1-7

 頬を撫でる夜風の冷たさに、坂本はぶるっと身震いすると、目を開いた。

 視界に移りこんできたのは、無機質な白っぽい天井と、すすけた蛍光灯。冷たい夜風は、開いたままになっている窓から流れ込んでいるらしい。外はすっかり夜の闇に包まれているが、満月の出た夜空は明るく、月の光だけで室内の様子はある程度見渡すことができた。


――あれ、どうしたんだっけ、俺……。確か、水沢きららに屋上に呼び出されて、それで……。


 坂本はハッと息をのんで目を大きく見開いた。勢いよく上体を起こし、首を巡らせて周囲を見回す。

 目に映るのは、薄暗く広い室内に林立する書棚と、古臭い蔵書。書棚の間に置かれた安っぽいテーブルとパイプ椅子に、坂本は確かに見おぼえがあった。


――図書室?


 確かに学校の図書室だ。だが一体、どうして自分がこんなところにいるのか、坂本は全くわからなかった。あの時、確かに水沢きららに体を押されて自分は屋上から転落したはずだった。それがなぜ、こんなところで寝ていたのか。まるっきり脈絡のない展開に、坂本は戸惑った。


――まさか、あれが全部夢でした、なんて展開を狙ってんじゃないだろうな……。


 思わず鼻で嗤ったとき、ふっとゲロ臭いにおいが鼻をついた。体を見回してみると、制服にところどころ、吐瀉物らしき汚物の飛沫ひまつが飛び散っている。慌てて触れてみた口元にも、ぬるっとした汚物のあとが確かについている。

 水沢きららに脳をひっかき回されたあの不快感がよみがえってきて、坂本は思わずこみあげてくる吐き気を飲み下した。


――そうだ。自分は確かに水沢きららに呼び出された。このゲロ臭い制服が何よりの証拠だ。なんで図書室に寝ていたのかはよくわからないけど、とにかくあの屋上での出来事は事実だ。そして、水沢きららが俺を殺そうとしたことも事実だ。


 天使のような笑顔を浮かべつつ自分を突き落とした水沢きららの表情を思い返し、坂本はごくりとつばを飲み込んだ。あの殺人狂を殺人未遂で治安部隊に突き出さなければ、安心して学校に通うことなど不可能だ。だが、やつを罪に問える証拠はあるのだろうか? だいいち、何だか知らないが、自分は死んだわけでもなくなぜだか図書室に寝っ転がっていたわけで、いくら事情を説明したところで、彼女に呼び出された事実を知らない人間には、夢でも見ていたんだろうと嗤われて終わりだ。

 そこまで考えて、坂本はハッとした。


――そうだ、仁科だ。


 水沢きららに呼び出された事実を知り、一緒に屋上についてきた仁科。あの時、水沢にキスされて舞いあがったままどこかに行ってしまったが、突然キスするなどというあの行動自体、水沢きららの異常性を説明するのに十分な材料だ。彼なら、水沢に呼び出されたことを証明してくれるに違いない。


 坂本は立ち上がると、携帯を取り出した。とにかく自分の身を守るためには、自分の味方を一人でも多くつけることが必要であり、それには仁科の証言が何より必要だ。携帯で時刻を確認すると、二十一時十八分。学校のWi-Fiを生徒が無料で使用できるのは午後五時まで、それ以降はロックがかかってしまい使用不可だ。携帯は古い機械を知り合いに譲ってもらったものの、通話会社と契約はしていないため、無料Wi-Fiがない場所ではメールひとつ送ることができない。坂本は小さく舌打ちすると、ポケットに携帯を突っ込みながら、明日は絶対に仁科にこの件を確認しようと心に誓った。


 だが翌日、意気込んで昨日の件について質問した坂本を待っていたのは、予想外の展開だった。


「え? なんのこと?」


 仁科は、顔の周囲にピンク色の花びらでも飛び散らせているような平和そのものの笑顔を質問してきた坂本に向け、首を傾げた。

 お約束すぎるその腑抜けた返答に、坂本はお約束すぎる点目で呆然自失をアピってから、慌てて言葉を継いだ。


「なんのこと……って、覚えてないのかよ? 昨日の放課後、水沢きららに呼び出されて屋上に行っただろ、そこで」


 坂本がそこまで言うと、仁科は耐え切れないとでもいったふうに、周囲一帯に霧状の唾液を吹き散らした。


「水沢きららに呼び出されるって……をいをい坂本ちゃん、なに夢と現実を混同してんだよ。俺を担ぐつもりなんだったら、もうちょっと実現可能性の高い相手を持ってこいっての」


「いや、実現可能性も何も、事実、呼び出されただろ昼飯の時間に。で、おまえもついてきて、屋上に出る階段のところで水沢きららに会って、それでおまえ、水沢に思いっきりキスされてただろ! マジで覚えてないのかよ!」


 仁科はしばらくの間ぼうぜんと、すべての顔の開口部をまんまるく開いて機能停止していたが、やがてぎこちなく再稼働すると、坂本を上目遣いにじとっとにらみながら声を潜めた。


「あのさあ坂本……アニメだかゲームだかに毒されてんのかなんか知らんけど、そういう自分の欲望が作り上げた到底あり得ない展開をさも現実にあったみたいに語るのはやめてくれよ、恥ずかしいから。しかもその相手が自分でなくて俺とか、どこまで倒錯してんだよ? そういう妄想オナニーのおかずにされんの、正直キモすぎるし不愉快なんだけど」


「え? ……いや、マジで現実にあったんだって。俺は何も作ってない。現実におまえ、水沢きららと、思いっきり舌入れてそうな勢いで……」


 仁科は無言のまま、固く握りしめたこぶしを坂本の左ほおに叩き込んだ。

 吹っ飛ばされた坂本が机をなぎ倒しながら倒れると、クラスの中で談笑していた生徒たちが、驚いた様子で坂本達に目を向けた。


「いいかげんにしろよ、坂本。世の中には言っていい冗談と悪い冗談っつーもんがあるんだよ。覚えとけ!」


 耳まで真っ赤になった仁科は吐き捨てると、憤然と踵を返して教室外へ出ていった。

 坂本はなぎ倒した机に半分埋もれた状態でぼうぜんとしていたが、ふと視線を感じて窓際に目を向けた。そこにいたのは、向坂柊人と談笑していた石田結菜だった。石田結菜は心なしか悲し気な表情を浮かべて坂本を見ていたが、坂本の視線に気づくと、見てはいけないものでも見てしまったかのように、慌てて目線をそらした。

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