第62話 黒く蠢くモノ ※閲覧注意
「……やっぱりだめか」
早朝の冷たい空気のなか、それでも出てきた汗をヒナヒコは拭う。
空を飛ぶ。
『王の船』に乗ることができるため、カグチと会うためには必要ないことなのかもしれないが、それでもヒナヒコは『風の力』で空を飛ぶ練習をしている。
(……兄さんはできるって言っていたのに)
なぜ、空を飛ぼうとしているのか。
その理由を言語化するのは、ヒナヒコ自身でも非常に難しいことではあるのだが。
しかしヒナヒコは、毎日時間を見つけては空を飛ぶ練習をしていた。
「お疲れさまです。こちらでお体をお拭きください」
元中央の奴隷、今はヒナヒコの侍女をしているケイナが手桶に水を汲んでくれていた。
「ありがとうございます」
ヒナヒコは礼を言うと、上着を脱ぎ、手拭いを水につけ体を拭いていく。
火照った体に、水が気持ちいい。
ケイナがヒナヒコの上半身を涎を垂らしながらみているが、そういった目線は学校の水泳の授業でもう慣れている。
気にせずに体を拭いていると、ふと外に誰かがいることに気がついた。
誰だろうとよく目を凝らすと、この屋敷の主であるズィルバが立っていた。
ケイナはヒナヒコの体を見ることに熱中していて気がついていない。
ズィルバは、空を見ていた。
じっと、ずっと。
挨拶でもしようかと思ったが、声をかけるには遠い距離だったので、声はかけなかった。
しかし、気にはなった。
ズィルバの顔が、見たこともないほどに険しいモノだったからだ。
なぜズィルバがそのような顔を浮かべていたのか、ヒナヒコはわからなかったが、しかし、ズィルバが向いているその方角には、『ウイーナ』の町があった。
だから、ヒナヒコが異変を知ったのは、ズィルバの屋敷を出て組合(ギルド)に到着してからだ。
なにやら慌ただしく、騒々しい。
ネットが、係りの職員を呼び止め話を聞きだし、すぐに戻ってくる。
「『ウイーナ』の組合(ギルド)と連絡が取れないそうです」
それだけしか得られない情報が、より深刻に『ウイーナ』の現状を伝えていた。
すぐに、ヒナヒコたちは『ウイーナ』に向かった。
「……これは」
『ウイーナ』の近く。
『ウイーナ』を一望できる小高い丘に到着して、見て、真っ先に思った感想は、『蠢いている』だった。
町を囲んでいた強固な壁も。
町の周りの森も。
石畳でできた道も。
ウジャウジャと。
ワラワラと。
キチキチと。
黒い何かが動いている。
本能的に沸いてくる『嫌悪感』に鳥肌が立ってくる。
近くに飛んできた『蠢いていた』モノをホーメルが小型の槍で突き、捕らえる。
「虫……? いや、この大きさは魔物か」
それは、バッタのような魔物だった。
しかし、大きさが違う。
大人の二の腕ほどはある大きさのそれは、この『アスト』でも通常の虫の大きさとしては考えられないサイズだった。
「ネット、こいつを知っているか?」
「『シャーウン』でしょうか。大きさも色が違いますが……この量です。『暴走(カタストロフィ)』で体表が変化した?」
まじまじとホーメルが捕らえた魔物を見て、ネットが考察する。
「……あの」
考察している二人に、ヒナヒコが手をあげる。
「行かない……んですか?」
ヒナヒコが指を指したのは、『ウイーナ』の町の門だ。
門は閉じられているが、びっしりと真っ黒い『シャーウン』がへばりついている。
「……今は情報収集だ」
「あとで本隊が来ます。そのためにはまずは調べないと」
気まずそうに答える二人に、ヒナヒコ再度聞く。
「でも……町の人が……」
ヒナヒコも、バカではない。
言いながら、いや言う前から、わかってはいる。
真っ黒い『シャーウン』は、町の全てで『蠢いていた』のだから。
「……この状況だ。町の者の生存は……」
ホーメルの答えは、ヒナヒコもわかっている。
でも、それでもだ。
「ヌーダちゃんや、コーフさんが……」
あの町には、『ウイーナ』には、知り合いがいる。
出会って一週間だが、それでも、知っている者がいるのだ。
ヒナヒコが言いたいことは、ホーメルもネットもよくわかっている。
しかし、彼女たちは騎士なのだ。
最優先すべきは、『国』を、『民』の全てを守ることだ。
知り合いの生死の確認は、優先すべきことではない。
「……優先すべきことが情報収集なら、なおさら町に行くべき……じゃないですか?」
ヒナヒコの意見に、ホーメルもネットも反応する。
「……そういわれると、だな」
「でも、どうします。さすがにあの量の魔物。一匹一匹が小物でも、囲まれると」
「大丈夫です」
ヒナヒコが、数十メートル先の木に手を向ける。
すると、その木に蠢いていた黒い虫達がバラバラと落ちていった。
「僕の『風の力』で殺していきます」
ヒナヒコの力を再認識し、ホーメルもネットも虫が蠢く『ウイーナ』へ向かうことを決めた。
「門が開いている場所がありました」
『ウイーナ』と『ズィルバーフン』をつなぐ道沿いの門は閉まっていたため、別の門から町へ入る。
町に入ってから、いや、町に入る前から、会話がない。
言葉が出ない。
ただ、皆強く歯を噛んでいる
バタバタと落ちていく黒い虫。
倒れていく黒い虫。
そして、町の至る所に点在している、黒い虫に覆われた黒い固まり。
それが何であるか、皆語らない。
何匹いるのだろう。
実り豊かな野菜や穀物で色鮮やかだった町は、全てが黒に覆われている。
「……ここだな」
いつもとは違う門。
いつもとは違う道。
いつもとは、違う光景。
ゆえに、いつも来ていた食堂が、ここであると 認識するのに時間がかかってしまった。
ヒナヒコ達は、食堂に入る。
いつもは、ヌーダが嬉しそうに駆け寄ってくるのに、誰も来ない。
ただ、キチキチと虫の蠢く音がするだけだ。
食堂の奥へ進む。
厨房の奥に、それはあった。
黒い固まり。
黒い虫に覆われた固まり。
ちょうど、人が二人、お互いを守るように抱きあったような大きさの黒い固まりが、キチキチと音を立てている。
虫以外、動くモノはいない。
ヒナヒコは黒い固まりに手を向ける。
するとキチキチと音は出なくなったが、同時に何も動かなくなった。
虫を風で払ってみたが、そこにはもう、何もなかった。
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