1-5
「帰れって言ってんだろ」
屋上への階段をのぼりながら、坂本は何度目かの同じセリフをうんざりした調子で繰り返した。
「い や だ」
仁科は、にべもなくその要求をはねのける。
「水沢きららと石田結菜って言ったら、うちの学年の二大巨塔だろ。その二大巨塔が、おまえみたいなイケメンの皮をかぶった臆病でさえない卑怯者にいったい何の用があるのか気になるじゃん」
「おまえなあ……いくら羨ましいからってそこまで貶すか普通?」
思わずむっとして振り返ったが、当たらずとも遠からじだなと思うくらいの余裕が今日の坂本にはある。なにせ、水沢きらら直々の呼び出しなのだ。しかも、石田結菜がらみの。舞い上がらないはずがない。
「約束どおり前川には秘密にしてやったんだから、このくらい文句を言うなよな」
「このくらいって、おまえなあ……」
坂本がため息交じりに言い返そうとした時だった。
「お友だち?」
薄暗い階段に響く、鈴を転がすような細い声。
はっと二人が目線を上げると、階段を登り切ったところにある踊り場に、高窓から差し込む逆光を背にして誰かが立っている。顔周りを縁取る顎くらいの髪が、サラサラと体の動きに合わせて揺れている。
「……水沢」
坂本と仁科は二人同時に呟いてから、あとの言葉を飲み込み固まった。
と、水沢が階段を下り始めた。弾むような、どこか楽し気にさえ思える足取りで坂本の方に向かってくる。息を詰め、言うべき言葉を超高速で検索している坂本を一顧だにせずその脇をするりと通りぬけると、水沢きららは目を丸くして固まっている仁科の前に立ち、にっこり笑った。
「悪いけど、先に帰っててね」
そう言ったかと思うと、水沢きららはよどみなく両手で仁科の頬を挟み込み、みじんのためらいもなくその口を自分の唇でふさいだ。
「……!」
坂本の思考は完全に停止した。
二人は唇を重ね合わせたまま、長い時間動かなかった。完全に混乱して、しかし目線をそらすこともできず、目の前で展開し続ける信じられない光景を、坂本はただ
坂本からは水沢きららの表情はわからなかった。が、仁科はの目元はかろうじて見えた。始め、瞬きすら忘れたように見開かれていた仁科の目が、やがて
と、水沢の体が仁科から離れた。
仁科は数刻、坂本から少しずれた天井の辺りを
仁科の姿が見えなくなると、水沢はくるりと振り向いた。仁科の去ったあたりをあっけにとられたように見つめていた坂本は、ドキリとして思わず呼吸を止める。
「お待たせ」
水沢きららは先ほどと全く変わらない明るい声でそう言うと、軽い足取りで階段をのぼり、動けずにいる坂本の脇を通り過ぎ、屋上階段出口の扉を開けた。そこでいったん足を止めて振り返り、坂本を促すようにじっと見つめる。
その目線に射すくめられたように凍り付いている坂本に、水沢きららは極上の笑顔を浮かべてみせた。だが、なぜか目だけは笑っていないように感じられて、坂本の背筋にぞくりと悪寒に似た感覚が走った。
水沢きららはそれ以上何も言わないまま、ついてくるのが当然のように踵を返し、屋上に出ていく。坂本は数刻屋上出口を見つめて立ち尽くしていたが、粘つく喉を唾液で潤してから、覚悟を決めたように一歩一歩足を踏みしめて階段を上り、その後に続いて屋上に出た。
天気が変わるのだろうか、屋上は強い風が吹いていた。大きな雲が、青い空を結構な速さで横切っていく。吹き付ける風と砂埃に目を細めつつ見やると、灰色の床と空の青の境目辺りに、水沢きららが後ろ向きで立っているのが見えた。
「……何の用?」
風が吹くたびに、見えるか見えないかのギリギリのラインまでまくれ上がるスカートから目を離せないまま、坂本は低い声で短く問う。先ほどの一件で浮ついた気分はすっかり削がれ、それと反比例するように膨れ上がった警戒心が、坂本の内心を埋め尽くしていた。
「用って程でもないんだけど」
水沢きららはそういうと、くるりと踵を返して坂本の方に顔を向けた。坂本がドキリとして思わず一歩後退るも、水沢はいっこう気にする様子もなくスタスタと坂本に歩み寄ってきた。目の前まで来ると足を止め、自分より十センチほど背の高い坂本の顔を覗き込むように、その整った顔を坂本の眼前三〇センチまで近寄せた。
「どーしよっかなーって、思って」
「ど、どうしようって……何を」
目の前でくるくる動く大きな目に気おされて坂本がしどろもどろに問うと、水沢は大輪のバラが背景一面に咲きほこっているかのような麗しい笑顔を白い頬に浮かべながら、その表情におよそ似つかわしくない、こんな言葉を口にした。
「殺しちゃってもいいかなー、なんて☆」
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