第17話 雨の日


雫は顔を真っ赤にさせながら優馬に抱きつく。

──心拍数は既に限界突破。呼吸も荒く、震えも止まらない。


雫にとっての初の試み……普通の男の人なら拒否するかもしれない。軽蔑されるかもしれない。だけど……優馬なら……そう信じ試した。


絶対に拒否されると思った。実際、そう言われたらすぐ離れて謝るつもりだった。……だけど、優馬は優しく私の事を包んでくれた。


……すごく居心地が良くて、暖かくて、なにより落ち着く。ずっと、ずっと、こうしていたいとも思った。


だけどそういうものは大抵長くは続かず、雫の体感では本当に一瞬だった。


でも、どうして自分はこんな行動をとってしまったのだろう?と、雫は自問自答する。


──なんでこんな理性を抑えきれなくなった?……感情が盛れ出してしまった?ずっと、ずっと我慢していたから?


多分、私は……きっかけが欲しかったのだろう。そうじゃないと素直になれなかったのだろう。


化学の先生のあの目線は鋭く、恐ろしかった。逃げ出しそうにもなった。だけど、“優馬”のためなら…………

そう思うと、足に力が入った。勇気が溢れた。意思が固まった。だから雫は逃げず立ち向かったのであった。


雫はもう一度自問自答する。


──優馬は私にとって、どういう存在?

“かけがえのない存在”…………今ではそう思える。


☆☆☆


雫を自分の胸から解放した。

俺的にはもっともっと抱きしめていてもよかったけど、これ以上抱きしめていたら、他人に見られたりするかもしれないし、俺の理性が抑えきれなくなるかもしれなかった。


雫は少し寂しそうにしながらも、ゆっくりと離れた。


「ぅっ………………………」

「……っっ…………………」


しばらく無言の時間が流れる。お互い、恥ずかしくて顔を見られないのだ。


数秒後、雫より早く落ち着いた俺が雫の事を見ると雫の顔がさっきよりも真っ赤に火照っていた。もう、湯気が出るくらいに。


まぁ、俺も顔が火傷をしたように熱い。多分、今の俺の顔は真っ赤になっているのだろう。


そこから更に時間だけが過ぎ去り、雫がようやく落ち着いた所を見計らい、俺は声を掛ける。


「行こっか、雫。」

「……ええ。」


いつの間にか、手を取り合って歩く俺と雫。

いつもなら、そんな流れなんて無い。

だけど、その時は本当に自然の流れだった。2人共、何も疑問に思わなかった。それは雫も同じだったようで後で2人それぞれで気付き、悶えることになる。


「……ふふ。」

「ん、どうしたの雫?」


突然笑みを見せた雫。そこまで笑う方では無く感情を余り表に出さない雫にとってそれは珍しい。

今は本当に高機嫌のようだ。


「……日曜日楽しみだなぁって。」


ボソッっと、俺にだけ聞こえるような声で言う、雫。心から楽しみにしているのだろう。俺はそれを聞いて、冷や汗がダラダラと垂れる。


「……?どうしたの、優馬。」


雫の言葉を聞いて急に焦りだした俺の事を気にかけてくれる優しい雫だけど、今はその優しさが辛いや。


「うーんっと。ちょっといい、雫。」

「……どうしたの?」


俺の表情を見てどこか察したのか、真面目な表情で聞く体勢をとる雫。


それを見て、覚悟を決めた俺……震える声を抑えながら俺は喋り始める。


「えーっと、すごく言いにくいんだけどさ。明後日の日曜日に大事な予定が入っちゃったんだよね。だ、だから、本当に悪いんだけどまた別の日に……お出かけを変更してくれないかな?……ごめん。」


俺は精一杯謝る。

女の子との約束を破ってしまう…………これは罪だ。今なら土下座をしても構わない。そのぐらいの覚悟だ。


雫は黙って聞いていた。顔は無表情。さっきの高機嫌の表情はどこかに行ってしまったようだ。

……一体何を考えているのかが分からないけど、絶対にいいものでは無いはずだ。


よし………土下座するか!


俺は雫が何も言っていないのにも関わらず、両膝を地面に付き、手を付けて頭を下げようとした時──


「……待って、そこまでしなくていいから!ちょっと残念だなと思っただけよ。」


完全に頭を着く前に雫に止められた。


「本当にすまないと思ってるよ。」

「……いいわよ。じゃあまた別の日に変更ということで、分かったから土下座だけはやめて。」


いつも通りの声質で言う雫だったけど、それでも少し声が震えている気がした。それに、どこか寂しさも滲み出ているのを感じた。


「悪いね……雫。」

「……大丈夫よ。って、この話はもう終わりにして早く教室に戻るわよ。」


時間を気にした雫が俺の事を立たせ、すぐに歩いて行ってしまう。


俺は、ほっと重く息を吐いた。

よかった。軽蔑されずにすんで……


でも、雫の俺に対しての好感度は下がったはずだ。


よし、改めて別日に行くことになった雫とのお出掛け(デート)は絶対に成功させてやる!と心に強く決めた。


「ま、待ってよ、雫!」


少し気まずいけど、俺は雫の後を走って追いかけたのであった。


☆☆☆


教室に戻って来た俺と雫。


「優馬君、雫!大丈夫だった~~?」


由香子が心配そうに声を掛けてきた。


「うん。大丈夫だったよ。」

「……ええ。」


俺と雫はほぼ同時に答える。


「でもね、雫~~ちゃんが咄嗟に飛び出していったときはびっくりしちゃったよ~~」


由香子は、雫の事をよしよしと褒めていた。


由香子の話を聞くと、雫が俺のために頑張ってくれた事が改めて分かり嬉しかった。

本当に雫には、感謝の気持ちでいっぱいだよ。


「……別に良いわよ。」

「ていうかすごい個性的な先生だったね~~」

「……ええ、不気味。」

「うん。そうだね。」


何でこの高校の先生に合格したのだろうか?と疑問に思うくらいだ。こんな先生、生徒に恐怖されるのは絶対に分かるはずなのに。


「親のコネとか、かな~~?」

「……いや、さすがに違うでしょ。」

「でも、この学校の唯一の化学の先生な訳だから、すごい人なんじゃないのかな?性格には難があると思うけど。」


そんな雑談をしながら、今日の学校は終わった。

本当に色々とあって長い一日だった。


☆☆☆


優馬達が化学室から出て行ってから数時間後。

放課後、化学準備室にて──


化学準備室とは、化学の先生が実験の準備をする場所。そこには実験で使用する危ない道具や危険な薬品、生物の標本が多くあった。


そこに、ドス黒いオーラを放つ毒牙 毒味がいた。


「キヒッ。あのクソ女が、私の邪魔をしやがって。私は優馬君ともっとお話していたかったのに。それを2人とも望んでいたのに………絶対に許さないぃ!」


狂気じみた言葉を吐きながら、彼女はある紙を力強く右手で握りしめていた。その紙は既にぐちゃぐちゃでボロボロ、原型を留めていない。


更に、化学準備室の壁には優馬の顔写真が貼られていて綺麗にフォトフレームに入れられて吊るされている。

それとは逆に雫の顔写真には謎の薬品がぶちまけられていて、化学準備室の床でぐちゃぐちゃになっていた。


「キヒッ。私に……この私にあんな適当な嘘をつくなんて………絶対に許さない。」


彼女がそう呟き、雫の顔写真を強く踏み付ける。

その一撃で雫の顔写真は完璧に破壊され、ただの紙くずへと変化した。


……右手に持つ原型を留めていない紙にも更に力が篭もる。この紙は生徒会の今月の予定表だった。

それには今日、生徒会があるという予定は一切書かれていなかった。


何故、優馬君があのクソ女に話を合わせたのかは分からないが、そんな事よりもあのクソ女は私を……私の事を騙した。それが許せない。それだけは許さないッ。この、天才な私の事をコケにしたのだ!その報いは必ず受けさせる。


───────────憎い憎い憎い憎い憎い。

───────────殺す殺す殺す殺す殺す。


絶対に後悔させてやる。あいつには生きている事を必ず後悔させてやる。


歯をギリギリと鳴らし、狂気じみた目で優馬の顔写真を眺め、気色の悪い笑みを浮かべる毒牙 毒味。


そうだ!優馬君はあのクソ女にしょうが無く話を合わせたんだ。脅されていたんだ!

本当は私とずっーとお話しをしたかったはずだと思うのに。可哀想な優馬君!私がすぐにあのクソ女から助けてあげるからね。救ってあげるからね!


だって優馬君は私の授業の時、率先して声を出してくれたもんね!私といると楽しくてたまらないんだもんね。きっとそうだ。そうなんだ。そうに違いないんだ!


そう彼女は間違った判断をする。

今は彼女の悪の実験場と化した化学準備室で、謎の液体が入ったフラスコに黄土色の液体を加えてガラス棒でぐるぐるとかき混ぜる。


その動作には迷いが無く、その動作だけを見るとちゃんとした化学者だ。だが纏うオーラと見た目、狂気でそれはただのマッドサイエンティストとなる。


謎の液体は黄緑色の水蒸気を発生させながら混ざり合い、透明から徐々に緑色の色となり、あまりにも毒々しい液体にへと化学変化した。


色々と試行錯誤をし、モルモットも多く使い。

そしてようやく理想の物が完成した。

その液体を注射器に数本移す。


1つはあの女用。もう1つは予備用。あとは、もしもの時用に……と。


「キヒッ。遂に完成。これをあのクソ女に注射してやればあの女は終わりね。キヒッ、キヒキヒキヒッ!」


化学準備室に奇妙な笑い声が延々と響くのであった。


☆☆☆


俺と雫はいつもの様に下校しようと思い、学校から出た。さっきの話で少しだけ気まずい感じだけど、一緒に帰ることは変わらないようだ。


そんな中──────ザァァァァァァァァッッ!!


突然、大雨が降り始めた。その勢いは凄まじく、強風も吹く。


えっと、台風かなにか?

そう見間違える程だった。


えっと、なんでよりによって今日なの?

天気予報ではずっと晴れてます。なんてテレビの天気予報士は言っていたのに………!?


だから、傘も持って来ていないし……

さてさて、どうしようか。


雨が止むのも待ってもいいかもしれないけど、全然降やむ気配がない。だったら、お母さんに迎えに来てもらおうとも思ったけど、最近は仕事で忙しそうだし迷惑を掛けたくない。


「どうしようか。傘もないし……走って行けばいいかな?」


距離的に考えて、それもありかもしれない。まぁ、風邪をひく確率は高まるけど。


「いや、それは絶対ダメよ。」


だけど、雫は俺の案を否定した。そして、雫はカバンから水色の折り畳み傘を取り出して開く。


雫は予備として折り畳み傘を持っていたらしい。さすが用意周到だな。


「じゃあ、俺は学校で親が来るのを待ってるから、雫は帰ってて。」


俺から言ったら男として廃る。だから、今回は諦める事にした。──だけど今日の雫は一味、違った。


「……なんでよ。優馬も入っていけばいいじゃない。」


そう、雫自ら誘ってきたのだ。なら、断る理由も……無いよね?


「いいの?」

「……いいわよ。はい。でも、代わりに傘は持ってね。」


雫は傘を俺に渡し、ピタッと右側に密着した。

う……この感じ、雫を抱き締めたことを思い出す。


「ははは……今日はやけに密着する機会が多いね。」

「……ええ。そう見たいね。」


雫は下を向き答える。でも、俺の右手の制服をちょこんと握り、離そうとはしなかった。


折り畳み傘は普通の傘より持ち運びが楽な分、雨から守る面積が小さい。完全に1人用の物だ。

なので、どうしても相合傘ではどちらかが少しだけはみ出して雨に濡れてしまう。


だから、その分近く近くへと密着する。これが相合傘の利点か!!と、青春を感じる。いつもよりも圧倒的に近い距離感にドキドキするけど、離れると雨に濡れるのでしょうがない。うん……しょうが無いのだ!


俺は思いっきり密着し、歩みを進める。


「それじゃあ行こうか。」

「……ええ。」


息を合わせて、できるだけ雫が濡れないように歩く。一応、俺は傘に入らせてもらっている立場なので、貸してくれている雫を絶対に濡らす訳にはいかない。なので、持ち手の傘をなるべく雫に近付けて濡れないように気を配りながら進む。


俺は既に左側のほとんどは濡れてしまっている。もう、傘の意味を成していない訳だけど。別にいいのだ。この空間を存分に楽しめれば……


でも、雨は全く止む気配は無く、逆にどんどん強くなって行く。更に、雷雲のような黒い雲が近くにあり、ゴロゴロと雷の前兆のようなものが聞こえた。


俺がそう思った次の瞬間──


ゴロゴロ、ピカッ!ドガァ━━━━ンッッ!!!!


空にイナズマが走り、爆音と共に近くの避雷針へと雷が落ちた。


予め、予想は出来ていたけど。それなりに驚く俺。

だけど、雷が怖い様じゃ男としてとてもカッコ悪い。


でも、俺は雷よりも驚く事が今この瞬間に起こってしまっていた。


「……きゃぁぁぁぁぁっっ!!!!!!」


雫が悲鳴を上げる。その悲鳴は雫と出会った中で1番の声量だった。


「うおっ。って、えっ?雫ッ!どうしたの?」


雫は、無我夢中で俺に抱きついて来る。その勢いと、行動の大胆さに驚き、そのせいで傘を落としてしまった。


雨はモロに俺と雫を打ち付ける。


だが、そんな事お構い無しに雫は俺から離れようとしない。こんな取り乱した雫は初めてで俺は動揺を隠しきれない。


既に俺と雫は、髪も制服もびしょ濡れ、もう傘を差す意味もあまり無い。だから、まずは雫本人の事を落ち着かせようと判断した。


雫は小刻みに震えている。それは、寒さから来るものでは無い、恐らく怖さから来るものだ。まるで肉食動物に襲われ、それに怯える小動物のように小さくなっている、雫。


いつもはクールな雫だが、今日は色んな顔をする雫が見られるな。


「……ご、ごめん、優馬。わ、私ね、幼いころから雷がどうしても苦手なの………」


それだけ言ってまたプルプルと震え出した。


「雫、1回落ち着こう、な!大丈夫だよ、雷は高いところにしか落ちないから。俺達に落ちる確率はかなり低いから、ね。」

「……でも、100%落ちない訳じゃないでしょ?」

「いや、まぁ。そうだけど。だったら、尚更ここでビクビク震えているよりも、安全な場所に移動した方が落ち着くよ?」

「……う……でも。」


雫にも分かっているはずだ。だけど、恐怖で足がすくんでしまっているのだろう。


「……私、怖くて歩けないっ。」


無理だと雫は叫ぶ、だったら……


「じゃあ、俺がおんぶで運ぶよ!」

「……ダ、ダメっ!おんぶなんてしたら、その分身長が高くなって雷が落ちる確率が上がるでしょっ!」


本気で拒まれた。確かにそうだね、と反省する。


「じゃあ、俺が手を引くから。頑張って着いてきてね。」


雫は既に恐怖で正常な判断は下せないだろう。なので、有無を聞く前に俺は雫の手を掴み走り出す。(ちゃんと、雫の折り畳み傘は回収した。)


雫は何も言わずに俺に引っ張られる。でも、安心したのか雷が近くに落ちても悲鳴を上げなくなった。雫は頑張っているのだ。


ならば、俺も頑張らないと。


雨で走りにくい。いつもより早く息が上がる。

風が強く、中々前に進まない。雨が強く、寒い。

雷がゴロゴロと鳴り響き、怖い。


だけど、雫の為と思ったらビビりでヘタレな俺にも力が出た。そうして、俺の家まで雫を連れて走り切った。門を急いでくぐり、家のドアの前まで到着した。


ここならば、ちゃんと屋根があるので濡れる事は無い。


「はぁはぁはぁ……」

「……はぁ、はぁ。」


2人共、息が切れ切れでしばらく呼吸を整えるのに時間を要した。


数秒後、俺は雫に声を掛ける。


「勝手にごめんね、雫。でも、俺らずぶ濡れだった訳だし1回俺の家に寄って行かない?」


もう、俺の家だけど……ね。


そう提案すると、雫はギョッと驚く。


「……でも……本当にいいの?女の私が男の優馬の家なんて行っても………?」

「全然いいよ。……と言うか普通に歓迎するよ。」


俺は快く雫を迎える。

でも、雫は中々歩を進めてくれない。


──それで、俺は気付く。異性を家に招くという事はハードルがえげつない程高い、と言うことに!

それに、俺の誘い方も不味い。こんなのカッコイイとか、クールとかじゃ無くてただのナンパ野郎じゃないか!?←よく、ナンパとか知らないけど。


「そ、そ、それにまだ雷がなってるし、今の雫を見ていると逆に心配だよ。な、な、何もしないから!」


俺は慌てながら、そう伝える。


「……えっ、そうなの?そうなんだ……だよね。」


でも、雫はなんだか微妙な表情になっていたのはよく俺には分からなかった。


「じゃあ、いいって事で俺ん家に入るよ。っと……少し急がないとね。」


体温が高めの俺も、雨に濡れた事により肌寒くなって来た。早くタオルで拭いたり、お風呂に入って体を温めた方がいいな。


「……お、お邪魔します。」


雫は観念したのか、雨で濡れているのにも関わらず、顔を真っ赤にしながら言うのであった。


──相変わらず、可愛いやつだ……なんて、体が寒くても、心はいつまでもポカポカなままの俺なのであった。

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