1-8

「……ってえ。ったく、本気で殴りやがんだからな仁科のヤツ……」


 坂本は口の中で呟くと、そっと左手をずきずきする頬にあてた。

 駅中の汚らしいトイレのひび割れた鏡に映る自分の顔を、坂本は目立つ傷がないかあちこち顔の向きを変えながら確認していたが、ふと考えこむようにその動きを止めると、すすけた洗面台に両手をつき、少しだけ切れて腫れている自分の唇の端をじっと見つめた。


――まるっきり、覚えてないってことだよな、アレは……。


 昨日のあれは、坂本にとっては紛れもない現実だ。だが、仁科は全く覚えていなかった。あの怒りようから見ても、脅されて口止めされているというよりは、まるっきり記憶がないと考えた方がいいだろう。つまり、記憶を誰かに消されたと考えるのが自然だ。


――記憶を消された?


 坂本は水沢きららに頭を掴まれたとたん、脳に両手を突っ込まれてぐちゃぐちゃにかき回されたような感覚に襲われたことを思い出した。加えて仁科は、水沢きららにキスをされることで身体的接触をしている。


――つまり水沢きららには、身体的接触を持った相手の記憶を消したり書き換えたりできる能力がある、ってことか?


 坂本は背筋に冷たいものでも浴びせかけられた気がして、ぞくりと体を震わせた。父親の件がらみで都市伝説には詳しい坂本だったが、そういう能力のある人間がいるといううわさは聞いたことがない。坂本が知っている異能系の都市伝説は「超人的体力と運動能力」を持つ人間に関しての情報だけだ。記憶を書き換える能力なんて現実にあり得るわけがない。

 そこまで考えて、坂本ははたと目を見開いた。


――いや、待てよ。


 都市伝説とは違うが、壁の外の一部地域を仕切っている、俗に「白」と呼ばれている宗教団体には、そういった「異能」を操る人間がいるという。噂ではなく、実際にそういった異能を持つ者を教団の幹部に据えていると教団自らが謳っているのだ。異能者たちはもともと教団には相対する立場だった者たちで、教祖の強大な力によって帰依したのだという話を、教団の宣伝車ががなりたてていたのを聞いたことがある。水沢きららがその教団の関係者だったとしたら、おかしな能力があることにも一応理由はつく。


 だが、坂本はすぐにその想像を却下した。坂本が住んでいる地域は「黒」と呼ばれている暴力団の管轄下にある。「白」の教団関係者なら、素直に白の管轄地にすむはずだ。教団幹部として受けられる優遇措置をみすみす見逃すはずはない。

 だとしたらいったい何者なのか。振出しに戻った気がして小さくため息をついた坂本は、何気なく腕時計に目線を流して息をのんだ。


「やっべ……あと五分しかねえし」


 大慌てで個室に飛び込んで、制服であるグレーのパンツから、紙袋から取り出したチェックのパンツに取り換える。数年前に廃校になった学校の制服だ。ネクタイも、あずき色から紺色のものに替え、ジャケットを脱いで紙袋に突っ込み、代わりにカーキ色のセーターを着る。着替えを終えると個室を出て全体を素早くチェックし、坂本はトイレを飛び出した。


 待ち合わせ場所は、駅前のバスターミナル。電車はとっくの昔に廃線になり、壊れかけた駅舎が物寂しい雰囲気を醸し出してはいるが、代わりに交通のかなめになっているバス路線の利用者はそれなりに多く、また、ここは壁内直通のバスが出ている交通の要所であり、営業している店の種類もよそに比べれば多い。壁内には比べるべくもないが、壁外の中ではそれなりに活気のある町なのだ。


 メールに書かれていた、壁内直通バスの乗降場に向かう。乗降場には何人か、坂本と同じく制服姿の中高生の姿が見られる。彼らと差別化が図れるよう、坂本はもう一つの目印である、今はもう売っていない古い雑誌をカバンから取り出すと右手に持った。

 間もなくバスが到着した。壁内直通バスだけあって、ほかのバスに比べると大型で新しい。バスから降りてくる人たちも、心なしか身ぎれいで高そうな服を着ている。スーツ姿の外資系ビジネスマンといった風貌の男が、坂本の隣に立っていたロングヘアの女子高生と連れ立って歩き去った。もう一人、坂本と同じくらいの年恰好の中学生らしき眼鏡女子は、小太りの禿げオヤジに声をかけられ、小さくうなずいて歩き出した。


 その後ろ姿を複雑な表情を浮かべて見送る坂本の肩を、誰かの手がポンとたたいた。振り返ると、背が高く体格のいい、眼鏡をかけた三十代くらいの黒髪の男が、坂本を見下ろしていた。


「えっと……エスくん、かな?」


 坂本は即座に営業スマイルを顔いっぱいに浮かべると、うなずいた。


「アイさんですか? はじめまして、エスです。今日はよろしくお願いします☆」


☆☆☆


 この町に大した産業はない。

 このあたりで食べていける「まともな」職業は、零細の小売りや自営業か、地域を統括する「黒」組織の管理するラブホやスナック、もしくは地域の公共事業か、外資系の廃棄物処理業か、中央政府軍に入隊するか、くらいしかない。人々は少ないパイを奪い合い、競い合い、他人を蹴落としてようやく職業にありつく。競争に敗れた者たちに救いの手はなく、臓器を売るか、性を売るか、自分自身を売りに出すか、そして、それすらままならない障害者や傷病者は、壁内のカネモチがたまに気まぐれで施す寄付を待ちながら緩慢に餓死するしか道はない。何らかの理由で保護してくれる親がいない、または扶養義務を放棄された子どもたちも、傷病者と同様、自分自身を売りに出すしか生きる道はない。


 自由競争促進のため最低限までそぎ落とされた法には人権保護の規定はなく、この国に生きる者たちの命や尊厳を守ってくれるものは「金」しかない。壁内の人間は、自前でさまざまな医療保険や損害保険をかけ、警備員を雇い、弁護士を雇って自分たちの財産や尊厳を守ることができる。だが、金のない人間は、自分の人権や尊厳、ときには命を切り売りしながら生きるしかない。


 労働基準法も撤廃されて久しく、壁外では当たり前のように子どもも労働に従事する。彼らが就くのは、たいていその若い肉体を切り売りする「仕事」で、なかでも、ネットを介した個人売春は人気の「仕事」だ。未成年の性搾取など人権保護された壁の中の人間相手では不可能だが、人権保護の薄い壁の外の子ども相手であればいくらでも可能なため、壁の中のカネモチたちがひっきりなしにサイトを訪れるのだ。人気上位になれば結構な収入が見込まれるとあって、ある程度の見てくれの子どもたちは、中学に上がるとこぞってこのサイトに登録する。


 坂本も三年ほど前から「エス」という名でこのサイトに登録し、廃校になった学校の制服を目印に「仕事」をしている。今ではサイト内では指名数上位に位置する人気の「売り手」である。「売り」の相手は男であることも、女であることもある。坂本にとってはどちらでも構わない。使うのが前だろうが後ろだろうが、最後にカネが手に入れば彼にとってはそんなことはどうでもいいのだ。


「いや、なかなかよかったよ」


 白っぽい体液にまみれてぐったりと横たわる坂本を満足げに見下ろしながら、アイはタバコに火をつけた。

 両手を縛られたままベッドの上に転がされている坂本は、その言葉に「……それはどうも」と小声で返した。

 アイはベッドに腰かけると、うつろな表情で隣に横たわる坂本のさらさらした茶色い前髪をなでながら、その体を無遠慮に眺めまわした。


「なあ。追加料金を支払えば、もう一回ってのは可能なのか?」


 坂本はその言葉を聞いたとたん、背筋に寒気が走った。あんな自己中な行為の相手をもう一度させられたら、出血どころではすまない。身の安全のためには、一回が限度だ。坂本は口を開きかけた。

 が、何を思ったのか言いかけた言葉を呑み込むと、しばらく考えるように黙り込んでから、おもむろに口を開いた。


「……いいですよ、前払いしていただけるんでしたら。ただ、ローションとゴムは必ずお願いします。生だと、病気をうつしあっちゃうかもしれないから」


「そうか、わかった。今金を持ってくるから」


 アイはパッと顔を輝かせると、ベッドを降りて自分の荷物の方へ速足で歩いて行った。

 その、いかにも体育会系な筋肉質の背中を見やりながら、坂本は口の中で小さくつぶやいた。


「……エイズでも肝炎でも、さっさと罹って死にやがれ、このクソ野郎が」

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