1-6
「……は?」
耳に届いたその言葉の意味が理解できず、恐る恐る聞き返した坂本に、水沢は波のない水面に映る虹のような美しい笑顔を浮かべつつ、再度、先ほどと同じセリフを繰り返してみせた。
「だからね、殺しちゃった方がいいんじゃないかなーっ、て」
「こ……殺すって、誰を……」
しどろもどろに問い返した坂本に、水沢は悪意のかけらもない顔で首をかしげてみせる。
「あんた以外、誰がいるの?」
「え……? な、なんで」
「んー、……そうだな。ウザいから?」
「ウザいって……」
思わず言葉を失う坂本をよそに、水沢は独り言のように言葉をつづけた。
「だって、どう考えても害悪じゃん。いじめっつったって、限度ってもんがあるよね。普通の人間だったら一歩間違えば死んでるし。やりすぎだって」
坂本の顔から、音を立てて血の気が引いた。
「しかもさ、陰で糸を引いていじめをエスカレートさせてたの、あんただってわかってマジドン引き。てっきり前川ってヤツが首謀者かと思ってた。ホント、最っ低だねーあんた。生きてる価値なし☆」
「……な、何その話、どこから……って、まさか、前川が?」
「ううん、あの男はなにも気づいてないよ。単純バカだから、あんたにけしかけられてたなんてまるっきり思ってないみたい。全部自分の意思でやったと思ってる。責任引き受けてる分、まだあんたよりマシだよね」
そこまで言うと水沢は、首をちょこんとかしげ、どこかおどけた様子で坂本に笑いかけた。
「ってことで、あんた死ぬってことでヨ・ロ・シ・ク。手っ取り早く屋上からダイブでいいよね? あんたたちがやってたことと同じことをするだけだし。あ、遺書も書いてもらおっかな」
水沢は言いながら、ポケットから紙片とペンを取り出した。彼女が右手に携えているそれは、いつの間に奪われたのだろう、坂本愛用のペンだ。そのペンを片手にじりじりと間合いを詰めてくる水沢の妙な威圧感に、坂本は一歩後退った。
――ヤバい、こいつはマジだ。いやでも、マジっつったって相手は女一人。逃げりゃすむ話だろ。しっかりしろ、一颯!
坂本は弾かれたように踵を返し、猛然と屋上出入り口を目指してダッシュした。一応足は速い方だ。あんな女に追いつかれはしない。
坂本が勝利を確信した、刹那。
屋上出入り口をふさぐようにして、誰かがそこに立ちはだかった。
そこに立つ人物の顔を見た瞬間、坂本は頭から冷水を浴びせかけられたようにゾッとした。彼がひそかに思いを寄せていた人物、石田結菜に他ならなかったからだ。
――い、石田さん? なんでここに?
石田は切羽詰まったような表情で水沢に向かって両手を合わせ、小さく頭を下げた。
「きらら、ごめん……気づかれてるかもしれない。一応足止めはしておいたけど、長く持たないかも……」
「そっか。しょうがないよ、あいつ最初っから感づいてたっぽいし。じゃ、なおさら早く済まそっか」
「でもきらら、殺すのはダメだよ?
「えー。ぬるくね? こんなカス、生かしといても意味ないし」
「ダメだって。目だったら余計まずいことになるよ?」
「わかったよもー、結菜はまじめなんだから」
石田結菜出現のショックで動けずにいた坂本だったが、背後に感じた気配にはっとした。振り向くまもなく、坂本の両のこめかみが、後ろから伸びてきた誰かの手に抑えられる。視界の端に映りこんだ白く細い指先は、水沢きららのものに違いない。坂本は慌てて首を振り、力任せに振りほどこうとした。
と、次の瞬間。
頭の中に両手を突っ込まれ、脳をグチャグチャにかき混ぜられるような感覚に襲われた坂本は、息をのんで硬直した。大シケの海をただよう小舟のように大きく視界が左右に揺れ、突き刺されるような鋭い痛みがこめかみを襲う。たちまち喉元にこみあげてくる嘔気に、坂本は慌てて口元を両手で押さえた。
坂本の背後に立つ水沢きららは、つま先立ちになって坂本のこめかみを押さえながら眉をひそめ、口を尖らせた。
「やだなー、こういう反応されんの。しょうがないんだけど。結菜、ちょっと後ろに下がってた方がいいよ。ちょっとキツめに入れるから、コイツマジで吐くかも」
結菜が一歩下がったのを確認した水沢は、集中するように目を閉じた。
次の瞬間。
「……!」
視界が大きく回転し、火花のようなきらめきが埋め尽くし、三半規管が悲鳴を上げる。脳髄をわしづかみされて引きずり出されているような感覚が怒涛のように襲ってきて、あまりの不快感に耐え切れなくなった坂本は、必死で水沢の手を振りほどき、床に手をついて四つん這いになると、胃の内容物をコンクリの床にぶちまけた。
背中を波打たせて嘔吐き続ける坂本を、水沢きららは腕を組み、眉をひそめて冷然と見おろした。
「……どうしたの? きららちゃん」
石田結菜が心配そうに声をかけると、難しい表情で立ち尽くしていた水沢きららは、ちらりと目線を石田に投げた。
「ん? 入りにくいんだよね、コイツ」
「入りにくい?」
「うん。かなり強めに侵入かけたんだけど、うまく入れない」
「……ホントに?」
坂本は床に這いつくばったまま、頭上を行き交うその会話を聞き流しながら、必死で考えていた。自分がいったい何をされたのかはわからないが、水沢きららに何か特殊な能力があるのは間違いない。頭の中をかき回された時は、本気で死ぬかと思った。というか、次はマジで殺されるかもしれない。だが、逃げようにも体は恐怖で縮み上がり、両足の震えは止まらず、力も入らない。吐き気も全く治まらないし、視界もグラグラ揺れてまっすぐに立てない。こんな状態では、出入り口をふさいでいる石田結菜一人すら跳ねのけることは不可能だ。どうやってこの場を切り抜ければいいのだろう。
吐瀉物まみれの坂本が、脳細胞を煙が出る勢いで高速回転させていると、嘔吐物をまたぐようにして細く白い足が目の前に立ちはだかった。ゆるゆると顔を上げかけた矢先、いきなり前髪をわしづかみされて無理やり引っ張り上げられ、坂本は激痛に息をのむ。
前髪を掴みあげている水沢きららは、そんな反応にはまるきり頓着なく、探るような眼で坂本の顔を覗き込みながら、こころもち低い声音で問いかけた。
「あんたさ、父親と母親の名前、なんていうの?」
「……へ?」
「父親と母親の名前。教えろって言ってんの」
なんでいきなり父親と母親の名前が出てくるのか、話の流れがまるっきり見えず戸惑いつつも、坂本はかすれた声でその問いに答えた。
「ち、……父親、は、坂本、颯太で、母親は、か、一葉……」
「坂本颯太に、一葉、ね……」
「知ってる? きららちゃん」
「ううん、わかんない。でも、パパや俊文さんなら知ってるかも。後で聞いてみよ。でもまあ、とりあえず……」
つかんだままの前髪を再度乱暴に引っ張り上げられ、思わず顔をしかめて息を詰めた一颯を、水沢きららは冷たい目線で見下ろした。
「記憶の
その言葉に息をのむと、石田結菜はなにか言いかけるように口を開いたが、言葉を飲み込んで目線を落とした。
「え……、」
嫌な予感を覚えつつも、一縷の望みにすがるように短く問い返した坂本に、水沢きららはその名にふさわしい、やけにキラキラした笑顔で笑いかけた。
「記憶が書き換えられないんなら、殺すしかないってこと☆ 暗示が効かないから遺書は無理だけど、他の人間の記憶を適当にいじってつじつまを合わせればどうとでもなるし。だ、か、ら」
水沢きららは坂本の前髪を掴んだまま、スタスタと屋上の端に向かって歩き始めた。激痛に叫び声を上げそうになりながら、たまらず彼女について歩き始めたが、このまま彼女に抗えなければ、おそらく自分に待っているのは「死」だということに気づいた坂本は、ハッと息をのんだ。怪しげな能力があるにしろ、相手は小柄で非力な女子だ。人並みの体力のある男子が抗えないわけがない。たとえそのために前髪がごっそり抜けてハゲようが、殺されるよりはずっとましなのだ。坂本は覚悟を決めると、反対方向に力いっぱい体を引き、逆方向である屋上で入り口に体を向けようとした。
刹那。
背中に固く鋭い何かの切っ先が押し付けられる感触を覚えた。
ぞっとして動きを止めた坂本の耳に、石田結菜のか細い声が届く。
「……ゴメンね、坂本くん」
いつもの、あのかわいらしい声が、心なしか震えている気がする。顔は見えなかったが、悲しげな表情を浮かべている気がした。
「でも、記憶が消せない以上、こうするしかないから……」
思いを寄せていた相手からの切なげな最後通告に、坂本の戦意は完全になえた。踏ん張っていた足から力が抜け、引きずられるまま屋上の柵の際まで歩くと、促されるまま柵を乗りこえさせられる。そこは偶然にも、向坂柊人に柵を乗りこえさせた、あの同じ場所だった。
ちらりと下方に目をやり、坂本はその高さに息をのんで足をすくませた。ここから落ちれば確実に死ぬだろう。視界の端では、水沢きららがまるで天使のようなほほ笑みを浮かべながら無言で顎をしゃくっている。その隣で、石田結菜がいたたまれない表情でうつむいている。彼女の手には、そのおっとりふんわりしたキャラには全くそぐわない、本格的な軍用ナイフが握られている。
――石田、さん……。
短かった人生が走馬灯のように頭を駆け巡る。楽しいことなんてあっただろうか。壁の外側の奴隷人生に未来はない。壁の外の人間の平均寿命は五十四歳。徴兵で生き残ったとしても、その後は危険物質の舞う廃棄物処理場に送り込まれてすぐに病気になり、医者にもかかれずゴミのように死ぬ運命だ。確かに、生きていてもしょうがないかもしれない。心残りがないと言ったらウソになるが、諦めるしかないのかもしれない。こうなった以上、どどうしようもないのかもしれない。
――どうしようもない……のかもしれないけど。
坂本は突然かっと目を見開くと、先ほどまでの諦めきった態度がウソのように、勢いよく後ろを振り返った。
「やっぱ死ぬとか冗談じゃね……」
「バイバイ」
次の瞬間。満面の笑顔を浮かべた水沢きららの右手が、坂本の肩を軽く押した。
「……!」
大きく重心が右側に傾き、完全にバランスを崩した坂本の体は、声を上げる間もなく重力にひかれるままに自由落下を開始した。
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