1-2
次は訓練の授業だった。
転落した向坂柊人がどうなったかを確かめる間もなく屋上から逃げ出した三人が、準備をすませて校庭に飛び出した時には、生徒たちは整列して準備運動を始めていた。が、幸い担当教師はまだ来ていないようだった。三人は息を切らせながら隊列に加わると、級友たちの動きに合わせてそ知らぬ顔で手足を動かし始めた。
伸脚をしながら、茶髪イケメン坂本は生徒たちに視線を走らせる。当然のことながら向坂の姿はない。
坂本はもう一度先ほどの状況を整理する。遺書は、風に飛ばされないよう石で重しをして、目につきやすい場所においてきた。短い文面だが、確実に向坂の筆跡だ。自分たちが屋上に行っていたことを知る者もクラスにはいない。
大丈夫だ。坂本は目を閉じて呼吸を整える。
向坂が転落した直後、前川は相当ショックを受けたらしく、慌てた様子で階下に落ちている硬球を探しに行こうとした。自分の投げた球が転落の引き金になったのだから当然と言えば当然だが、そのベタな反応に坂本はげんなりした。たとえ硬球が死体の傍から発見されたとしても状況は明らかに自殺であり、その意味に気づく人間などいるはずもない。ましてや大して価値のない「壁の外」の人間の死に対して、中央警察が原因究明の意欲を持って乗り出すとも思えない。それより、自殺現場をうろうろして人目につく方がかえって危険だ。そんなことちょっと落ち着いて考えればわかりそうなものなのに、これだから筋肉バカは使えないんだと坂本は内心ため息をついた。坂本の言葉にニキビ面に汗をにじませつつ必死に頷いていた
あれこれ言葉を尽くしてもなかなか理解しようとせず、思いとどまらせるのにも予想外に時間がかかったせいで随分時間を取られてしまったが、ギリギリ訓練には間に合ったからよかった。もし授業に遅れれば、クラスの生徒や教師に不信感を抱かれる。その方が硬球一個よりはるかに危ないのだから。
体操を始めてからほどなくして教師がやってきた。生徒たちはすぐに気を付けの姿勢を取り、係の号令のもと「よろしくお願いします!」と頭を下げる。
学校生活は、戦争が身近になった社会情勢を反映して全体主義的な空気が
教師も特に強権を振るう必要はないはずなのだが、こちら側の教師は暴力で生徒を威圧したがるヤツが多い。「兵役に就いてからのギャップを無くすため」と嘯くが、ようするに「壁の外」に放り出された
が、訓練担当教官はそういう一般教科の教師とも異なる。訓練担当教員は、何らかの理由で軍隊をはじき出された教員免許を持つ元軍人が担当している。何らかの理由というのは要するに暴力沙汰や犯罪のことである。軍隊あがりの犯罪者が何をしたがるかは言わずもがなであり、このクラスの授業を担当している石原も御多分に漏れず強権を振りかざす訓練担当として有名だった。難癖をつけては指導という名の制裁を加えたがっているのがわかるため、しなくてもいいケガをしないよう、生徒たちはより一層緊張して授業に臨むしかなかった。
照りつける五月の日差しの下、気を付けの姿勢で微動だにしない生徒たちを数刻粘りつくような視線で睨め回してから、石原はおもむろに名簿を取り出し、列の周囲をゆっくり歩きながら呼名を始める。リズミカルな応酬が続いている限り石原の態度に変化はない。だが、それが一拍でも遅れようものなら問答無用で平手が飛んでくるのを生徒たちは知っている。列の周りを訳もなくうろついているのはその機を逃さないためだ。
坂本の名が呼ばれた。次に向坂の名が呼ばれる。ここにいないと分かっても、すぐにどうこうということはないだろう。だが、次の授業もいないと分かれば、教師側も捜索し始めるかもしれない。校舎裏の茂みに横たわっているだろう向坂の死体が発見されるのも時間の問題だ。
埃っぽい空に石原の怒声が響きわたった。
「向坂!」
知らず息をひそめた坂本の耳に、すぐ後ろから信じがたい音声が届いたのはその時だった。
「はい」
――え?
思わず振り向きそうになる体を必死で押しとどめながら、坂本は全神経を背後に集中させた。
少し前に並んでいる仁科も同じ思いだったらしい。石原に気づかれない程度に顔を曲げ、横目で声のした方を必死で見ようとしている。
向坂は最後尾に並ぶ前川のすぐ後ろに立っているようだった。顔は見えないが、前川も目を丸くしているに違いない。
石原は腕組みしたまま呼名を止め、声の主を血走った眼で睨めまわした。
「向坂、おまえどうして一番後ろに並んでいる? おまえは確か、前川の前だろう」
「はい」
何の感情もこもらない平板な声が届く。けがをして痛みをこらえているような様子はない。全くいつも通りの、何を考えているかわからない向坂の声だ。
――あの高さから落ちて、無傷なのか?
加えて、いったいいつ列の後ろに並んだのだろう。全く、何の気配も感じなかった。遅れて来る者があれば、すぐわかりそうなものなのに。
「はい、じゃない! 遅れてすみませんでした、だろうが!」
怒号とともに、平手打ちが
地面に膝をついた向坂を見下ろしながら、石原は、満足げな笑みを無精ひげだらけの頬に浮かべた。
「遅刻の罰だ。休めの姿勢を取って手を後ろ手に組め。組んだら上体を落として額を地面につけろ。膝はつくなよ。そのままの姿勢を十分保ったら許してやる。これは俺が外人部隊として派遣された軍隊でやっていた罰則だ。普通は三十分だが、おまえは学生だからな。十分で許してやるからありがたく思えよ」
石原の高笑いを背後に聞きながら、あの姿勢を取らされた経験のある者は十分という時間に息をのむ。三分続けるだけでも至難の業なのだ。
「他の者はいつものように校庭十周、そのあと腹筋背筋腕立てスクワット三十回ずつを二セットだ。男子は二十五分、女子は三十分以内に終わらせろ。時間内に終わらなかった連中はこの時間ずっとランニングだ。始め!」
照り付ける日差しの中を走りだした坂本は、ちらりと校庭の端で不自然な姿勢をとらされている向坂に目をやる。地上二十メートルから転落して、普通の人間なら無問題のわけがない。しかし、見る限りなんの影響も受けていない。なにか不調を隠しながら、あんな姿勢を続けられるものとも思えない。
――絶対おかしいだろ、あいつ。
向坂に対する不審が膨れ上がってくるのを感じながら、坂本はふと、そういったことが可能な人種が存在していたという、ある「都市伝説」を思い出した。
坂本が生まれた頃、国家体制の転覆をくわだてたテログループが大掛かりに掃討される事件があった。市民の動揺を抑えるためという名目であまり詳しく報道されることはなかったが、坂本の父親は当時警察官をしており、その掃討に加わっていたことを人づてに聞いて知った。父親自身は事件について固く口を閉ざし語ろうとはしなかったが、父親が警官を辞めたのはその事件がきっかけなのではないかと疑っている。
そんな理由から、坂本はこの事件についてあれこれ調べていたのだが、そこで坂本は信じがたい、都市伝説めいたうわさに行きあたった。そのテロ組織に属した人間の多くはある血族の一員であり、その血族には普通の人間にはない能力が備わっていた、というものだ。
その血族は、弾丸を素手で掴み、数十メートルの高さから飛び降り、鉄骨を折り曲げ、自動車を持ち上げる筋力と反射神経を有する。傷はすぐに癒え、毒を飲んでも死なず、数十分呼吸を止められる超人的な体力をも具えているという。そんなバケモノのような血族が本当に存在するとは思えず、ネットでよく見かける陰謀論とか都市伝説の類だろうと、坂本は興ざめして調べるのをやめてしまったのだが、まるっきり火のないところに煙は立たないとも言う。もし万が一あの「うわさ」に、いくばくかの真実が含まれていたとしたら。
――いや、いくらなんでもそれは。
あの向坂が、どんないじめに遭っても何も言わずじっと耐えているだけの向坂が、そんな能力を有しているなどといくらなんでもありえない。そんなことを一瞬でも考えるところをみると、なんだかんだいって向坂が転落したことに動揺していたのかもしれない。生きるためにはなんにでも手を染め、大概のことには動じなくなったと思っていたが、意外に気弱な自分を発見した気がして、坂本は思わず苦笑した。
あれこれ考えているうちに十周走り終えていたらしい。たいして息も切らせず振り返ると、仁科らはまだ走っていた。坂本は優男然とした風体だが、有能な警察官だった父親に似たのか、意外に運動能力は優れている。普段は適当に皆のペースに合わせて力を抜いているのだが、考え事をしていたせいでスピードが上がって、先頭グループに入っていたらしい。
――でも。
そういえば、向坂も坂本と同様に、あまり息を切らせてテンパっている様子を見たことがない。いつも自分と同じような位置にいて、無表情に練習メニューをこなしている。
校庭の隅に目を向けると、向坂は先ほどの姿勢を保ったまま微動だにしていない。時計を見ると七分程度経過している。腕立て伏せを始めながらも、坂本はちらちらと目線を向坂に流しては、その様子を注視し続けていた。
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