1-3
「基礎訓練の終わった者から武道場に移動して近接格闘訓練に入る。終わった者から移動を開始しろ!」
石原の怒声がよどんだ空気を切り裂いて響くと、筋トレの終わった者がバラバラと石原の周りに集まり始めた。「ハイグレード」と呼ばれる、石原お気に入りの訓練成績上位者たちだ。石原がその生徒らを連れて武道場に移動すると、不必要な緊張を強いられることのなくなった「落ちこぼれ」な生徒たちの顔に少しだけ表情が戻る。
坂本はとっくに全てのメニューを終えていたが、ハイグレードたちと行動をともにするのを避けるためまだ終わっていないふりをしていた。ハイグレードたちは新たな成績優秀者が出てくるとよってたかってつぶしにかかり、自分たちの立ち位置を守ろうとするからだ。石原たちの姿が完全に見えなくなったのを確認して初めて坂本はスクワットをやめ、校庭をぐるりと見渡した。
ほどなく、罰則を終えた向坂柊人が校庭を走っているのが視界に入る。普段と全く変わらない軽い足取り。転落の影響はおろか、不自然な姿勢を長時間強制された影響すらうかがえない。坂本は形の良い眉をきつく引き寄せた。
「坂本、終わったのか?」
背後から前川が声をかけてきた。石原はハイグレードの中から係を選出し、自分の仕事の手伝いをさせている。前川もハイグレードに所属しており、石原不在の際、生徒が決められたメニューをきちんとこなしているかチェックする仕事を請け負っているのだ。教師からの信用の厚いハイグレードに友人がいるとなにかと都合がいい。ハイグレードの中で一番御しやすい前川に坂本が近づいたのはそんな理由もあったからだった。
前川の問いに坂本は頷くと、腕に装着した計測機器を見せた。
「うん。つい、力抜くの忘れた」
「力抜くって……いい成績を取ればハイグレードになれんだから力抜く必要なんてねえじゃん」
呆れたように肩をすくめる前川に、坂本は小狡い笑みを投げかけて見せる。
「俺、ドローン部隊配属狙ってっから。あれ、ハイグレード所属じゃなれないだろ」
「ドローンって、……普通配属されんの女だろ」
「前線で使えない男も回されてるじゃん。ただまあ、あんま力抜きすぎると後方支援とか補給部隊とか、最悪廃棄物処理班に回されちまうから、その辺の力加減は難しいけどな。とりあえず射撃はいい成績をとってるぜ」
「いつもながらおまえの考えることはよくわかんねえな。まあ、んなことはどうでもいいや。とりあえず、あいつ、……無事だったな」
「あいつ、な……」
坂本は目に微かな緊張を走らせつつ、ちらりと校庭を回る柊人を見やる。
「見たところ、ケガとかはしていないみたいだな。とりあえず俺は行くけど、前川、あいつの様子見といてくれよ」
「わかった。ムカつくからメニューを増やして体育館に行かれないようにしてやろっかな」
屋上ではあんなにうろたえていたくせに、無事と分かった途端にいつもの傲岸さを取り戻している前川の調子の良さに苦笑しつつ、坂本が軽く手を上げて武道場に足を向けた時だった。
「あの、すみません、バディの具合が悪いみたいなんですけど。ちょっと休ませてもいいですか」
歩き出そうとした坂本の背後から可愛らしい声が聞こえてきた。ちらりと目線を流すと、前川の前に小柄な女子が立っているのが見えた。茶色いサラサラの前下がりショートボブの間から垣間見える、色白の頬と通った鼻筋。
――確か、水沢きらら、とか言ったっけ。
小柄で
――石田、
うつむき加減の横顔にかかる柔らかなくせ毛の間からのぞく頬。いつもは健康的なバラ色に染まっているのに、確かに今日はなんだかやけに白っぽい。坂本はなんだか息苦しいような心地がして、胸がドキドキしてきた。
「熱中症か? じゃあ保健係と保健室に」
「……あ、保健室まで行かなくても、ちょっと日陰で休めば大丈夫だと思います。お水、飲んできてもいいですか?」
細く、高い、鈴の音のような声。坂本はごくりとつばを飲み込んだ。
「そうか? わかった。一人で行かれるよな」
おぼつかない足取りで水場に向かう石田結菜のあとを追うように、坂本は一歩踏み出すと、走り出した。
取り残された水沢は、戸惑うように目線を泳がせてから、意を決したように顔を上げて前川を見た。
「えっと……あたし、バディがいないんですけど、……足、押さえてもらっても……いいですか?」
「え、……俺?」
狐につままれたような表情で自分を指さした前川の顔を、水沢きららは上目遣いでじっと見つめると、小さくうなずいた。その頬は、ほんのりばら色に染まっている。
完全に舞い上がった前川が必死で頷き返すのを遠目に見ながら、坂本は蛇口に覆いかぶさるようにして水を飲む石田結菜に近づいた。
顔を上げた石田の鼻先に、ついと自分のハンカチを差し出す。
「……え、あれ、坂本、くん?」
目を丸くして振り返った石田に、坂本は精いっぱい爽やかな笑顔で頷いてみせた。
「使って。顔、びしょ濡れだから」
「あ……ありがとう」
石田結菜は恥ずかしそうに目線を泳がせたが、おずおずとハンカチを受け取って口元を拭いた。
――おおおおおお、やった!
内心ガッツポーズを決めまくる坂本に、石田はすまなそうに頭を下げた。
「ありがとう。これ、洗って返すね」
「いやいやいやいやいいよいいよ別に汚れてないし、あとで使う予定もあるからそのまま返して」
「……え、でも……」
戸惑う石田の手元からほとんど無理やりハンカチをむしりとると、坂本は慌てたようにポケットにねじ込んだ。
「いいのいいのホント気にしないで。それより、大丈夫? 熱中症?」
「あ、うん……たぶんそうだと思う。でも、お水を飲んだら少し楽になったから大丈夫だよ。きららちゃんに迷惑をかけちゃったし、早く戻らないと。坂本くんも、こんなところで話してるの石原に見つかったらヤバいから、早くいった方がいいよ」
「あ、う、うん、そうだね」
「ありがとね、心配してくれて。じゃあね」
笑顔で手を振り歩きだした石田の後姿を、坂本は半分夢見心地で見送りながら、ポケットにねじ込んだハンカチにそっと震える手を当てた。
――いや、マジでラッキーだったし。これ、ぜってーしばらく洗わねーから!!!
坂本は決意も新たにフワフワする足取りで武道場へ向かった。
坂本が見た目イケメン風味なのにさっぱりもてないのは、こういう妙な性癖のせいもあるのかもしれない。
☆☆☆
坂本がウキウキしながら受け身の練習にいそしんでいると、続々と筋トレを終えた生徒が集まりだした。到着したものから構えの練習に入る。構え、基本ステップ、それに受け身の練習を終えたものから順次防護服をつけての組手に入るのだが、大抵のものは基本練習すら終わらせるのが難しい上に、防護服の数が限られているため、時間の終了までに組手ができるのはハイグレードの中でも石原のお眼鏡にかなうごく一部の優秀者のみである。
坂本は当然組手などやらせてもらえるはずもなく、下級グレード連中に交じって組手の様子を道場の片隅で見学する。見学者に混じるのは、上を狙うハイグレード連中にとってはけっこうな屈辱らしいのだが、坂本は楽ができるこの時間を気に入っていた。
練習場の端に座り、坂本が一息ついて何気なく道場を見回した時、見覚えのある後姿を目に留めてぎょっとした。あの黒髪と背格好は、確かに向坂柊人だ。
――もう、メニューを全部終わらせたっていうのかよ?
てっきり居残り練習組に入ってしごかれるだろうと予想していた坂本が呆気にとられていると、「よお」という声がして、隣に誰かが座った気配がした。前川だ。
「なんだよ、あいつもう来てんの?」
「向坂のこと? ああ、メニューを終わらせたからな」
前川が当然のような顔で答えるので、坂本は呆れてしまった。
「終わらせたって……おまえ、追加メニューを出してやるとか言ってなかったっけ」
「そうだっけか? いや、でもそこまでやらせなくても、あんな目に遭ったんだから十分じゃね?」
何だろう、前川の様子がさっきまでとは明らかに違う。向坂に対する言葉が刺々しさのかけらもない。毒気をすっかり抜かれてしまった感じだ。前川のあまりの変化に戸惑った坂本が言葉を継げずにいると、前川はさらに驚くべきことを口にした。
「俺さ、とりあえず、向坂いじんのやめるわ」
「……はあ? 何言ってんの前川、おまえ、向坂はムカつくって何度も……」
思わず大きな声を上げてしまい、慌てて言葉を飲み込んだ坂本を横目に、前川はきまり悪そうに頭をかいた。
「ムカつくよ。ムカつくけどさ、とりあえず今日のはやり過ぎたなって反省したっていうかさ、あいつも今日のことでかなりキモ冷やしたと思うし、ちょっと間をあけてもいいと思ってさ」
「どこがキモ冷やしてんだよあいつケロッとしてんじゃねえかよ、これで手を引いたら完全に舐められっぞ」
「いや、実を言うと、俺自身がかなりヤバかったってのが正直なところでさ。今日のアレ、下手したらマジで殺してただろ。あそこまで行っちゃうのはまずいって。ちょっと止めて頭冷やした方がいいと思う」
「なんだそれ。ざけんなって……」
「誰だ、喋ってるヤツは。試合が始まってるんだぞ。私語は慎め!」
石原の怒号が響き渡り、坂本は言いかけた言葉を飲み込んで小さく舌打ちした。前川は単細胞であまり複雑なことは考えられないが、自分の腕力や体力には絶対の自信を持っているため、ちょっとやそっとの脅しには屈しない。これ以上食い下がっても無駄だ……とはわかっていても、状況のあまりの変わりように、坂本は内心の動揺を抑えられなかった。前川がこの様子では、前川の腰巾着である仁科も手を引くに相違ないからだ。
それにしても、あれほど向坂がムカつくと息巻いていた前川の、この変わりようは何なのだろう。それほどまでにあの転落が衝撃だったということなんだろうか。だが、ついさっき話した時にはそんな様子は一切見られなかった。どころか、すっかりいつもの調子を取り戻しているようにさえ見えた。さっきから今までの間に、前川に何かが起きたということなのだろうか。混乱しながら、坂本は先刻前川と話した時のことを必死で思い返していた。
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