第73話、慟哭に叩きつけられて、何もできないまま


SIDE:潤


気付けば私は、空の住人となっていた。

空気は澄み渡り、風も心地良い。

背中には、セロファンの羽を間断なく振るわせる二匹のハチのぬいぐるみさん。

これが、何の憂いもない遊覧飛行ならば、まさしく最高の日和だったのだが。

眼下に広がる、緑茂く森を侵食し、埋め尽くすような闇色の斑がその気分を台無しにする。


それは、無数の魔物の群れだ。

まるでどんよりとした黒雲が広がっているかのようなその様は、一瞬私の感覚を狂わせる。

上下が逆転してしまったかのような、そんな気分になる。


私は遅いくる酩酊感を首を振って払い、目的地を見据える。

それは、森と魔物たちに紛れた詩奈ちゃんのいるテント。

あるいは台風の目、そこだけぽっかりと魔物のいない虹泉のある場所。


そこには、一見すると誰の気配もなかった。

詩奈ちゃんは虹泉が二つあると言っていたけど、遠目からはそれははっきりと分からなくて。

どちらに向かうか、なんて考えるまでもなかった。


「森の切れ目の辺りに降りてもらえる? ある程度近づいたら戻ってもらっていいから」


私は、背中のハチさんたちを通じて棗ちゃんにそうお願いする。

返事の代わりに、下方に掛かる負荷。

みるみるうちに森が近づいてきて。



「……っ!」


それも織り込み済みではあったけど。

私の存在に気付いた闇色の魔物たちが、一斉にこちらを向く。


「ここでいいわ、降ろしてっ」


叫びとともに、私から離れていくハチさんたち。

闇の魔物たちの目は、一時そちらを向いたけれど。


「あなたたちの相手はこっちよ!」


自分の存在を誇示するみたいに、私は抑えていた異世を展開。

その手には吟也からもらった宝物を携え、大気を、大地を震わせて……テントの前へと降り立つ。


魔物に囲まれている詩奈ちゃんのテント。

半ば崩れかけ倒れかけている。

さて、どう周りの魔物たちをあしらいながら中にいる詩奈ちゃんを救出すべきか。

これで向こうがしかけてくるならば、今まで停滞していたこの状況を変えてしまった……戦いの引き金を引いてしまうことになるんだろう。


何もしなければ何も起こらなかったかもしれないのに。

そのことに対する責任は取るつもりだった。

もっとも、真希先輩の許可も得ずに独断で行動している時点で、そんなこととっくの間に覚悟済みではあったが。


「……?」


しかし、テントを囲む無数の魔物たちは一様にこちらに注目するも、襲ってくる気配はなかった。

その時脳裏によぎったのは、キクちゃんと『デリシアス・ウェイ』との戦い。

キクちゃんは今も、『デリシアス・ウェイ』に、その意思を乗っ取られまいと戦っている、ということ。


そう考えると、この状況にも辻褄が合う気がして。

私は魔物たちを油断なく見据えながら、テントの扉代わりの幕を開け放つ。



「……っ」


とたん、そこから飛び出してくる闇の靄。

二度目のそれを見て最初は驚いたけど、すぐにピンと来た。


それは姿、あるいは気配を隠すためのキクちゃんの力だ。

なるほど、周りの魔物たちと同じ色をしている。

私はそれが完全に抜け出るのを待った後、そのままテントの中に入っていって。



まず目に入ったのは、むちゃむちゃに壊されたカメラなどの機材だった。

証拠隠滅か。八つ当たりか。

きっとそれは『デリシアス・ウェイ』の意思であり、キクちゃん自身の鬱屈したものの現れなのだろうけど。

大々的に壊されていたのはそれだけだった。

被害を免れたこたつ机……こたつ布団に埋まる形で、詩奈ちゃんが眠っている。



「詩奈ちゃんっ」


二度目である、その光景に安堵しつつ私は声をかける。

大丈夫、まだキクちゃんは取り返しのつかないその前で留まってくれている。

一方の詩奈ちゃんは、目覚めはしないもののうむむ、と反応し寝返りを打っていた。


私はそれに苦笑しつつも彼女を背負い、この場を出ようとして……。




「……っ!」


その瞬間、外の空気ががらりと変わった気がした。

言葉なき魔物たちであるのにも関わらず、落ち着かず騒然としているのが手に取るように分かるのだ。


「詩奈ちゃん、ちょっと起きられる?」


どうやら、私以外の一石による変化が、魔物たちの間であったらしい。

このままでは危険かもしれないと、私は詩奈ちゃんの肩をゆすり起こそうとする。



「……っ、ま、待てっ、今更隠し通せるものではないぞっ!」

「わっ」


すると、こっちがびっくりするくらいの大声で、目を覚まし起き上がる詩奈ちゃん。

しばらく状況が飲み込めず、目をしばたかせていたが。

その瞳で私のことを捉えると、勢い込んで叫んだ。



「潤さま、彼女を、喜久さまを止めるのじゃ!」

「うん。わかってる。一緒に来て!」


その時、私は詩奈ちゃんの止めるという言葉の意味を、本当の意味で理解してはいなかった。

とにかく時間がなくておかしな胸騒ぎがあって、ろくに考えもずに連れ立ってテントの外に出たわけだけど。


テントを出てすぐ。

目に入ったのは魔物たちの群れ。

彼らの誰もが一様に空を見上げている。

私も詩奈ちゃんもその統制の取れた行動に、思わずつられるように空を見上げて……。



「……あぁ」


そこにいたのは、それこそため息をつくほどに美しいプリズムの粉蒔く、七色の翼を生やした……吟也の姿だった。

その虹の翼を優雅に羽ばたかせ、こちらに向かって降りてくるのが分かる。


いや、おそらく吟也が向かっているのは虹泉のほうだろう。

その紅い瞳は一点を見据えているようで、こちらを映してはくれない。

私はそんな吟也がから目を離せまいまま、深く息を吐いた。



……今までのことは、何もかも嘘だったの?



違う、そうじゃない。

分からず屋の吟也が、私の忠告やお小言なんて聞いてくれないことくらい百も承知だ。


自分もついていっていいかと聞いてきた吟也。

それを禁じた私。

それに吟也が大人しく従う人物なら、きっと私はこんなにも惹かれてなかった。


たぶん吟也には、私のいらぬ心配を押しのけてまでやらなくちゃいけないことがあったんだろう。

それは、よくよく考えてみれば分かることだった。


魔物を生み出す装置として、破壊される運命にある虹泉。

ものだと認識されている虹泉。


それが本物かどうかなんて、破壊する側には関係ない。

でもきっと、吟也にとってみればそうじゃないんだ。


もしそこにあるものがカチュのような魂の宿ったものであるならば。

命の危機に瀕したピンチの女の子がそこにいるのならば。

吟也は何より早くそこへ向かうだろう。

だって吟也が失う痛みを、何もできなかった悔しさを誰よりも知っているから。



(そう言えば。なんで気付かなかったんだろ……)


魂が軋むような本気の涙。

まだ出会ったばかりの幼い幼い頃。

吟也のその涙をぼぅと見ていた私は、あまりに今更なことを思い出し、詩奈ちゃんを見つめる。



吟也が失った大切な人。

吟也のたったひとりの妹。

名前だけがそこにあって、生まれてこなかった女の子。

そう、たしか『しいな』って言ったっけ。



偶然に決まっているのに。

今この状況になんら関係ないはずのことなのに。

何だか私は妙にそれが気になっていて……。



「……っ」


私には聞こえないほどの小さな、詩奈ちゃんの呟き。

呼び声にも聞こえたそれ。私が詩奈ちゃんを思わず凝視していると、しかし詩奈ちゃんは気を取り直すように……いや、一層焦った様子で声をあげた。


「まずいぞ。早く止めねばっ!」


そしてそのまま、私どころか魔物たちすらも歯牙にかけず、駆け出す詩奈ちゃん。

私も、慌ててその後を追っていって。



テントから虹泉まではすぐ側だったはずなのに、随分と長く感じた。

それは、周囲を圧迫するだけど何もしてくる様子のない、魔物たちのせいもあったんだろうけど。


「……あぁっ」


やがて辿り着いた紅葉台山の頂上。

森の切れ間の、虹泉があるはずの場所。

聞こえてきたのは、絶望に膝を折る詩奈ちゃんの声。

私も慌ててその横に並んで。


「キクちゃんっ!」


知らず知らずのうちに出たのは、悲鳴に近い声。

いつの間にか、そこにあったはずの虹泉がなくなっていることにも気付かず、私はキクちゃんに駆け寄っていた。


「キクちゃん、大丈夫? どうして、こんなっ……」


キクちゃんは全身が血だらけだった。

髪も頬も、その小さな手も。

真っ赤な色に染め、その血溜まりの中、立ち尽くしている。

私の呼びかけにも、反応を示さない。

その瞳はうつろで意思は感じられず、私を映そうともしなかった。


一体何があったの? 吟也はどこ?

私は目の前の光景に眩暈を覚える。

ふやけ始めた視界の中、キクちゃんに触れようとして。



バチィッ!


「……っ!」


だが、それすらも叶わなかった。

キクちゃんの恐ろしいまでの質量を誇る異世が、それを拒絶していたからだ。



「……どうして」


何もできず何も聞けず。

呆然とするしかない私。

そんな私に向かってではないだろうけど。

不意に聞こえてきたのは、低い低い呟きだった。

明らかにキクちゃんであってキクちゃんでない、そんな声。


もしかして『デリシアス・ウェイ』に乗っ取られているのだろうか?

私はしっかと彼女を見据え、次の言葉を待つ。



「何故、避けもしない? 私を殺しにきたわけではないのか……? なぜっ、抵抗しないっ。なぜっ、助けなどと口にする……っ!」


ぎりりと、歯も折れよとばかりの怒り。

その中には理解不能なものに対する疑問と戸惑いと、そして恐怖が渦巻いている。


と。そこで初めてキクちゃんは私の姿を視界に入れる。

とたん、取り戻したように見えた目の光。

様々な感情が浮かんでは消え、私を見つめ、自分の手のひらを見つめる。

血に染まった自分を見回す。

するとその身体は小刻みに震えだし、耐え切れなくなって。



「ご……ごめ、ごめんなさいっ! わたし……殺しちゃった! 潤の大切な人なのに、大好きな人なのに……わたしが、わたしのせいで……あああああぁぁぁっ!」


ついには爆発する、キクちゃんの慟哭とともに。


「っ……はっ」


それは、ギリギリまで我慢し、押さえ込まれていた異世の咆哮だ。

私は、絶望の淵へと沈むキクちゃんに、何も応えてやれないままに吹き飛ばされる。


私がその時出来たことと言えば。

同じく吹き飛ばされる詩奈ちゃんの姿と。

闇色の異世を際限なく生み出し、それを纏って天に向かって翔びゆくキクちゃんの姿を確認することのみで……。



             (第74話につづく)






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