第189話 椎名は幸せである
少し時は遡り……まだ姫命が雫達の元へ来ていない頃。椎名は皆のいる大部屋から大胆に出て行き、少し寄り道をして最愛の彼の部屋へと向かっていた。
部屋を出る時は、周りの後輩達からの憧れの目線で少しだけムズ痒かったが、彼との関係は別に隠している事では無いし、進捗具合も予め話していたのであまり呼び止められること無く堂々と部屋から出れた。
今日の夜は静かだ。微妙に静か過ぎる感じもするが、ここが都会でなく山奥の旅館だからなのであろう。少しの違和感はすぐに違和感では無くなった。
まだ彼との約束の時間まで時間はあるのだが、椎名は早めに部屋から出た。なぜなら、単純に早く彼の元に行きたいという思いもあるのだが、少しだけ1人になって精神統一をしたかったという理由もある。
まだ彼とこういう関係になれたのは、ごくごく最近の事で。まだその行為自体にも心と体が慣れてはいない……
だから事前の精神統一は椎名にとっての欠かせないルーティーンなのだ。
──数分、1人椅子に座りながら心の準備と体の準備を終わらせると、椎名は無言で立ち上がり彼の部屋へと向かった。
そんな椎名の表情は微かに火照り、微かに涙を浮かべていた。
☆☆☆
──トントン
と、彼の部屋のドアを軽くノックすると、ドアはすぐに開かれ中から彼が出て来てくれる。
「やぁ、」
「大ちゃん、お待たせぇーッ!」
椎名は大ちゃんと会って早々に両手を前に広げ、抱擁を求めた。椎名は精神統一をすると、すぐこうしたくなるのだ。なぜなら、椎名の中で大ちゃんへの愛と幸せが溢れてしまうからだ。
……昔からよく知ってる親友の弟。幼い時は、あんなにも小さくて臆病な子だったのに今では椎名よりも背が高く、ガタイも良く、力も強い。性格も優しくて穏やかで…………昔からずっと好きだった。
しかも最近は自分自身に自信を持ち始め、一層カッコよく、逞しく、勇ましい男の子になってくれた。
──だからこそ、愛している。心の底から大好きだ。本当に本当に。昔からずっとずっと。この気持ちだけは絶対に、誰にも負けないと自負出来る。
だから椎名は精神統一をすると、大ちゃんとの思い出が溢れ出してしまい、無性に大ちゃんを求めてしまう。だがその思い出は……決して幸せな思い出だけでは無い。辛い思い出も、悲しい思い出も大ちゃんには多いからだ。だけど、それを余裕で塗り潰すぐらいの“幸せな思い出”は椎名の中に存在するのだ。多分、今の大ちゃんなら分かってくれると思う。
大ちゃんから優しい抱擁を貰った後、一旦部屋に入る為に大ちゃんから離れた椎名はまるで自分の部屋かのような慣れた感じで部屋に入る。
大ちゃんの部屋=自分の落ち着ける場所なのだ。
綺麗に整った趣のある部屋。それに大きくて豪華な布団。自然と漂う仄かな木の香り……それに大ちゃん!その全てが椎名の気分を高く高揚させてくれる。
「大ちゃんの部屋って、すぅっごぉーく豪華なんだね。」
「うん……そうなんだよ。僕はもっと質素で暗い感じの部屋で良かったのに。」
「大ちゃんの家みたいな?」
「そうそう!やっぱし僕は自分の家が大好きなんだよなぁ。」
なんて……大ちゃんらしい愚痴を聞きつつ、椎名は大ちゃんの隣にスッと自然に腰を下ろす。更に流れるような動きで腕を組み、頬を肩に乗せた。
これが椎名にとって1番落ち着く体勢なのである。
「ふふ、まぁそう言わずにね、大ちゃん。この部屋は旅館の人達の配慮なんだからー」
「まぁ、だよね。もちろん嬉しいんだけどね……僕には豪華すぎて逆に落ち着かないんだ。」
「そっか……」
大ちゃんは男の子なのにも関わらず、かなり庶民的な方である。他にも優馬くんも若干庶民的だけど、煌輝くんは庶民的では無い。
「──じゃあ……いつもみたいに自分の好きなように部屋を染め上げちゃえばいいんじゃないー?私の部屋をそうしたみたいにさぁ。」
「うっ……それも、そうかもね。」
何となく椎名の問の意味を理解した大ちゃんは顔を少し火照らせながら頷いた。そして真っ直ぐ椎名の事を見つめた。
「いい?」
「…………うん。来ていいよ。大ちゃんの本能の赴くままにね。」
ニッコリ笑顔で椎名は立ち上がり、大ちゃんの目の前で自分の服に手を掛けた。
今日は浴衣なので簡単に脱げる。緩めに結んであった紐を1つ解く。すると……パサリと浴衣が体から擦れ落ち、床に落ちる。
2人の少し熱の篭った息遣いが部屋に響く……それは2人が酷く緊張しているのだと強く分からせてくれる。
──それからは、大地と椎名の大人の時間である。
☆☆☆
「っ……大地……すっかり大人になって……」
大地の姉である空は1人、誰もいない静かな休憩所で炭酸のジュース片手に孤独に涙を流していた。
その涙には、弟がトラウマを乗り越え成長した嬉しさと、自分の助けがもう殆ど要らないという事実への悲しみが含まれていた。
この何とも言えない気持ちは、親元から無事に旅立って行く子供を見送る親のような切ない気持ちに近く、涙というものを滅多に流さない非常な空でもその気持ちには到底抗えず純粋に涙を流していた。
空は親友の椎名から事情は事細かに聞き出している。なので、弟と我が1番の親友が既に一線を超えているという事実も周知の上だ。
初めてそれを知った時は酷く取り乱し、動揺した。
誰も知らない事だが沢山泣きもした。
2人の関係はもちろん結ばれて欲しいと思っている。心の底から。嘘偽り無く、本心でだ。
だが、未だに心の動揺が抑えられない。だから夜になると心が酷く弱体化してしまう。今日の夜も、椎名を見送ったらギュッと心が締まり、辛くなってしまった。
こうなってしまうと、もう月ノ光高校の威厳ある生徒会長では無くなり、ただのお姉ちゃんの空になる。
……やけ酒の如く、空は炭酸ジュースをがぶ飲みする。
「くはぁっ!」
でも……いくら飲んでも、するのはしょっぱい涙のような微妙な味と無駄な炭酸の刺激だけだ。
弟と親友の新たな恋路は絶対に邪魔はしない。逆に、邪魔する者は全身全霊を持って叩き潰す覚悟でもある。
この何とも分からない気持ちは、悔しい……のでもなく、悲しいのでもない。多分、単純に“羨ましい”
と思ったのかもしれない。男と女の神秘が……
1つだけ……解決出来る手段があるとすれば、
──────空自身も“恋”をすればいいのである。
だが空自身がその発想に思い至るまでには、まだもう少し時間が掛かる。まだ空は自分自身に強い自信が持てないからだ。だからもう少し……空は1人で悩み続けるはずであろう。
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