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 さらなるカツアゲ被害に遭うこともなく、なんとか家の近所のコンビニにたどり着いた坂本は、足を引きずりながら自動扉を抜け、明るい店内に入るとほっと息をついた。


 コンビニは、壁内企業が経営主体なので、壁外の店の中ではダントツに明るくきれいだ。店内の品も、壁内の店と比べれば品質や種類は劣るものの、ほぼ壁内のものとかわりないとあって、壁外の人間の多くが少ない実入りをコンビニで散在する。実際、自炊しようにもスーパーの品ぞろえは薄く値段は高く、電気代やガス代も高い。長時間労働で自由な時間もほとんどない現状、大量生産のできあい品を買った方が効率がいい。そんな事情もあり、一定の利用者が見込めるコンビニ経営は職の少ない壁外では主要な職業選択肢の一つになっている。むろん、在庫品をおしつけられたりせっかく軌道に乗った店を乗っ取られたり長時間労働を強制されたりと、ブラックな搾取労働ではあるのだが。


 坂本はよろよろと店の奥に進むと、人目のないことを確認してそっと靴を脱ぎ、靴下を脱いだ。脱いだ靴下の中に手を突っ込み、中から四つに折りたたんだ紙幣を二枚取り出す。

 坂本はいつも、稼ぎを靴の中と首からぶら下げたきんちゃくに分けて入れている。そうすればカツアゲにあっても、半分は無事な確率がおおきいからだ。紙幣が少々足のにおいで臭くなるが、そんなことを気にしていたらこの壁外では生きていけないのだ。


 坂本はレジに行くと、ズボンのポケットからくしゃくしゃになった請求書を数枚取り出した。数ヵ月滞納した電気代の合計は、一万六千八百円。とりあえずそれを支払うと、さらに何枚か新たな請求書を取り出す。水道代だ。こちらは八千九百六十円。足りない。坂本は鼻でため息をついて二枚の請求書をポケットにしまうと、残り一枚、二千四百二十円ぶんだけ支払い、残りの金でおにぎりを三個買うと、店を出た。


 明るいコンビニとは対照的に、暗く陰鬱な街を歩く。切れかけた街灯がところどころ点滅しながらついてはいるが、長い間整備されておらず亀裂の入った道の端にはゴミが散乱し、ホームレスがうずくまって異臭を放っている。薬でもやっているのか、やけにテンションの高い若者集団が駐車場跡地で大声をあげて騒いでいる。時折混じる女の泣き声から勘案するに、薬をキメてレイプでもしているのかもしれない。関わり合いになるのはごめんだ。ズキズキと痛む体を必死で動かして、坂本は自宅のアパートの朽ち果てた階段を上がると、鍵を開けるのももどかしく中に飛び込んだ。


 室内はしんとして真っ暗だった。台所の水道から、水滴のしたたり落ちる音がかすかに聞こえるのみだ。だが、つきあたりにある扉の隙間からは、細く明かりが漏れている。坂本は靴を脱ぐと、手にしていた荷物を足元に置き、おにぎりの入った袋だけ持って、奥の部屋につづく扉をたたいた。


「オヤジ、帰ったよ。遅くなって悪かったけど、夕飯、ドアの前に置いておくから」


 中から返事はなかった。いつものことだ。坂本はドアの前に出されているゴミを拾うと、代わりにおにぎりの二個入った袋を置いた。


 坂本の父親は、数年前から完全に引きこもり、外に出られない状態が続いている。


 それまではなんとか、道路工事や廃炉作業などでそれなりの実入りはあったが、高所から転落して腰を痛めてからは思うような職が見つからず、徐々に精神を病み、やがて、家から一歩もでられなくなってしまった。坂本が「売り」を始めたのは、そんな父親を食べさせなければならないからだった。


 父親の唯一の娯楽は、ネットだ。ネットをやるようになってから、暴れることなくおとなしく部屋に閉じこもっていてくれるようになり、坂本はずいぶんホッとしたものだ。ゆえに、無制限でWi-Fiをつけ、電気を絶やさず、父親が快適に過ごせる環境を整えている。坂本はそのWi-Fiを利用して家ではメールで連絡は取れるが、電話をつける余裕はない。そのため、外出すると学校のネットにつなぐ以外連絡手段がなくなる。が、坂本は別に全然かまわないと思っていた。本気で連絡を取り合いたい友人など坂本にはいない。坂本にとって他人は利用価値があるかないか、それだけの存在であり、ラインやメールでベタベタなれ合うのはうっとうしいと感じていた。


 坂本は電気をつけようとスイッチに手を伸ばしかけたが、やめた。月明かりでうっすらと中の様子は見える。水ももったいないので手も洗わずに一個だけ残ったおにぎりを食べると、坂本は台所の片隅に置かれていた寝袋に入り、全身の痛みをこらえながら浅い眠りに落ちた。



☆☆☆



 翌日。痛む体を引きずりつつ、それでも坂本は学校に向かった。

 

 学校の出席日数は厳しく管理され、一日でも規定に達しなければ即留年となる。留年すると、それまでのように無料で教育を受けることができず、既定の授業料を納めなければならない。ある程度の治安と労働力レベルを維持するためだろう、壁の中の富裕層は唯一、教育にだけは税金を回してくれる。おかげで、中学までは公教育は無料で受けられるのだが、逸脱者にまでその恩恵を分け与えられるほど潤沢な資金があるわけではないのだ。中卒資格が得られなければ、産業廃棄物処理場などの危険労働に従事する以外に生きる道がなくなる。皆が多少無理をしてでも学校に通うのはこのためだった。


 ひと足歩くたび、胸や足に引き裂かれるような痛みが走る。打撲だけではなく、ひょっとしたら骨もやられているのかもしれない。が、医療保険が崩壊した現状、民間保険に入れない貧乏人は気軽に医者にかかることもできない。そのうえ、昨日儲けを奪われてしまったせいで、今日もまたあの町に出向いて「仕事」をしなければ、水道がとめられてしまう。家賃も先月分を滞納したままだ。倒れているわけにはいかないのだ。

 なんとなくフラフラする感じもあったが、昨夜おにぎり一個しか食べていないせいだろうと気を取り直すと、教室の扉を開けて自分の机に目を向け、坂本は動きを止めた。

 自分の机の上に、何かが山のように積まれているのだ。


「……」


 坂本は入り口に立ったまま、目を凝らして自分の机の上に積まれているものを見た。ぐちゃぐちゃに丸めた紙の山に紛れて、ほこりやちり、黒くなって異臭を放つバナナの皮、カラのビニール袋、折れた鉛筆が顔をのぞかせている。そばには、クラスの片隅に置かれていたゴミ箱。どうやら、その中身がぶちまけられているらしい。

 坂本は入り口に立ったまま、ゆるゆると首を巡らせて仁科と前川が座っている前よりの席を見やった。前川と仁科は額を寄せて何か話していたようだったが、ちらりと横目で坂本を見やり、クスクスと肩を揺らして嗤った。


――そういうことか。


 坂本は鼻でため息をついた。いじめのターゲットが移ることはよくある。向坂への興味が薄れた前川は、坂本を次のターゲットに選んだのだろう。それを進言したのは、おそらく仁科だ。昨日のことをよほど根に持っているらしい。


 前方に向けた流れで、なにげなく前黒板に目線を移した坂本は、その目を大きく見開いた。前黒板いっぱいに、赤やら青やらいろいろな色を派手に使った、ヘタクソな絵が描かれているのだ。四つん這いになった裸の男が、後ろから禿げたオヤジに腰を掴まれ、ケツに一発ぶち込まれている下世話な絵だ。裸の男のくちもとには漫画的な吹き出しが描かれ、「あーん気持ちイイ~」「もっと突いて~」などと、卑猥ひわいなセリフが書かれている。その絵の上部には、白い文字でデカデカと「誰とでもヤル男、坂本かずさ」という文言が書かれ、周囲には「誰かボクを買って~」だの、「尻穴かっぱかぱ」だの、「一回千円にまけとくわ☆」など、目も当てられない文言もんごんが書きなぐられている。


 坂本は数刻、言葉を失ってその下劣な絵を見やっていた。教室の中にいる生徒たちは、気まずそうに坂本から目をそらすものもいれば、小声でひそひそと何か話し合っている者、クスクスと笑い合う者、われ関せずでそ知らぬふりをする者がいたが、だれ一人坂本に声をかける者はいない。


「……ぷっ」


 突然、こらえきれなくなったように、入り口に立ち尽くしていた坂本が吹き出したので、ひそひそ話し合っていたものも、クスクス笑っていた者も、みんな話をやめて坂本を見た。坂本は入り口に立ったまま、肩を揺らして笑いをこらえていたようだったが、やがて耐え切れなくなったように大声で笑い始めた。


「あっははははははははは……」 


 笑いながら自分の席にスタスタと歩み寄ると、持っていたカバンで机の上のゴミを乱暴に薙ぎ払う。ゴミは思いっきり周囲にまき散らされ、周りの席の生徒の机の上を汚したが、坂本はかまうことなく自分の席に着くと、ゴミの下から現れた、机の上にでかでかとチョークで書かれた「死ねクズ」という文字を上着の袖で乱暴にふき取り、ズボンのポケットに両手を突っ込んで机の上に両足を載せると、黒板の絵をバカにしたように眺めやった。


「ばっかじゃねえの? 誰が千円なんかでやるかっつうんだよ。俺の相場は桁が一個違えんだよバーカ」


 小声でつぶやきながらも、坂本は黒板の絵を消す気にはならなかった。坂本が売りをやっているのは厳然たる事実であり、あの絵はあたらずとも遠からじだなと思ったからだ。実際、昨夜の「アイ」にしろ、金を払うやつらはあの黒板に書かれているようなことを想像して坂本を買っているに違いない。先日、石田結菜に自分がいじめの首謀者だったことも知られてしまった。坂本にとってはそれ以上ショックなことはないわけで、別に今更、クラスのバカどもに売りが知られたところでどうということもなかった。教師が入ってきてこれを見たところで、怒られるのは坂本ではなくこれを書いたヤツだ。自分がどう思われようが、もうどうでもいい。クラスの連中がおびえたような表情で坂本を遠巻きに眺めやる視線を感じながら、坂本はうつろな表情で、見るともなく汚らしい黒板を見ていた。


 その時だった。

 誰かががたりと席を立つ気配がした。


 席を立った「誰か」は、無言のままスタスタと前黒板に歩み寄ると、黒板消しを手にとり、大きく左右に動かしながらその汚らしい絵を消し始めた。ぼんやりと黒板に目を向けていた坂本は、その人物に視点を合わせたとたん、心臓が口から飛び出すかと思った。一心に汚らしい絵を消してくれているその人物は、彼がひそかに思いを寄せていた人物、石田結菜にほかならなかったのだ。


 石田結菜の勇気ある行動に感化されたのか、内心不愉快に思っていたらしい女子たちが数人、その行動に加わってくれた。石田は「ありがとう」と、いつものあの天使のような笑顔で女子たちに頭を下げると、黒板消しを片手に持ったまま、窓際の席に座る前川と仁科を鋭く見据えた。


「こういうことするヤツって、ほんっと、最っ低だよね」


 彼女にしては低い声で吐き捨てると、黒板消しを置いてスタスタと自分の席に戻り、ポケットから取り出したハンカチで手についたチョークの粉を拭きとる。坂本はその後ろ姿を、信じられない思いで見つめていた。

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