせてくれるだけの援助そしてくれた。灰崎家にはそれだけの遺産があり、彼女はそれを相続したのだ。
それ以外にも、何かと世話を焼いてくれた。
私にとって実の姉以上に姉のような人だ。
5年より前の記憶は曖昧だけれど、いつだって頼りになる。いつだってよくしてくれている、そんな人。
彼女と話して少しだけ体が楽になった。
つぶれた靴を履いて、学校に行く。
2
住んでいるアパートから徒歩30分圏内に私の通っている公立高校はある。
現在、私は16歳。1年生だ。
校門の前で、不意に声をかけられた。
「よ、白鷺ちゃん」
「……おはようございます」
「うんうん、今日もアンニュイ美人で何より、いつもの白鷺ちゃんだ」
ケラケラと彼女は笑う。中途半端に染めたプリンの髪。私より10cmは高い、175はある高身長に校則ギリギリを攻める化粧をしている。ぱっちりとした二重にかかるシャドーがなんとなく特徴的な印象。
黒鵜(くろう)センパイは、いつもの陽気な笑顔と軽い挨拶を私に向けた。
彼女はこの高校の新聞同好会の長だ。ちなみに部員はセンパイと私の二人だけ。
「……センパイ、あの、昨日休んでしまってすいません」
「ん? あー、休んでたの? 問題ない問題ない。アタシも学校さぼってたから。実を言うと同好会活動がなかった一昨日もさぼってたし」
こういうことをさらりと言う人である。
「じゃーねー」
そうして何をするでもなく、そのまま私の傍を素通りして学校の中に消えていった。
「騒がしいひと……」
そんなにさぼって一体何をしていたんだろう……。いつも何かしらやらかしているらしいし、多分なにをしていても驚かいない自信がある。
悪名高い雑誌記者の父を持つ黒鵜センパイは血筋なのか大変な野次馬根性の持ち主で、よくいろいろな面倒ごとに首を突っ込んでは騒動を引き起こしていたりする。
とはいえ、さすがにあんなことになると驚くものがあった。
3
退屈な授業が終わって放課後になった。
どこか遠くで聞こえるサイレンの音が聞こえる。
今日は同好会の活動があるだろうと、私は校舎のはずれの教師ですら知らないものがいるといわれる小さな教室に向かった。
毎週、特定の曜日に同好会活動は行われる。
部活動全員参加を謳っているこの高校では必ず何かしらの部活動ないし同好会に所属しなくてはいけない。そのうえで、基本的に一週間に一回は活動に参加しなければいけない。
ちなみに私が新聞同好会に入ったのは部活動必須の中、なかなか自分でも溶け込めるような部活動を探していたけど、見つからなかった頃にいろいろあって顔見知りになった黒鵜センパイに誘われた故のこと。
活動しなくてもばれない抜け道というものは存在しているけど……。特に用事があるわけでも、大変な活動というわけでもないし、とかなんとか理由をつけてなんとなく、さぼれていない。
それはそのほうがいいとは思うけれど、なんとなく自分のこういう気質は損になっているような気がすることもある。
「うん、まあ。アタシからしたら割と損だなとも思うよ、白鷺(しらさぎ)ちゃんのそういう、不器用なとこ。でもまあ、いいんじゃない? そういう真面目さは美徳だと思うし、白鷺ちゃんのいいところだとも思うよ」
黒鵜センパイは私のほうを見ないで言った。彼女はしきりに今日の朝刊を読んでいる。何かを目当ての記事でも探しているかのようだった。
まあでもセンパイのこういうところは割とよく見る光景でもあるし、私も気にしないようにしていた時、不意に校内放送が鳴った。
『二年の黒鵜さん。黒鵜さなさん。大至急、職員室まで来るように、大至急です!』
教頭のアナウンスだった。それもひどく慌てた様子だった。
黒鵜センパイは朝刊を畳んで床に放り投げた。
「……センパイ、また何かしたんですか?」
「んー、なんだろうね? ああもただならぬ感じのことはした覚えはないんだけど……とりあえず行ってくるよ」
そういって黒鵜センパイは部室を出て職員室に向かった。
そのまま黒鵜センパイは警察に連れていかれた。
4
その夜、私は警察に調書を受けていた。
黒鵜センパイについて色々と聞かれた。
「いえね、死亡推定時刻の前に被害者と二人が会っていたという目撃情報があるんですよ。まあ任意同行だから、まだそんな心配するような段階ではないですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、しかも……あー、まあ言ってもいいかな? 三原万葉さんが発見されたとき、何も持っていなかったんですよ。漁られた形跡はないんですけど。まあ物取りの犯行なんだと思われていて、まあ、なんです……」
太川刑事は言葉を濁す。私が被害者遺族だからか同情的だった。
三原万葉の死因は側頭部を殴打されたあとに、橋から転落し、首を折ったというものだったらしい。
「その、三原万葉さんと黒鵜さなさんは、本当になにか関係やら因縁やらは、なかったんですかい?」
「私の知る限りでは、……はい。ありません。あの二人が顔見知りだったなんて聞いたこともありません」
俯いて答えた。太川は困ったように頭を掻いた。
「あの、センパイ……いえ、黒鵜さんは……」
「ああ、まあ、重要参考人っていうか、ぶっちゃけ今一番黒に近い人ではありますが……なに、警察もそこまでせっかちじゃあないですよ。これから、いろいろと捜査のメスが入ります。もし本当に彼女がやっていないんだっていうなら、必ず解放されます。現状、確実な物的証拠って呼べるほどのものは揃っていませんから」
太川はそう言って、もう帰っても大丈夫ですよ。と締めくくった。
私は会釈をして太川のもとから立ち去った。
暗い夜道を歩く。吐息を零すと白く濁る。
もう秋が終わるのだ。
あ、
「センパイに挨拶、したほうがよかったかな」
5
一週間ほどして、黒鵜センパイは戻ってきた。
「でも困ったことに疑いが晴れたわけじゃあ全然ないんだよ。まだ証拠が出そろっていないってだけ。あれだね、警察は完全にアタシのことをクロだと思ってるよ。やー、困った困った。終始見張りがついているしね」
あんまり困ってなさそうなトーンでセンパイはやたらにドロドロしたイチゴオレをすすった。
「……どうして、釈放されたんですか」
「警察はね、アタシを調べたんだけど、三原万葉に関する証拠を見つけることはできなかった。当たり前だよね、アタシが殺人や物取りなんかするはずないし」
聞いてもいないのにセンパイはべらべらとよく事件のことを話した。
三原万葉の死体が河川敷の撲殺体で発見されたこと。
死因は側頭部を殴打されたことによって、橋から転落、頚部骨折によるもの。
死亡推定時刻は11月27日(ちょうど一週間前)の20時前後であることなど、よくもま警察の事情聴取から逆にここまで聞き出したものだと思う。腐っても名うての雑誌記者の娘というかなんというか。
だが同時に被害者の三原万葉と私の関係には気づいていなかったのは幸いだった。このことを彼女が知ったら、まず間違いなく面倒なことになるという確信があるから。
どのみちセンパイが三原万葉と会っていた理由について、隠す気満々なのでお互い様だと思いつつ。
「でさ、この三原万葉ってのが実に面倒な女でね、なかなかに孤独な女だったらしい。性格もねじ曲がっていたとも聞く。肉親とすらまともに交流がなかったらしい。アタシと会っていたっていう匿名のタレコミでしか、あの女の足取りがつかめないんだとさ、ま、まいっちゃったよね」
「はあ」
私は生返事をする。白い息がこぼれた。風が制服の隙間に入り込んで冷たい。
「そんなことより、どうして私も付き合わされるんですかセンパイ?」
「ん? そこにいたから」
そんな山みたいな。
私はセンパイに連れられて殺害現場に来ていた。限りなくまっくろくろすけなセンパイはその容疑を自分で晴らすしかないと勇んで飛び出したのだ。
いや、多分、口ではこう言っていてもセンパイは究極、自身の潔白はどうでもよくて、本当はこの事件の真相をすっぱ抜きたいのだろうと思う。
よくセンパイに振り回される私に拒否権はあんまりなかったし、そこから変な詮索はされたくなかった。
川辺から上流に向かって視線を移す。
河川敷で真上に橋が架かっていた。あそこで殴られて落ちたらしい。橋から現場までの高さは足から落ちたら助かるけど、頭から落ちたら確かに死亡するかもといった感じだ。
「現場百遍って言葉知ってる? 基本的には警察が使う言葉で捜査の鉄則なんだけど、これは記者にも当てはまってね……」
はいはい、そうですか。
私はテキトーな返事をしてセンパイの言を聞き流す。彼女が興味あるのは自分の興味だけで私は独りごとの相手でしかない。
センパイは草の根をかき分けて死体があったらしい場所を嘗め回すように調べている。すでに警察は現場検証を終えて撤退した後だから何もないとは思うのだけれど。
対する私は灰色の空の下でぼうっと虚空を見ていた。
黒鵜センパイに振り回されることは多いので自然と虚無ることが出来るようになっていた……というのは冗談。本当だけど。
ただ何となく虚しいものを感じている。
それは枯れた草木のような虚しさだった。
ここで、たとえ一時のこととはいえ母と呼んだことのある人間が死んだというのはなんだか現実感がない。
現実感はないくせに厭なしこりが胸に残るようなどんより(・・・・)さがある。
河川敷で空を見上げると視界を狭める橋と腹曇りの空がある。雲の切れ間なんてみえないくらいに分厚い灰色だ。
停滞そのものみたいに風のない空では雲が動かない。
――不意に視線を感じる。
さっきまで吹いていなかったはずの風が吹いて髪がなびいた。
視線の主を探した。
河川敷の上で彼女は私を見据えていた。
あの瞳には覚えがあった。
すべてを見透かすようでいて何も見ていない猫のような金色の瞳。
その瞳と視線が交わる。
ピンク色の髪が風に関係なく揺れる。
彼女は穏やかに微笑んでいた。
「あら、これは奇遇ですわね。いかがいたしましたの、このようなところで」
鈴のような軽やかでどこか冷たい声が風に吹かれて私に届く。
脳の奥底からしびれてしまったかのように私は動けなくなっていた。
彼女はゆっくりと河川敷を降りてくる。
すごく肌が白いなとそんなことを不意に思ってしまう。
――ああ、何か……。挨拶をしないと……。
私は張り付いた喉を動かそうとして――
「あれ! 久遠さんじゃないですかー! どうしたんですかー! こんなところでー!」
「げ」
センパイがこっちに気づいて大声で叫びかかってきた。
6
「改めまして、わたくし、久遠(くおん)廻音(めぐりね)と申します」
「ど、どうも、……白鷺、涼子です」
河川敷からほど近い喫茶店――名前を「喫茶toroimerai(トロイメライ)」という――で彼女――久遠さんはそう挨拶をした。
私は注文したミルクティーを口につけた。甘くて苦い白く濁ったあたたかさを口の中に広げて舌を濡らす。
「……その、久遠さんはセンパイのご知り合い……なんですか?」
「そうそう、ご知り合いも何もなにかと縁がある人でね、なぁんだったら親友まであるかもだし」
「黒鵜さん、今のはわたくしに聞かれたのではありませんか?」
んー、そうでしたっけー、でもいいじゃないですか。事実ですしー、とかなんとか言いながらセンパイはアメリカンコーヒーをすする。
久遠さんはやれやれと言わんばかりの困った顔で私を見た。
「黒鵜さんのおっしゃったことはいささか語弊がありますが、腐れ縁というのはその通りです。職業柄、彼女が首を突っ込むところにいることが多いので」
久遠さんは流れるように答えた。彼女は何も注文していないので何も口に入れてはいない。
「職業柄、ですか?」
「ええ」
彼女はとても穏やかに首肯した。私はもう一度ミルクティーを口に含む。いつの間にか甘くて暖かい飲み物は冷めていた。
「少し変わった仕事を生業としております。ところで、どうしてお二人はあんなところに、お二人の制服から推測するに近所とはいいがたい場所かと思うのですが」
「あー、それはですね」
黒鵜センパイによるかくかくしかじか。
久遠さんはそれを微動だにせず聞いている。なんだかその様子が不気味に見えるのは、なぜなのだろうか。
「なるほど、そうでしたか」
センパイが逮捕されてからのいきさつを一通り久遠さんは聞き終えた。
す、と久遠さんは私に視線を向けた。
金色の瞳が私を映す。その瞳は凡てを映す高級な鏡のようで私はつい目をそらした。
それで何かを理解したのか、久遠さんは私から視線を移した。
「では、要約すると黒鵜さんが三原万葉さん殺しの容疑者筆頭になっているのでその容疑を晴らしたい。自身の潔白を証明するためにこの事件を調べようと考え、とりあえず現場に向かってみたと、そういうことですね」
「そうそう、さっすが久遠さん、話が早い! よっ、名探偵」
「そんな大層なものではありませんわよ」
何でもないっことのように久遠さんは流した。センパイの扱いに慣れているにか、それとももとからこういう受け流しがうまい人なのか。
ともかく二人は会話を続ける。
「では一つ聞きますが、本当に犯人は黒鵜さんではないのですね?」
「うん、違うよ」
「かしこまりました。ですが、違うというのなら事件当夜、どうしてあなたが三原万葉と会っていたのか、何を話したかなどの情報が欲しいものですが」
「いくら自分のためでもそこまでの情報(ネタ)は明かせないよ。これでもジャーナリストの端くれを名乗ってるしね」
「そうですか。では、この場合、黒鵜さんの潔白を証明するのは、アリバイや同期の有無などから探すよりも、手っ取り早く真犯人を探すほうがよろしいですわね」
「あ、やっぱりそうなる? だよね、アタシ自身が限りなくグレーなら、より明白な黒をあげるのが手っ取り早いよ。アタシもよくやる手だし」
「はい。これで目標が明確になりましたわ。三原万葉さんを殺害された方を探すこと、それが黒鵜さんのすることです」
なんだかとんとん拍子で話が進んでいく。私は目を白黒させながら、どうにか二人のやり取りを把握する。
ミルクティーを飲もうとしてとっくに空になっていることに気づいた。
「でも正直行き詰っているんですよねー。三原万葉ってびっくりするぐらい交友関係がなくて」
「それでしたら」
久遠さんはちらりと私を見る。それは私の反応を見ようとしているかのようだった。
「三原万葉には一人娘がいるそうですわ」
「へぇ、確かに肉親がいるっていうことは知ってたけど、それが娘だったとは知らなかったわ。久遠さん、どこでそんな情報を?」
「それはもちろん企業秘密ですわ」
久遠廻音は細く白い指先を艶のある唇に当てた。
「そこから当たってみればよろしいのではありませんか?」
そう提案する。黒鵜センパイは一も二もなく喫茶店から飛び出していった。調査に向かったのだろう。糸口があれば走り出さずにはいられない人だ。
会計もしないで出ていった黒鵜センパイを見送った。
それから久遠さんは視線を外から内の――私へと明確に向けた。
「さて、ようやく本題に入れますわ」
「本題……ですか……?」
「ええ。わたくし、本当は貴女とお話がしてみたかったんですの」
そういって久遠さんは穏やかに微笑んだ。作り物みたいに綺麗だった。
7
「わたくし、死の収集というものを生業(なりわい)としております」
「……は? 死の……収集……ですか?」
「ええ、ですが複雑に考えないでくださいまし。人はみなどこかで亡くなります。それにまつわるエトセトラを調べるのがわたくしの生業なのです。現在は三原万葉さんに関する死について調べております」
「は、はぁ……」
何を言っているのか、今一つぴんと来ない。けど久遠さんは「死の収集」だなんて素っ頓狂なワードに対し、これ以上の説明をしてはくれなかった。必要ではないことらしい。
探偵の、しゃれた言い方、なのかな……?
でもそんな人が一体、私に何の用なのだろうか。
「単刀直入に申します。わたくしは、三原万葉さんの死にほぼ確実に貴女――白鷺涼子さんが関わっていると思っております。ええ、貴女と三原万葉さんとの関係を考えると少なからず考ええる線であると思われます。それでも貴女が警察からマークされていないのは、事件当夜、貴女は町の役所にいてとある手続きをしていたことが証明されているからです」
「ま、待ってください……! まるで、私が犯人みたいな言い方……、私、あの人とはもう2年近く会っていません!」
たまらず私は言った。空になったティーカップを見つめると、そこには不安定な幾何学模様がこびりついている。
ふふ、と久遠さんが微かな笑みを浮かべた様子に変化した。
おずおずと視線をあげると、久遠さんは変わらない微笑を讃えている。
「落ち着いてください。わたくしは何もあなたが犯人だなんて申しておりません。もしもそのように誤解なさってしまったならば、わたくしの不徳の致すところですわ」
「え、いえ、そんな……」
「わたくしも貴女が彼女を殺害したとは思っておりません。アリバイはありますし、動機がない。怨恨を貴女が抱いているわけではないのはわかりますから。そもそも、この事件の真相自体はそう難しいモノでも複雑なものでもないと思われます。わたくしや黒鵜さんがどうこうしなくても真犯人はすぐに上がるでしょう」
あっさりと彼女は答える。
そのこと自体にはなんだか驚きがなかった。なんとなく、すんなり納得できるというか。
「納得はできる、けど何かが引っかかっている。違いますか?」
久遠さんは見透かしたように問いかける。
私は息を飲む。この人にはなんだか自分のすべてが見透かされているようでどうにも平静でいられない。
「恐らく、もう数週間もすれば警察は真犯人をあげるでしょう。そしてそのまま、ごくありふれた殺人事件として処理される。それが一番いいことは貴女自身がわかっているのでしょう。けれど、貴女の中に納得できないものがある」
「……」
勝手に人の心を定義しないでほしいと、普通なら言うところだった。けれど、久遠さんの言ったことは真実だった。
私の心のうちに魚の小骨のように引っかかるものがある。
「わたくし、こう見えて読心術に長けていますの。もしてきとうなことを言われたと憤るのでしたら、構いませんわ」
「……いえ、本当のことです。すごいですね久遠さん。ただものじゃないとは以前、警察で会った時から思っていましたけど」
「あら。覚えていてくださったんですか。嬉しいですわね」
当然の如く、久遠さんは覚えていた。もしかしたら、あの瞬間から私に目をつけていたのではないだろうかとさえ思えてくる。
「では話を戻しましょう。わたくしが先ほど黒鵜さんに伝えたことについてです」
「……三原万葉の一人娘、についてですか……?」
「はい。なんのことはありません。三原さんが住んでいたアパートで住人の方がおっしゃていたのです。最近になって、一人娘がいるのだと吹聴していたそうですよ」
「でも、三原万葉に親しい人間はいなかったって……」
「ええ、親しい人間はいませんでした。ですからそうですね、手厳しい言い方をしてしまうと、独りよがりに言いふらしていたそうですよ。相手は誰でもよかったのでしょう」
な、なるほど。確かにそう聞くと、私の知っている三原万葉の印象に合致する。
……いや、軽率なことを思ったけど、実際のところどうなのだろう。
私は『母(・)』と呼ぶべきだった、あの人のことを知っているといえるのだろうか。
……それ以上に、私は……。
「久遠さん、私、五年より前の記憶が曖昧なんです」
思い切って打ち明けてみた。なんとなく、この話を切り出すのが自然なことのように思えたのだ。
「なるほど、そうでしたか」
久遠さんはすんなりと、その事実を受け入れた。
「……驚かないんですか?」
「ええ。5年前というと貴女がまだ10歳そこそこになっていないくらいの頃ですか?」
「そうです。ですから、その……私と三原万葉は、……」
「貴女と彼女の関係は知っていますわ。これでもその程度の調べはしているのですよ。その上で、もう一つ面白い情報を貴女に、三原さんは一人娘がいると吹聴し始めたのは彼女の死の1週間前からです。そして同時に彼女はこうも言っていたそうです」
曰く、
彼女にはその一人娘関連で会う予定の人物がいたと。
「貴女のことでは、ないようですわね」
私は頷いた。三原万葉の死を確認するまで、彼女とはほとんど連絡を取っていなかったからだ。当然、会う予定なんてなかった。
「なるほど、やはりそうでしたか」
久遠さんは表情を変えない、なおも穏やかな微笑を讃えたままだ。
「白鷺さん、いささか思い詰めている様子ですが、大丈夫ですか?」
久遠さんが私の名を呼んだ。実に淡々としていた。
「大丈夫、です……。少し混乱しているだけで。その、ちょっと考えを整理する時間をくれませんか?」
「構いません。いくらでもお待ちしておりますわ。そうです、おかわりのミルクティーを注文しておきましょうか?」
「お願いします……」
久遠さんはミルクティーを注文し、私は天を仰いだ。
ぐちゃぐちゃになった頭を整理しなくてはいけなかった。
8
私の最初の記憶は、燃え盛るお屋敷だ。町にある古い幽霊屋敷だったらしい。それ以上のことは覚えていないし、知ろうとも思わなかった。あの日、何が起きたのか、どうして私はあの場にいたのか。そんなことすらも。
ただ大きな火事に巻き込まれて、熱くて、苦しくて、死にそうだったことは覚えている。今でも夢に見てしまう。
次の記憶は病院だった。
体中に包帯を巻かれて、天井を見上げていた。あの火事の跡地からは私ともう一人――灰(はい)崎(ざき)夢(む)夜(や)だけが助かったらしい。灰崎さんのほうが火傷が深かったらしい。
火事の後で最初にあったのが三原万葉だ。
顔も覚えていない、お医者様が『お母さんだよ』と私の前に連れてきた。
その時の様子は記憶の中でもやたらノイズがかかっていて覚えていない。母と呼ぶべきあの人が何かを言っていたような気がする。
『――どうして、あんたが×××××――』
それから、中学卒業まで一応、あの人と暮らしていた。
けれど、その間に会話らしい会話はなかった。
私があの人を避けていたのか、あの人が私を避けていたのか。
同じ屋根の下で暮らしていながら、結局、私たちは他人だったのだ。
中学の手続きも高校入試の手続きも、灰崎さんがやってくれていたのだ。
高校に入ってから、一人暮らしを始めた。会話のないあの家にいたくなかったのだ。
家を出るときも挨拶の一つもなかった。
彼女が私を娘と思っていたとは私には思えなかった。どうしても。
そんな三原万葉が死の一週間前から、自分の娘を吹聴していたという。そして、その関連で会う予定だった人物。
多分その相手は私じゃない……と思う。それぐらいはわかる。あの人はきっと私のことが好きじゃないから。
ほとんど近所の人間くらいしか交流関係がなかった彼女が殺されるいわれがあるとすれば、その謎の娘についてだろうというのは私にもわかる。
じゃあ、やっぱりその相手って黒鵜センパイなのではないのだろうか……?
と、まあそんな感じのことをぼちぼち久遠さんに告げる。
「なるほど。白鷺さんの謎に満ちた半生については凡そ理解しましたわ。三原さん殺害に関することも。とりあえず、真相を追うのでしたら、三原さんが合う予定だったという人物がキーになることは確実でしょう。わたくしはわたくしで彼女の死についての収集を行いますが、貴女はいかがいたしますか?」
「私、ですか……?」
金色の瞳が私を見据える。そのまなざしは優しいが生半な回答は赦されないという畏怖のようななにかがあった。
少し戸惑う自分と、同時に既に答えを出していた自分が同居しているような妙な感じがした。
「私は――」
答えがするりと出てくる。
「私も、連れて行ってください。きっと、これを機に私は自分を知らないといけない、そんな気がするんです」
それに、センパイにはちょっとした恩があるんですよ。とついでに付け加えて。
久遠さんはまるで私がそう答えるのがわかっていたみたいに微笑んで、了承した。
9
喫茶店を出ると既に外は黒く染まっている。
いつの間にか時間が随分と経っていたらしい、全然気づかなかった。
肌寒い木枯(こが)らしが吹いて着こんだ体を抱く。
「時刻は19時、いささか早いですが、もう一度行ってみましょう」
店から出てすぐ、久遠さんは不意にそういってきた。
「行くってどこにです?」
「現場です。遺体発見現場。三原さんの死亡推定時刻は20時前後です。時間帯的にはまだ早いですが、状況は変わらないでしょう。すぐ近くです、もう一度行ってみませんか?」
「は、はあ……」
「では行きましょう」
久遠さんは言うだけ言うとすたすたと歩きだした。
フリルが多く、けれどこざっぱりとした服装でよくあんな軽やかに歩けるものである。
「暗いですね」
「ええ、えてして夜の川辺は明かりに乏しく暗いものです。まして、ここは市外からは少し遠いですからね。ここで殺害が起こったとして、だれも目撃することはできません。夜目を効かせて近距離に至って、初めてモノを認識できる。おそらく実行に至った橋の上でもそれは変わりません」
久遠さんは小さな明かりが所在なさげに揺れているのを見つめる。
犯人はあの橋の上で三原万葉の側頭部を殴打し、突き落としたのだ。
だが、それを傍(はた)から目撃することは不可能だろう。暗すぎる。
「ですが、それがなんだっていうんですか久遠さん?」
「つまり、目撃証言が指していたのはここではないということですわ」
目撃証言?
あ、そういえば三原万葉の死亡推定時刻の前に黒鵜センパイらしき人と三原万葉があっていたっていう目撃証言があったんだっけ。
……なんだかますます黒鵜センパイが犯人なんじゃないかと思えてくる。
「あのタレコミの電話はいったいどこで二人があっていたことを言っていたのか。そして一体だれがそんな情報を送ってきたのか、等々、気になるところが多数ありますわね。ですが」
久遠さんは踵を返す。
私のほうに振り返った。
「まずは黒鵜さんが全く語ろうとしない事件当日の彼女の足取り、素子て本当にあっていたのか、そしてそれは何のために等、潰せるところから潰していくべきですわ」
「でも、黒鵜センパイ、それについては黙して語らずといった感じでしたけど……」
「ええ、そうですわね。お父様の影響か、彼女はジャーナリストの端くれを気取りたがる困ったちゃんですから」
辛辣ぅ。でも真実ぅ。
「ですが、それはあくまでも黒鵜さんの都合です。わたくしたちがそれに無理に従う必要はないと、そうは思いませんか。そもそも自分で蒔いた種ですし」
「……そうですね!」
私は勢いよく頷いた。
ちょっと悪い気はするけど、全くもってその通りである。
10
いつもと同じ夢を見る、
赤いユメだ。
燃えている屋敷の中で私は泣いている。
私を抱きしめる―――。
そのぬくもりは、
目が覚める。いつもと違う吐息がこぼれた。
私の知らない夢の続きだった。
いつも私が見る夢は世界が燃えているだけだったのに。
重たい身体を持ち上げて、着替える。
今日は学校があるわけではないので髪型はある程度てきとうに。ちょっとずぼらだと自分でも思う。
顔を洗うと夢のことは忘れてしまった。
支度を雑にして玄関から出ると
「おはようございます。いえ、もう11時ですから、こんにちは。というべきでしょうか?」
久遠廻音さんが当然のように玄関前にいた。
「ど、どうして、ここに……?」
「あら、いやですわ。昨日、黒鵜さんの足取りを追うことになったではありませんか? お忘れですか?」
憶えている。明日(すなわち今日だ)黒鵜センパイの足取りを探すことを久遠さんと約束したんだっけ。
「い、いえ、……憶えてますけど、どうしてここに」
「迎えに来ましたわ。白鷺さん、待ち合わせ場所も時刻も決めないで帰ってしまったので」
「あっ、」
うっかりしていた。どうして忘れていたんだろう、そんな大事なこと。
まるでそんなこと決めたくないみたいに。
「……ご、ごめんなさい……私、なんとお詫びしていいか……」
「構いませんわ。わたくしも今来たところですから」
「で、でも……」
「白鷺さん」
久遠さんは、パチン、と綺麗にウインクをした。
「白鷺さんは人に対し常に何らかの申し訳なさを抱えている節がありますわ」
「……はい?」
「それ自体は時に美徳となるでしょう。遠慮は大事ですから。ですが、その特性は時に足踏みしたまま動き出せない要因となりますわ」
穏やかに諭すように久遠さんは告げる。
なぜだか、その言葉はすとんと自分の中に落ちてきた。
「た、確かに私、そういうとこあるかも……?」
「でしょう。そして今は後者の状況でございますわ。ですので、無用な遠慮は抜きでまいりましょう」
「は、はい……!」
なし崩し的に返事をしてしまった。けど、これでいいのだと思うことにした。
「……そういえば、どうして久遠さんは私の家を知っていたんですか?」
「秘密ですわ」
久遠さんは穏やかに微笑んだ。
結局、どうやって久遠さんが私の住所を特定したかは最後まで分からない。
11
黒鵜センパイの住所に向かうことになった。
ほかに当てがあるわけでもなく、自然な流れで。
黒鵜センパイの自宅は割かし遠くにあり、私の家から歩いて20分、バスに乗って30分の地点にある。
「白鷺さんが黒鵜さんの住所を知っていて助かりましたわ。道案内、お願いいたします」
と久遠さんが言った。
本当はこの人、知っていたんじゃないのかなとかは少し思ったけど、はぐらかされそうで言えなかった。
代わりに別の話題を提供しようと頭をひねる。誰かと一緒にいるときに無言になっちゃうのは苦手なのだ。
「……久遠さんは、どういった経緯で黒鵜センパイとお知り合いに、なったんですか?」
「そうですわね。今から二年ほど前でしょうか。わたくしが例によって死の収集を行っていたときでございます」
「例によって」
「例によってですわ」
そのころから久遠さんは探偵みたいなことをしていて、しかもその時点で手馴れている感じ。久遠さん、パッと見たくらいだと二十代前半くらいなんだけど、実際のところいくつなんだろう……。
「当時、黒鵜さんは都市伝説を調べておりました。わたくしのことなんですけれども。わたくし都市伝説になっていますので」
おかしい。ツッコミどころ満載なのにどう突っ込んでいいかわからない。こういう時に普段のコミュ力が試されているのかも知れない。
「それで、あとを付け回されるようになったのでございます。しばらくは振り切れていたのですが、今回のように彼女が重要参考人となると、そうもいきませんから」
私は相槌を打ちながら歩く。
初めて会った時から変わらなかった久遠さんの表情は黒鵜センパイの話題になると微かに困ったような見える。気持ちはわからないでもない。
「わたくしと黒鵜さんのアレコレを要約すると、そんな感じですわ。特に驚くようなスペクタクルもありませんよ。それ以上に、わたくしとしましては白鷺さんと黒鵜さんがどのように知り合ったかのほうが気になりますわね」
久遠さんは立ち止まった。私も倣って立ち止まると、その猫みたいな金色の瞳が私を見ていた。
目的のバス停について、着くと同時にバスが来た。
「黒鵜さんの家までまだしばらくありますわ、どうぞその間にでも」
久遠さんはそう言って一足先にバスに乗った。
12
バスの左後部座席、窓際に座る。
車窓から見える古びた住宅街と濁った川。かつて白かったであろう薄茶けたガードレールがフィルムのように流れていく。
平日の昼間だからかバスに人気がない。
風邪を引いたと学校には連絡しておいてよかった。
窓辺に頭をもたれさせようとして、隣に久遠さんがいるのに気づいて止める。
体勢をまっすぐにして、バスに揺られながら。ぽつぽつと私は黒鵜センパイとの過去を思い出す。
「わたしが学校に入学した当初、担任が女生徒に手を出すタイプのやばい人だったんです」
「なるほど、初手からパンチが効いてますわね」
「でしょう? でも誰もその人を告発できてなかったんです。そんな時、黒鵜センパイは私の前に現れました」
ここまでなら割とヒロイックなのだが、ことが黒鵜センパイなのでそんなにいいもんではなかった。
「黒鵜センパイ、なんでか知らないけど私の名前を知っていたんですよ。白鷺涼子ちゃん、って声をかけてきて、そのまま校舎裏に連れて行かれました。そしていきなり言われたんです。『アタシはいまあの教師の淫行を調べてるの。で、あの教師が担任しているクラスの女子の中で一番の美人は見た限りあなただからちょっとアプローチしてきなさい。手を出したところを撮るから』って」
久遠さんは穏やかにバスに揺られている。独特のリズムを刻みながら私も揺れる。
「びっくりしました。いきなり出てきて何言ってんだろうこの人って。黒鵜センパイは、断ったら、貴女に関してあることないこと噂を流すって遠回しに脅してきました。相談できる友達もいなかったし、」
こんなこと、いつもお世話になりっぱなしの灰崎さんにも相談できなかったし、
「結局、言いなりになって、私は担任に近づきました。慕っているふりをして。アクションがすぐにあって、担任は私に触ろうとしてきました」
「それはそれは、怖かったのでは?」
「超怖かったです。まあ、触られる直前、陰で隠れて動画を撮っている先輩は気付かれて、ギリギリで事なきを得ました」
うん、あの時はすごく怖かった。何をされるかわからないし、体が震えて声も出なかった。
「次の日の地方紙の夕刊にはその担任のことが載っていて、結局その人は教職を解雇されました。理由とか経緯とかはどうあれ、なんだか人一人を嵌めてしまったみたいで、心苦しかったんですけど。その記事をあげたのが先輩だってことがすぐに学校中に広まって、そのために私が協力したこともすぐ広まって、被害を受けてた人たちから、私すごく感謝されて……、今まで、ある人にすごく大切にしてもらったことはあっても、誰かから感謝されたことなんて、なくて……、不謹慎かもしれないけど嬉しくなっちゃって、だから、先輩からされた部活の勧誘にもホイホイ乗っちゃって」
その後も先輩が同時並行で行っていた記事作りに付き合わされることになるのだけれど。
「結局、今に至るって感じです」
「なんだか殴られた後に優しくされてコロッといっちゃう彼女のようですわね」
お気軽に久遠さんはおっしゃる。
……否定できないかもしれない。
「ですが、良いのではないのでしょうか? それもまた人と人との関係の在り方ですわ……と、そろそろ着きますわね」
バスが停留所についた。先輩の自宅に一番近い場所だ。
「ところで、これからその黒鵜さんの家の家探しをするわけなのですが、良いのですか?」
「いいんですよ。黒鵜センパイには、これまで幾度となくひどい目にあわされてきたんですから。これぐらい」
13
黒鵜センパイの自宅は古びたアパートの3階にある。悪徳雑誌記者と名高い父親との二人暮らしだ。私も何度かお邪魔したことがある。
玄関ホンを鳴らしたあと、なんどか扉をたたく。返事や中に誰かいる反応もなかった。
「誰もいないみたいですね」
「ええ、黒鵜さなさんは学校ですし、彼女のお父様の黒鵜鬲(れき)さんは現在、取材のため他県にいらっしゃいますから。では入りましょう」
するりと久遠さんはおっしゃる。だが一体どうするというのだろう。今時管理人さんに頼んでもカギを貸してくれたりとか古典的なことはないと思うけど……。
「こうするのですわ」
久遠さんはフリルの服のどこからともなく針金を取り出した。
それをカギ穴に差し込む。
ガチャガチャガチャ。がちゃん。
「開きましたわ」
「んなあほな」
久遠さんが取っ手に手をかけて扉を開いた。
「開きましたわ」
「んなあほな」
古典的すぎる。
「お、おじゃましま~す……」
恐る恐る、室内に入る。薄暗い部屋は埃っぽく、玄関先からでもわかるほど乱雑にモノが散らかっている。
靴を脱いで、足を踏み入れる。床が軋み、冷え切った空気が背筋を伸ばした。
今更だけど住居不法侵入、立派な犯罪を行ってると実感してビビッてしまう。
「白鷺さん、怯えていては動くものも動きませんわ。さ、黒鵜さんのお部屋はどちらですか?」
「あ、こ、こっちです」
廊下を少し歩いて、黒鵜センパイの部屋に入る。
黒鵜センパイの部屋は8畳くらいの大きさで、入ると正面に窓がある。両側に大きくて安っぽい本棚があり、所狭しと様々な大きさのファイルやノートが乱雑に詰め込んである。ちなみに、並びに順番や規則性はあんまりない。ごちゃごちゃに詰め込んである。
「事件の調査って言っても、ここから一体、何をさがせばいいんでしょう……」
そんな風に、ややげんなりした様子で久遠さんを見る。
すると彼女は、本棚の端からノートを取り出して、数秒かけてぱらぱらとめくり、そのあとで元あった場所に正確に戻すと、隣にあったファイルを手に取って、ぱらぱらとめくり、めくり終わるとその隣へ……という工程をおもむろに行いだす。
10分ほどして、彼女は部屋にあったファイルをすべてめくり終えた。
「読み終えましたわ」
「マージですか」
「マージですわ」
何でもないことのように久遠さんは続ける。
「現在進行形で、黒鵜さんには調べている大きなヤマがあったそうですわね。おそらく、彼女のお父様――フリー雑誌記者である、黒鵜鬲さんの取りこぼし(・・・・・)から見つけてきたのでしょう」
「……なるほど」
確かに、黒鵜センパイは時折、父である黒鵜鬲さんが忙しくて扱いきれずに切り捨てた案件を目ざとく、それこそハイエナのように見つけ出しては自分で調査し記事を作成することがある。もしかしたらセンパイの行動は、そのヤマに基づく調査だったのかもしれないと考えられる。
「一体、センパイは何を調べていたんですか?」
センパイは自分が現在進行形で調べていることを誰にも口外しないことが多い。以前の担任事件の時のように、直接的な協力が必要な相手でもない限り口は割らない。情報がン漏れて、ほかの三門記者に出し抜かれないようにするためだとかなんとか、言っていたような気がする。だからここで久遠さんから聞く以外のすべ(・・)はないのだ。
金色の瞳が私を見据える。宝石のように綺麗な瞳に私は歪んで写っている。
薄暗い部屋の冷たさとは別に、何か、ひどくざわつくような予感があった。
「19年前、この町から少し離れた都市にスノウヘレンコーポレーションという企業本社がございました。けして大きな企業ではなかったようですが、かといって小さくもない。中企業と呼ぶべきでしょうか。そこで業務上の横領が発覚したそうです」
「横領……?」
予想外の単語に眉をしかめる、ちょっと想定外の案件だった。
「ええ。被害総額は数十億に上ったそうで、当時はかなりの騒ぎになりましたわ。黒鵜さんはその事件について調べていたそうですわ」
「え、でも19年も前のことなんですよね。どうして、そんなことを今更? 時効が近いから、とかですか?」
「業務上横領の時効は7年と基本はされております。しかしこれが民事上の話となると、時効は20年ほどになりますわ。確かに時効は近いですが……、今更そんなことを蒸し返されても、人々の食いつきは悪いでしょうね」
ではどうして黒鵜センパイはこんなことを調べていたのだろう。あの人は一角(ひとかど)のジャーナリストを気取っているけれど、けして高いジャーナリズムを持っているわけではなく割とシンプルに金銭と名誉と愉快を優先する人である。
そんな徳の少なそうな事件をなぜ、黒鵜センパイは追いかけていたのだろう。
「んんっ、それとですね」
咳払いとともに久遠さんは話を続けようとしている。その穏やかな微笑みには動揺や困惑すら浮かんだ様子はなく、氷のように変化してはいなかった。
「もう一つ、黒鵜さんは追いかけている事件がありました」
金色の瞳が不意に細まったような錯覚を覚える。
ああ、予感がする。厭な予感だ、
「5年前ですわ。町のはずれにある古びたお屋敷で火災がありました」
遠い記憶がさざ波のようにざわつく。頭の中でノイズのように、ざらついた炎がフラッシュバックしていた。
「焼け跡からはギリギリで形を保っていた大人の焼死体が3つ発見されたとありますわ。まあほぼほぼ燃え尽きてしまっていて、個人を特定することは困難だったそうですが……如何いたしましたか、白鷺さん。お顔の色が優れませんわよ」
「……久遠さん、その資料……」
自分の声がかすれている。指先に冷たさが溜まるように戦慄(わなな)いて、ありえないという言葉が自分の中で反響していた。
久遠廻音の瞳に歪曲した私が写っている。それでも彼女は、まるで川に水が流れるように平然と続ける。
「どうやら、黒鵜さんは去年の段階から少しずつ横領事件について調べていたそうで、その過程でこのお屋敷炎上の件に何らかの関連性を見出したようですわ。そしてこの炎上の資料には生存者がいたそうですわね」
そうだ。私は知っている。5年前に町はずれの古びた屋敷で起きた火災といえば、それしかない。それ以前の記憶が消えてしまっている私の最初の記憶だ。
「白鷺(しらさぎ)涼子(りょうこ)と灰(はい)崎(ざき)夢(む)夜(や)。まだ幼い少女2名が奇跡的に助かったと、そう記録されていますわ。ええ、白鷺さん、あなたのことですわね」
私は頷いた。どうしてセンパイが私の過去を調べたりなんかしているのだろう? 恐ろしいのはそのことを調べているうえで私に気取らせなかったことだ。それはつまり・・・・・。
「貴女が初めて黒鵜さんと出会った時、彼女は貴女の名前をどうしてか知っていたとおっしゃっていましたわね。つまり、その時点で黒鵜さなにとって貴女は記事作成のための調査、その対象であったということですわ」
「んな……」
センパイは私に過去について詮索しなかったのは知らなかったからでも興味がなかったからでもなく、とっくに調べる対象になっていたからだ。
「そのためにセンパイは私に接触して、協力させて……」
自分の中で微かな誇らしさとなっていた記憶が褪(あ)せていくようで、なんだか無性に哀しくなっていく。
「それはまだ分かりませんが、どうやら少しづつ線が繋がってきたように思われます。黒鵜さんと三原さんの接点はこの調査を通じてできたものだと考えることができますわね。では、このまま――」
流れるような話の続きが不意に中断された。久遠さんはそのまま、すたすたと玄関に向かい、カギをかけ、二人分の靴をもって部屋に戻ってきた。
「黒鵜さんの足音がしましたわ」
「え?」
混乱した頭におかしな言葉が入ってきた。聞き間違いだろうか。
「黒鵜さんがこの階に戻ってきましたわ。あと数十秒でこの家に戻ってきます、おそらく彼女も学校をさぼって色々していたのでしょう。ここから脱出しますわ。沓尾吐いてくださいまし」
「え、え?」
「お早くお願いしますわ」
靴を手渡される。久遠さんはそのまま部屋あの窓を開けベランダにでる。実に手馴れた様子だった。
「こちらへ」
ベランダに出た久遠さんが手を伸ばす。何が何だかわからないままにその手につかまると、そのままぐいと引き寄せられて、気が付けば久遠さんにお姫様抱っこされていた。そしていつのまにか窓が閉められ、どういうわけか鍵までしまっている。一体いつのまに、だなんて疑問が浮かぶ前にもっととんでもないことが起こった。
「飛び降りますわ。しっかり捕まってくださいまし」
「あ、はい。……え、ここ3階」
「とうっ、ですわ!」
3階から久遠さんは私を抱えて飛び降りた。息が詰まるような浮遊感が全身を伝い、小さな衝撃。壊れ物を扱うかのように地面に降ろされた。
久遠さんが触れて部分はまるで何もなかったかのように体温の変化がない。空気に押されたみたいだった。
「お怪我はありませんか」
久遠さんが聞く。
「あ、はい、何ともないです」
「それはなにより、では次へ向かいましょう」
「次、ですか?」
私は首をかしげた。まだ混乱した頭で、どうにか久遠さんの言葉に追いつこうとする。
「灰崎夢夜さんを訪ねようと思いますわ。白鷺さん、彼女の住所、知っています?」
ぐちゃぐちゃに混乱した頭はもうしばらく、まともに動かないだろうと思えた。
14
黒鵜センパイの家からほど遠く、町はずれとも町の内側ともつかない、そんな境界線上にその家は立っていた。
その見慣れた家は大きさの割にとても簡素で、おんぼろに見える。豪華なようで、そうでもない家だ。
前に来た時、錆び付いた門には雑草が蔦のように絡まっていて、人の出入りの少なさを感じさせたが、雑草を除去したのか今はさび付いた門がぽつんとたたずんでいるにとどまっていた。
門に手をかけて、強めに引いた。
ぎい、と重たく擦れる重低音が響いて門が開いた。
中に這入って、玄関先まで歩いて、玄関ベルを鳴らした。
数秒すると、かちりとカギを開く音が扉から伝わってきた。
きい、と扉からビンの底のような厚さの眼鏡をかけた、可愛らしい顔がのぞいた。背は私より少し高いくらいで、色素の薄い長髪に綺麗に整った顔立ち。いつもの不安そうな顔立ちが、春先の蕗(ふき)の薹(とう)みたいにほころぶ様子に、さっきまで忙しなかった心が穏やかさを得ていく、そんな感じが広がる。
「来てくれたのね、涼子」
「うん、灰崎さん」
「夢夜でいいって、いつも言ってるでしょう」
雪が融けていくみたい。
夢夜が私に向けてくれる微笑みは、いつもそんな感じで、この暖かさを私は他に知らない。私は夢夜のくれる、その暖かさが好きだ。
でも不意にその微笑みがなくなる。私の後ろに佇む彼女に気づいたのだろう。少し、心に霜が刺さるような感じがした。
「涼子、そちらの方は?」
「あ、えっと……」
なんといえば、良いものかと考えようとして、すぐに久遠さんは自分で自己紹介をしてくれる。
「初めまして、わたくし、久遠廻音と申します。ええと、灰崎さん、灰崎夢夜さん。で、本当によろしかったでしょうか?」
久遠さんはピンクのフリルがたくさんついたスカートを両手でつまんで横に広げて、さながら英国淑女のカーテシーのようにお辞儀をした。
「お聞きしたいのですが、近頃、貴女をお尋ねした方はいらっしゃいませんでしょうか? そうですわね、例えばその方々は、黒鵜さな。若しくは、三原万葉(・・・・)などと名乗ってはおりませんでしたか?」
「どうぞ」
小さなテーブルに3つのティーカップが置かれた。夢夜が淹れてくれた紅茶の水面がゆらゆら揺れている。
テーブルを中心に私、夢夜、久遠さんが座る。
夢夜は無表情で紅茶をすする。
久遠さんは相変わらずの掴めない表情でいて、私はきっと手持無沙汰というか、どういう顔をしていいかわからないって表情をしているのだろうと思う。
「どうして、」
夢夜が最初に言葉を並べた。
「いえ、そもそも、貴女は何者です? どうして……涼子んと一緒に?」
「わたくしはただ、ちょっとした収集をしているだけですわ。事情は先ほどお話したとおりです。仕事が終わりましたら、消えますわ」
怪訝な顔で夢夜は私を見た。大丈夫なのこの人? と視線で聞いてくる。
多分、きっと、そこまで悪い人というわけでもないと思うから、大丈夫、だと思うよ? と視線で返した。どうしても疑問形が抜けないのは、仕方ないと思う。久遠さんがどう考えても怪しいのは事実だし。
でも、まあ、悪意のある人ではないと、短い付き合いでなんとなく思うから、大丈夫じゃないかなぁ?
「……わかりました。では、お応えできる範囲で質問にお答えします。あくまでも、これ以上、おかしなことに涼子を巻き込ませないためですから」
「夢夜……」
「構いませんわ。わたくしは自身の目的が正しく達成できれば、それでよいのです。では、まず先ほどした最初の質問から」
久遠さんは眉一つ動かさない。ただ、川に水が流れるように質問を連ねる。
夢夜は紅茶で口を濡らしてから答えた。
「ええ、会いましたよ。記者を気取った若い女でしょう。貴女の言っていた黒鵜とかいう人であってると思いますけど」
「彼女だけ、でごいますか?」
「彼女だけです。わたしを訪ねてきたのは。5年前の火災を蒸し返そうとしてきました。色々と根掘り葉掘り聞かれました」
ふ、と夢夜は小さく鋭く息を吐く。いつもの優しい夢夜とは違って、どこかいら立っているように見えた。黒鵜センパイのことを思い出したのだろうか。
「貴女はなんと答えましたか?」
「特に何も、あまり思い出したくないことでしたし。新聞に載った事実しかお答えしていません」
「白鷺さんのことを、何か聞かれませんでしたか?」
夢夜は手に持ったティーカップをテーブルに置いた。かすかに残った紅茶の水面が揺れて、そこに夢夜の顔が写った。冷めた紅茶に、冷たい貌が写っている。
「…………、いいえ。ただ、学校での涼子の話は聞きました。随分、彼女にひどい目にあわされたとかで」
夢夜が私をどこか睨むように見た。どうして教えてくれなかったのと、聞かれたような気がして、バツが悪くなってしまう。
……だって、心配かけたくなかったし……。
「……とにかく、わたしから言えることはこれくらいです。ご満足いただけましたか?」
「では、最後にもう一度だけ。本当に、三原万葉との面識はないんですわね」
「……、知りませんそんな人」
「そうですか。ご協力感謝いたしますわ」
久遠さんはそう言って、深々と頭を下げた。
夢夜は残った紅茶をくい、と飲み干した。久遠さんに乱された調子を一息ついて整えているように見える。
「わたくしから聞くことはこれ以上ないですわね。では、わたくしはこれでお暇させていただきますわ」
「え、あ、じゃあ、私も」
「いえいえ、白鷺さんは灰崎さんと積もる話もあるでしょう? 後ほど、昨日に出会った喫茶店で合流するということで。わたくしもわたくしで、別に行っておきたいことがございますので」
音もなく久遠さんは立ち上がる。彼女は私が立ち上がろうとするのを制すると、私に合流時刻(かなり遅い時間だった)を耳打ちしてから夢夜に挨拶をして、そしてもう一度私を見た。
「白鷺さん。どうか、このひと時を大切にしてくださいましね」
「え?」
彼女はそれだけを告げると、足音一つ立てずに灰崎家を後にした。
結果、私と夢夜だけが残されることとなる。
「…………」
「…………」
なんとなく、奇妙な静寂が訪れる。
カチコチと、静けさの中に時計の音だけがこだまする。
つい、と夢夜を見た。かたん、ティーカップが置かれる、
「あのひと、紅茶に一口も手を付けなかったわね」
そう、ひとりごちた。
どうしてか、そのまなざしは伏し目がちで、どこか哀しげに見えた。
「ねえ、涼子ちゃん」
不意に夢夜は聞いてくる。それは不思議な問いだった。
「わたしのこと、好き?」
「うん」
これは数少ない、私が胸を張って言えることだったから。
「わたしのこと、綺麗だと思う?」
「うん。思うよ」
「そっか」
そっか。
夢夜はぽつりと、繰り返した。天井を仰いで、それから、ふ、と力なく微笑んだ。
「ね、涼子ちゃん、貴女の話が聞きたいわ」
言葉が、響いた。それは静寂に沁みつくような声だった。
私は頷く。特に話すようなことなんてないと思うけど、夢夜と普通に話ができるのはなんだか久しぶりのような気がしたから。なにか、なにか……会話……。
「んと、あ、ちゃんと役所で手続きはしてきました。おかげで、なんだか私にアリバイが出来て、助かったっていうか」
「そう……そうだったの……それは良かったわ。不幸中の幸いというやつね」
「でも、本当に良かったんです? 私なんか……」
「いいの、それは言わない約束でしょう。わたしは、それで納得したんだから。それよりも、わたしはもっと何でもないような話がしたいな」
「じゃ、じゃあ……うーんと、」
普段口下手で人付き合いが少ないからか、私は雑談用の話題をあんまり持っていない。けれど、どうにか、引っ張り出す。本当に何でもないこと、きっと、それ自体は暗々裏面白い話ではないのだろうことを私はぽつぽつと語る。
夢夜は穏やかに微笑んで、まるでそれは、降りしきる淡雪のように。
ただ、淡く心地が良くて。それだけで良いと、思える時間が少しだけ続いた。
名残(なご)るような、終わらないでほしい時間。
15
「貴女と、灰崎夢夜さん、でしたっけ? の関係は5年前の火災。その時から続くものだと聞きおよんでおりましたが。それは確かでございますね」
「はい、そうですけど」
時刻は夜8時を回ろうとしていた。
空は黒に塗りつぶされており、「喫茶 toroimerai(トロイメライ)」にはほとんどお客さんがいない。
やや光量の足らない電灯が、なんか天井でカラカラと回っている羽に遮られたりしなかったりを繰り返して、頼りなく揺れていた。
久遠さんに奢ってもらったチーズケーキにフォークを入れる。口に含むと、甘くて少しだけ酸っぱい。自然と顔がほころんでしまう。
その様子を久遠さんは特に表情を変えずに見ていた。なんだか少し恥ずかしくなって、うつむいてしまう。
「わたくしが奢っているのですから、美味しそうに食べていただき本望ですのに」
「で、ですけど……」
ちなみに久遠さんは何も口にしていない。私が喫茶店に到着したとき、彼女は店で一番小さくて安いコーヒーを一杯、机の上に置いたままだった。そのカップには一切手を付けた痕跡がなかった。
久遠さんは私が席に着くと「注文がこれだけではお店に申し訳ないのであなたになにか奢りますわ。好きなものを頼んでくださいまし」と言い、私が遠慮すると「困りましたわ。貴女がなにも注文しないとなると、わたくしが恥をかいてしまいます」と、妙な脅しをかけてきたのだ。
困ってしまって、こうなったらと思い切って注文したのがこのチーズケーキ。私の好物なのだ。フォークで、ちまちまと削るように食べていくのが我流である。
「さて、食べながらで構いませんわ。貴女と彼女の話をしていただきたいのですわ」
久遠さんが言う。彼女は、どうしてなのか、そこになにか重きを置いているような口ぶりだった。
白鷺涼子と灰崎夢夜。
確かに奇妙ともいえる関係性なのかもしれないけれど、だからといって殊更に重視するようなことなのだろうか……?
「一番重要なことかと、わたくしは思っておりますわ。もちろん、隠し立てしたいことやプライバシーの観点からお話ししたくないことは聞きません。お話ししなくても構いませんわ。飽くまでも、わたくしにとっては確認事項の一つでございますから」
久遠さんはカウンセラーのようなことを流暢に語った。
語りたくない過去、なんてものは、あんまり私にはないと思う。うん、人に知られたくないような秘密がある人生ではない。
じゃあ、と私は過去を回想する。
簡単だ。
夢夜と過ごした時間は、いつだって私の中で生きているのだから。
16
夢夜と出会ったのは、私の記憶の始まり――つまり五年前の火事から半年たった時のことだった。
その時の彼女はミイラのように全身に包帯を巻き車いすで移動してくる痛ましい姿だった。
体中、特に顔面にひどい火傷を負ってしまっていて、生死の間を彷徨った後だった。
奇跡的に軽症で済んだ私に彼女が会いに来たと聞いたとき、私はきっと罵倒されると思った。どうして、あなたが無事で私がこんな目に合わなくてはいけないの! と。
当時の……多分、今もだけど、私はそういう風に思ってしまうような性質らしい。
けれど、彼女は――灰崎だと名乗った彼女は私と会うなり。
「無事でよかった」
ほとんど聞き取れないほど掠れた声で呟いて、ほとんど何も見えない瞳で涙を流したのだ。
私は、自分の浅ましさとか、愚かさとか、そういったものがどうしようもなく恥ずかしくなって、申し訳なくなって泣いてしまったことを、憶えている。
「わたしは、灰崎夢夜。よろしく、涼子」
「はい、灰崎さん」
「夢夜でいいのよ」
灰崎夢夜、どうしてかその言葉は心に温かく灯る。
それから、ふたりで話をした。他愛もないはなし。
「また、貴女に会いたいわ」
別れ際に彼女が言ったその言葉がどれだけ、どうして火事の現場にいたかすらわからない、それ以前の記憶がない、何もない私にとって救いだったでしょう。
それから、言葉を交わすことが多くなった。
夢夜は私の詰まらない話にもきちんと耳を傾けてくれた。
いつだって、母親に無視されていて、まるでどこにも居場所がないみたいな私にとって、自分の話を聞いてくれて、相槌を打ってくれる。優しい彼女は陽だまりのようで。
整形手術を行って、彼女がその姿を見せてくれた時、心から綺麗だと思った。
「火事の跡から、たくさんのお金とアルバムが見つかったの、わたしが写っていてね、それをもとに整形手術をしたの」
彼女は微笑んだ。木漏れ日のような微笑で、本当に良かったと私は思った。
それから、何度も私は彼女に会いに行った。
彼女は燃え尽きた灰崎家から発見された金庫――そこから出てきた膨大な金額を一人で相続した。
灰崎家にはほかに親類と呼ばれる人はおらず、一生残るであろう重傷を負った天涯孤独の少女に、せめて金銭を残すことを否定するものはいなかった。
ひどい火傷の後遺症で、彼女の体は弱かったのだ。
「多少の無茶はできるんだけどね」
そういって夢夜は困ったように微笑んだ。
多少でも無茶なんてしないでください灰崎さん。と私が告げると、いつだって彼女は夢夜でいいのよと答える。
心の中では夢夜と呼べるけど、実際に口でその名前を呼ぶのは、なんだか恥ずかしい。胸が苦しくなってしまう。
夢夜は町のはずれに置いてあった古い小さな、それでいて微かに上品な感じがするお屋敷を買い、そこで静かに暮らしていた。
私は、中学が終わるなりすぐにそこに通うようになっていた。というより、暇さえあれば、私はそのお屋敷に向かうようになっていた。
いつでもきていいのよ。本当に。
頭では、社交辞令なのかもしれないと考えながら、私はずっと、夢夜に甘えていた。
夢夜と語り合う時間は心地よくて、夢夜とする食事は温かだった。家では食事なんて出なかったから。
一度だけ、ほんの出来心のつもりで一緒に暮らしたいといったことがある。
その時だけ、彼女は悲しそうな、寂しそうな、困ったような、曖昧な表情で「それはできないの」といっていた。
どうしてだろう。そんな些細なことを思い出すのは。
夢夜は学費を払わない三原万葉の代わりに私の学費を払ってくれていた。それだけのことをしてくれるような相手にいくら何でも図々しかったなとか思う。
でも、あの時の夢夜の表情がやけに引っかかるような……。
うん、話を戻そう。なんだか妙な脱線をしてしまった。
話を戻す、といっても、戻すようなはなしなんてほとんど残ってるような気がしない。
夢夜には高校に入学するところまで金銭面での支援をしてもらい。家を出て一人暮らしができるようになった。
高校に入って、さすがに甘えっぱなしではよくないと思って、アルバイトを始めて、それからあんまり会えなくなった。ちなみに今はお休みをいただいている。
ただ、最近、言われていたことがある。
それは流石に突拍子もない話だった。
17
「戸籍ですか?」
「はい」
「それはまた反応に困る話ですわね」
そうだと思う。話は突然で、つい一か月前のこと。
戸籍謄本――写しではあるが――を持ってきてほしいとのことだった。
私の戸籍がいるのだという。何に使うのだろう?
「ほいほい渡したんですの?」
「はい。さっき」
「……そうですの」
久遠さんが珍しく、表情を変化させた……ような気がした。
「しかし、不思議な話ですわね」
「そうですね、戸籍なんて何に使うんでしょう」
「それもそうですが、もっと根本的な話ですわ」
根本的な話?
「どうして、その、えー、灰崎夢夜さんは貴女にそこまでしてくれたのでしょうか?」
「……はい?」
今までで一番裏返った声が出た。自分でも間抜けすぎる声だと思うくらいに。
でもそれは、
「その灰崎夢夜さんが善い人だから。にしたって、貴女の精神的支柱になってくれるだけではなく、学費や生活費の工面までしてくれるなんて、些か、度が過ぎていると、通常ならば考えますわね」
「そ、そんな……」
「考えたこともない、といった顔をなさっておりますわね。ええ、白鷺涼子にとって灰崎夢夜は完全に信頼のおける人物なのでしょう。それこそ実の姉妹のように。ですが」
久遠さんの言葉は不意に「喫茶 toroimerai(トロイメライ)」に訪れた客によって遮られた。
「お待ちしておりましたわ。太川警部補」
太川刑事が現れた。その手には小包を持っている。
「あぁ、廻音さん、これ、頼まれていたもんだよ」
「た、頼まれていたもの……?」
「ええ。白鷺さん、あなたの先輩である黒鵜さなに疑いの目が向けられたのは匿名のタレコミがあったからだと前に言いましたわね。これはそれですわ」
小包から、レコーダーが出される。
「古風ですわね」
「あ、おれの趣味ですわ」
太川刑事は砕けた口調で久遠さんに答えた。
「では、さっそく再生いたしましょう」
レコーダーの再生ボタンが押された。
『……あ、もしもし。河川敷で、女性の死体が発見された件です。あっているのを見ました。背が高くて、170cmはあります。半端に髪を染めていて、記者をなのっていました。ええ、言い合いになっていました。被害者の女性と……』
まぎれもなく、灰崎夢夜の声だった。
18
そのあと、何が起きたのか。よく覚えている。
けれど、それは、出来の悪いフィルムを見ているかのように、カラカラと目の前で回るようだった。
テープを聞いて私が愕然としているのを太川刑事は見逃さなかったらしい。
何度も私に声の主を詰問してきた。
私は、私は、首を横に振るばかり。
私が彼女をかばっているとでも思ったのだろうか、太川刑事の詰問は強さを増していく。
けど、違うのだ。私は、自分の中でつながらない糸に戸惑っていただけだったのだ。
太川刑事の詰問を、私と違ってのらりくらりと躱していた久遠さんが私の耳元で尋ねた。
「わたくしがお話しても構いませんわ」
その声色は変わらない。絶対不変な白のように。
私は頷いたのだと思う。
久遠さんが太川刑事に彼女の話をした。
それから警察は彼女の家に向かった。匿名とは何だったのだろうか。
彼女の声は声紋(せいもん)認証(にんしょう)でタレコミの主だと発覚した。
警察はまず、どこで二人を目撃したのかを聞いた。
彼女は死亡推定時刻の数時間前の夕方を答えた。彼女はアリバイを聞かれる。彼女にアリバイはなかった。彼女は三原万葉と黒鵜さな、それぞれとの関係性を聞かれる。彼女は答えなかった。彼女についていろいろなことが調べられた。その過程で、三原万葉と何らかのやり取りがあることが分かった。三原万葉が吹聴していた会う予定だった人物。そこを詳しく調べていくほどに、彼女の特徴に合致していったのだ。警察の捜査は進む。彼女の存在が捜査線上でどんどん大きくなった。彼女の体形や腕の位置から三原万葉を殴打した人物である可能性が浮上し、彼女の家に家宅捜索の依頼が入る。それらすべてを彼女は拒まなかった。彼女の電話に講習手電話なんどから脅迫まがいの電話がかかってきたことや、白鷺涼子の通帳から少なくない額の引き落としが何度かあった痕跡が明らかになった。それから、どんどん彼女が重要参考人として浮き彫りになっていって。
それはとてもあっけなく、まるで当初からそうすることが予定調和であったかのように、あっさりと、彼女は犯行を認めたのだ。
19
「はい。三原万葉を殺害したのは私です。あの人には、以前から、個人的なことでトラブルになっていました。……どのようなトラブルか、ですか? 金銭的なことと極めて個人的なことです。……極めて個人的なことです。トラブルのもとに関しては黙秘します。……では続きを。――あの日、事件の日です。わたしは三原万葉に呼び出されていました。予定より早く着いたわたしは、三原万葉が黒鵜さなに接触しているのを目撃しました。黒鵜さんのことは以前からなんとなくで知っていました。トラブルの多い人であるということも。その時は、なにかを話しているという感じでしかありませんでした。何度目かの言い合いがあって、わたしは予定の時間より2時間近く待たされました。その後、私の前に現れた彼女は要求する金銭を引き上げるようにいってきました。わたしはそれを拒絶しようとしました。けれど、三原はそれを許しませんでした。口論になりそうで、わたしは目の前の女が怖くなりました。逃げだしたのです。けれど三原はわたしを追ってきました。橋の上で口論が続きます。三原は様々な罵倒をわたしにしてきました。もう50になろうとする女がする罵倒は相応の迫力がありました。わたしは泣くことしかできませんでした。一通り言いたいことを言い終えると、あの女は満足げに頷いて振り込みをするように忠告して踵を返しました。わたしの目に手ごろな大きさの石が転がっているのが入りました。衝動的でした。わたしは三原を殴りつけました。殴られた三原はよろけて、橋から落下しました。橋の上から落ちた地点を確認しても暗くてよく見えません。わたしは駆け下りて三原を探しました。何かが足に当たったと思い、見ると彼女は死んでいました。わたしは凶器の石を川に投げ入れて、それから強盗の仕業に見せかけようと胸元のポケットから財布を抜いて川に投げ捨てました。財布が胸ポケットに入っていることは知っていましたから指紋がつかないように抜くことも不可能ではありませんでした。それから現場から逃げ出して、家に帰りました。翌日、大きな騒動になっているのを知りました。しばらくしても捜査の手が回ってこないのは、精神的にきついものがありました。そんな時、不意に思いついたんです。黒鵜さんを犯人に仕立ててしまおうと。手がかりを与えてしまった結果となりましたが、これでよかったのです。わたしから話せる事件のあらましは以上です。これ以上、特に語るべきことはありません。ええ、事件はこれで終わりです。それでも、そうですね、何か、言いたいことがあるとすれば、涼子に……ごめんなさいって……」
20
チチチチ。
寒空の下だというのに小鳥が鳴いている音が耳に入ってくる。
いつの間にか座ったまま眠ってしまっていた。
体中がバキバキと嫌な音を出し始める。目元が腫れて、チクチクした痛みがした。
夢夜が逮捕された現実に生きているのが、なんだか本当に趣味の悪い夢じみていて、ここ2,3日外に出ることすらできなかった。
「……学校、行かなきゃ」
ボロボロに近い身体を起こして、支度をしようとする。すでに制服を着ていることに気づいて、乾いたような力ない嗤いが零れて、白く消えた。
学校に向かう。
校門の前で、不意に声をかけられた。
「よ、白鷺ちゃん」
「……おはようございます」
「うんうん。やっぱり元気ないよね」
黒鵜センパイの声が煩い。甲高い、きつい。
「アタシとしては、自分の容疑が晴れて万々歳なんだけど、白鷺ちゃん的にはそうはならないよね」
あくまでも軽快なセンパイはなんだか、その、すごく、うざい。
こっちはかなり参っているしなんだったらあなたに対する不信感が結構なレベルで募っているのにウザ絡みしてくるの勘弁してほしい。
とはいえ、気になっていることがないではないので聞いてみることにした。せめてそれぐらい建設的なことをしたい……。
「……センパイは、9年前に起きた横領事件なんか調べて、どうするつもりだったんですか?」
「うん、なんで知ってるの、……あ、待って、久遠さんでしょ、あの人はほんとに何でも知ってるからな」
「……」
「じゃあ、アタシがどうして君に目を付けたかも知ってるの?」
「……はい。でも9年前の事件と5年前の火災に一体何の関係があるというんですか?」
「それは秘密。アタシとしてもそこまでは教えられないよ。ただ、もう少し調べてみるとしても、記事自体はお蔵入りしそうかな」
さほど残念でもなさそうにセンパイは言って、立ち去ろうとし。
「あー、最後に、久遠さんから待ち合わせのお知らせを」
それを告げて、今度こそセンパイは立ち去った。
……あの人、学校とは逆方向に歩いて行った。
授業には一応、出席したけれど、まともに話が耳に入らなかった。
いつの間にか、日が暮れていて、、夕日が窓から入り込んでいる。
放課後の教室になっていた。
「こんにちは」
久遠さんがいつの間にか目の前に立っている、
「久遠さん、いつの間に……」
「そんなことはどうでもよいのですわ。それより、お待ちしていただき、感謝いたします」
「ぼーっとしてたら、こんな時間になっちゃっただけですよ……それより、その、死の収集? っていうのは、事件解決で終わったんじゃ」
「いいえ」
久遠さんは答えた。夕日が彼女に影を作る。それは闇のような影だった。
「収集とは、死に伴うあらゆる要因の記録です。もちろん、現状で収集を終えるということは可能ですが、それはわたくしの仕事ではありません」
「……じゃあ、夢夜は犯人じゃないとか?」
「いいえ。それは違います。彼女の証言は凡そ真実であり、信じたくはないでしょうが、彼女が三原万葉殺害の犯人である、というのは残念ながら揺るぎがたい事実ですわ。しかし、大切なのはその経緯です。つまり、なぜ、このような事件が起こるにいたったのか。わかっていないことがいくらかありますわ。それをわたくしは調べる気概ですが。貴女はいかがいたしますか、白鷺さん。そのお誘いに、今日は来たのです」
夕日が傅く。それは誘い。
「ですが、断ってもらっても構いませんわ。真実というものに触れた時、きっとあなたは大きく傷つき、後悔することになるでしょうから」
それはささやき。影は彼女の傍らに。白い手が差し出されて。
「私は――」
手を伸ばす。
そうだ、私は何も知らない。何も納得していない。
運が悪かったとか、巡りあわせが悪かったとか、そうやって納得したほうが早いことはわかるけれど。それでも、まるで納得していない。
私の大好きな夢夜が、どうして殺人に至らなくてはいけなかったかなんてそんなの、納得できずに流すことはできない。
私は久遠さんの手を取った。それは人形のように冷たさを持った腕。
久遠さんは笑った、明確に。
それは始まりの終わりを告げるような笑みだ。
「収集を始めましょう」
そう、久遠廻音は唱える。
「久遠さん、貴女は、一体……」
「わたくしは、ただの収集人ですわ」
死の収集人。久遠廻音はそう答えた。
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