1-9
坂本がおぼつかない足取りでホテルを出た時には、夜のとばりがすっかり薄汚い町を包んでいた。
壁内直通バスの最終が出るまでにまだ時間があったため、アイが食事でもおごってくれるかと坂本はちょっと期待したのだが、コトが終わるとアイは、ベッド上でぐったりしている坂本を放置のまま、自分一人でさっさとシャワーを浴びて着替え、ホテルの支払いを済ませて先に出ていった。まあ、そういうヤツだってのはセックスの仕方を見てればわかるよなと苦笑いしつつ、坂本は胸もとに感じる現金の存在を左手でそっと確認し、周囲に隙なく目線を走らせた。
行為の後は、どうしても足取りがおぼつかなくなる。見る人が見れば、これが「そういう行為」の後だということはすぐにわかってしまう。そして、「そういう行為」をした後の中高生は、身分不相応な大金を持っているということも、このあたりにいる人間にならすぐにわかることだった。今この時が、この仕事をするうえで最も危険な時なのだ。
案の定、坂本はさきほどから背後に視線を感じていた。たぶん、ホテルを出た直後からつけてきているのだろう。詳しい人数はわからないが、どうやら複数人いるようだ。
「……ちっ」
坂本は小さく舌打ちすると、足を速めた。こんなことなら、金をケチらずバスに乗って帰ればよかったと少し悔やんだが、バスに乗ったところで降車するまでつけられれば関係ない。狙われたらそれで終わりなのだ。それなら、できるだけ人通りの多い明るい通りを選んで帰った方が逃げるチャンスは多い。
坂本はできるだけ早く歩きながら、曲道や路地をくねくねと曲がり、追手の目をそらそうと試みる。が、いかんせんアイの自己中な行為の後の痛みがひどく、思ったほどのスピードは出なかった。追手をまくことにばかり気をとられているうちに、つい人通りの少ない路地に入り込んでしまい、しまったと思ったが後の祭り。入り込んだ物寂しい路地の両側から、いかにもファーストフード漬けといった感じで太った男と、いかにも路上生活者然とした男が三人現れ、挟み込むような形で坂本は追い詰められた。
「……なんだよ」
壁際に追い詰められた坂本が上目遣いに睨みつけながら低い声で問うと、太った男はハッと鼻で嗤った。
「なにって、わかってんだろ。金だよ金。あのオヤジから巻き上げた金、もってんだろ? 俺によこせや」
「もってねえし。なんのことだかわかんねーっつーの」
「とぼけても無駄だ。俺たちはな、おまえが男とホテルに入るのを見てるんだよ。おまえの前に、ガタイのいい男が出ていったが、あれとヤッたんだろ? なら、あがりがたんまりあるはずだ。出せよ」
「知らねーって。何の証拠があって言ってんだよ」
太った中年男は、ホームレス男たちに顎をしゃくって合図する。ホームレス男はうなずくと、一人が背後から坂本を羽交い絞めにし、もう一人がバタつく足を押さえつけた。
「なにすんだ、離せよ、離せ!」
叫ぶ坂本にかまうこともなく、もう一人のホームレス男がその手からカバンと紙袋をもぎ取ると、逆さに振って中身を路上にぶちまける。散乱した薄い教科書や筆箱、着替えの制服を乱暴にかき分け、からにしたカバンを隅から隅まで調べつくすも、しかし金の存在は見当たらない。ホームレス男が首を横に振ってそれを太った男に告げると、太った男は薄い眉をきつく引き寄せた。
「なら、身に着けてる可能性がある。裸にひん剥いて調べてみろ」
坂本を羽交い絞めにしていた男はうなずくと、セーターを脱がしにかかった。
「やめろって、なにすんだこのタコ! 汚い手で触んじゃねえ!」
坂本は息をのんでその手を振り払い、セーターを取られまいと暴れたが、背丈も体格も身長百六十八センチの坂本をはるかに上回る巨漢のホームレスにかなうわけがない。あっさりセーターを脱がされ、今度はワイシャツの合わせに両手をかけ、左右に思い切り引っ張った。ボタンが飛び散り、無理やりはだけられた首元にひもでかけられた、小ぶりのきんちゃく袋が現れる。太った男はにやりと口の端を上げると、両腕をホームレスに拘束された坂本に歩み寄り、首から下げられたきんちゃく袋を無理やり引きちぎって奪いとった。
「やめろ! 返しやがれ!」
坂本の叫びなどどこ吹く風で、小太りの男はきんちゃく袋の中をのぞく。折りたたんだ万札が入っていることを確認すると、満足そうな笑みを薄い唇にうかべた。
「じゃ、あとは適当に黙らせといてくれ。そこまでがさっきの料金分だ。よろしくな」
鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌で男は踵を返し、路地の外へ歩いていく。
「くっそ! 待て! 待ってたらこの豚野郎!」
慌てて追いすがろうとした坂本の腕を、ホームレス男の巨大な手のひらがむんずとつかむ。ハッとして振り返りかけた坂本の横っ腹を、男が力いっぱい蹴り飛ばした。路地の壁にたたきつけられた坂本の髪を掴み、その頭を壁にたたきつける。激痛と衝撃で遠くなりかける意識を引き留めながら、坂本は必死に横目で太った男の姿を追った。男は軽い足取りで路地の外に出、右に曲がってその姿が坂本の視界から消えた。もうダメかと坂本が抵抗をあきらめかけた時。
先ほど路地を右に曲がったはずの太った男が、なぜか後ずさりしながら再び路地の入口に姿を現した。
――?
地面に引きずり倒され、蹴りの雨を受けながらも、坂本が必死で路地の入口に目を向けると、太った男はどうやら、誰か別の人物に威圧されるようにして後退してきていたらしい。太った男の体が再び路地に入りこむと、彼の前に立つ男の姿も視界に入ってきた。
身長は背の低い太った男より十センチほど高いだろうか、後ろから入ってくるネオンの逆光で分かりにくいが、黒髪に、黒いシャツ、黒い前掛けに黒いズボンを着けた、黒づくめのバーテンダー風のいでたちをした若い男のようだ。ただ、背はそれなりに高いものの、年齢はそう高そうにはみえない。坂本と同じくらいかもしれない。その男をどこかで見たような気がして、雨のように襲ってくる蹴りから頭を守りながら、坂本は必死で目を凝らした。
黒服の男が鋭い目線で太った男をにらみ下ろすと、太った男は困ったような愛想笑いを浮かべてみせた。
「……いや、だからね、今からお店に行こうと思ったんだよ。先月の支払いだろ? ちゃんとここに用意したから」
太った男は額に浮かんだ脂汗をぬぐうと、坂本から奪い取ったきんちゃく袋を開けて、中から数枚の札を取り出した。それを見て、坂本の顔から血の気が引いた。
「……っと待てよ! それ、俺のカネだろ! 勝手に使うんじゃねえ、この泥棒野郎! おいおまえ、その金は俺んだ。俺が正当な方法で稼いだ俺の金だ! こいつの金じゃねえ、返してくれ!」
黒服の男は冷えた視線をちらりと坂本に向けたが、太った男から受け取った金を無言で数え始めた。が、すぐにその凛々しい眉をきつく引き寄せた。
「こんなんじゃ全然足りないっすね……おっちゃんの未払い分は、現時点で合計百六〇万八千五百円。今月分が払えなかったら体で払ってもらうって約束、忘れてないっすよね。不足分の百五十八万八千五百円分、肝臓とか心臓なら数千万で売れるんで、今すぐ黒医者に売って、金に換えてきてください。俺も一緒について行くんで」
「心臓!? 冗談じゃない、そんなことをしたら終わりだろうが!」
「……さあ? でもまあ、自己責任じゃないすか? 金もないのにさんざん支払いを踏み倒した結果なんですから」
「ふざけるな! おまえみたいな青二才に、自己責任呼ばわりされるいわれはないっ!」
太った男は声を裏返して叫ぶと、路地の奥を振り返った。
「おい、おまえたち、そいつはもういい! 今、ここにいるこいつを殺ってくれたら、この二万円を追加で支払う!」
二万円という言葉を聞いた途端、坂本をけり倒していた男たちの動きがぴたりと止まった。三人で目配せしてから、おもむろに路地の入口にいる黒服の男の方へ歩いていく。坂本が息を切らせながら必死で頭をもたげて路地の入口に目を向けると、黒服の男は、ホームレスたちに取り囲まれていた。
「こいつをやったら、こいつが持ってるその金の袋はおまえたちのものだ。いいな、必ず殺せよ! 絶対に追ってこれないようにするんだ、いいな!」
太った男は言い捨てると、脱兎のごとく路地を飛び出して走り去った。
あとに残された黒服の男は、自分をにらみ下ろしてくる二メートルはあろうという巨漢を見上げながら、小さく鼻でため息をついたようだった。
――あー……死んだな、こいつ。
どう考えても、おそらく自分と同年代のこんなガキに、この巨漢をぶちのめす腕力があるとは思えない。二万円は痛いが、この男が現れたおかげでターゲットが移り、命をとられなかっただけありがたいのかもしれない。坂本は二万円をあきらめると、無用な惨劇を見ないで済むように目を閉じた。
坂本的には目の前で誰かが殺されようが、そんなことは知ったことじゃなかった。それよりは、あんな思いまでして稼いだ金が、このやたらとガタイのいいホームレスにむざむざ持ち去られてしまうことの方がよっぽど痛かった。坂本にとっては、他人の命などとるにたらないものでしかない。自分たち壁外の人間の命など何の価値もないゴミであり、死のうが生きようが社会に大した影響を与えるものでもないと思っていた。自分自身を価値あるものとして尊重することができない人間が、他人の命を尊重することなどできるわけがないのだ。
声は聞こえなかった。何かが風を切る音と、体がぶつかり合う気配、何か重量のあるものが倒れたような重い音が響いた気がした。が、それだけだった。すぐに路地はしんと静まり返り、路地の向こうからかすかに町のざわめきが響いてくるのみとなった。事が済んだのだろうか。
――やけに早いな。
あの三人はあっという間に黒服の男を殺して、二万円を持って逃げたのだろう。だとすると、死体と一緒にこんなところに転がっていたら、自分が殺人者と誤認されるかもしれない。警察機構の存在しない壁外では、犯罪者は取り締まられることはないが、私刑と報復が横行している。事の真相もわからないままで一方的に恨まれ、報復で殺される人間も多い。余計なごたごたに巻き込まれるのは危険すぎる。
坂本は勢いよく体を起こすと、さっさとずらかろうと、あたりに散らばる自分の荷物を拾い集めるために手を伸ばしかけた。が、何か違和感を覚えた気がしてその手を止め、じっと路地の入口を透かし見た。
路地の入口近くに、誰かが倒れているのが見える。黒服の男だろうと思ったが、それにしては体が大きい気がする。それも一人ではない。逆光で分かりにくいが、複数の人間が折り重なるようにして倒れているようなのだ。
坂本は立ち上がると恐る恐る路地の入口に歩み寄り、そこに展開していた光景に、息をのんで凍り付いた。
折り重なるようにして倒れているのは、ガタイのいいホームレス三人だった。
坂本は慌ててあたりを見回した。だが、黒服の男の姿は、すでに路地からは消えていた。
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