新宿マジックRENDEZVOUS

磯崎愛

其ノ壱、魔術師ヴィルジリオ、2020年5月8日早朝の浅草寺にて黒衣の夢使いに遭遇する

 東京に破滅の兆しがあるといっとう初めに気がついたのは、恐らくナポリの魔術師ヴィルジリオそのひとだ。

 彼はむろんラテン文学最大の詩人ヴェルギリウスではない。残念ながら、英雄譚『アエネイス』を描いた大詩人が魔術師だったのは中世の伝承にすぎない。

 けれども時が過ぎた二十一世紀、まして令和の時代になろうとも、人智の及びもつかぬ不思議はなくならない。

 東京に突如としてあらわれた破滅の種子は、ほうっておけば地を破り天を突きぬける異様なモノに見えた。大都市の崩れいく様を夢に見てヴィルジリオは魘された。

 それとなくヨーロッパにいる眷属、その界隈に探りを入れると、目端の利くものたちはやはり異変を察しているようだった。だがみな一様に、遠く東の果ての物事はあちらで勝手に対処するものとばかりにのんびりと構えていた。

 実をいえば、ヴィルジリオの見立ても同じだった。 

 昨年、新たな天皇が即位して令和時代を迎えたこの国は、その節目のときに悪鬼羅刹、魑魅魍魎の類を一掃した。かつてなら絵巻物になるだろう華々しい戦果が幾つもあったと聞いている。よって、いざとなれば彼らが迅速に対処すると信じてもいた。

 だから、ヴィルジリオが四月に来日したのは言ってみれば物見遊山、この日ノ本の特異な力を持つものたちが異変にどう立ち向かうのかを見物しに来たのだ――というのが建前だ。

 なにしろ桜のうつくしいころだった。

 ヴィルジリオが浅草の安宿に居を構え、ひと月と一週間が過ぎた五月八日朝、六時ちょうどに鐘が鳴る。

 花の雲 鐘は上野か 浅草か――そう詠んだのは松尾芭蕉だ。

 浅草寺の弁天山にある鐘は、江戸時代からつづく「時の鐘」として有名だ。戦争時の供出を免れた鐘の音は、薫風馨る五月の空を突き破ってなお、悠然として厳かだ。

 ヴィルジリオは目をとじて余韻にひたっていたが、すぐ横をジョギングする老人が走りぬけて瞼をあげた。

 南の海をおもわせる両眼が朱い雷門を見た。

 ポケットから端末を取り出す。なるほど、先日知り合った画廊主の言うとおり、浅草寺に行くなら早朝だ。SNS映えする写真がたんと撮れる。昼や夕方に見た景色とまるで違う。

 朱塗りの山門、左右の風神雷神、大提灯の雷門の文字はどっしりと重厚だ。底面にいる龍まできっちりと撮影した。ひとが多くてはこうはいかない。

 さっそくプラハに住む友人の魔女ヴェラに、黄金の龍があらわれた古寺の門だと説明してメッセージアプリを送信した。魔女はたいてい宵っ張りだがヴェラはちがう。夜更かしは美容の大敵とばかりに早く寝る。現地は夜中の十一時だ。既読にならない。

 本当はいっしょに見たかった相手がいる。だが、もうそれはかなわない。

 ふ、とヴィルジリオは片頬で笑んで顔をあげた。参道の人影はまばらだ。

 こんどは正面の宝蔵門、そして仲見世のシャッター壁画がよく写るように端末を向けた。

 そこに、黒紋付羽織袴の男が背を向けて立っていた。

 思わずパパラッチのようにシャッターを切る。ヴィルジリオは目をすがめ、男の背に浮かぶ紋を確かめようとした。画面を拡大した瞬間、真後ろから声をかけられた。

「ナポリのヴィルジリオだな」

「だとしたら?」

「何しにこの国に来た」

「入国審査はとっくに終わってるのにまた言わないといけないのかい?」

 めんどうくさいねえとヴィルジリオは苦笑した。両手は端末をもったままだが足は地についている。術をかけるつもりなら声なぞかけないだろう。それに、なにか細く硬いものが背に押しあてられている。銃でもナイフでもない。だがそれは間違いなく奇妙な力を携えているにもかかわらず静謐だ。

「この国からすぐに出て行け」

「いきなり無礼だね」

 ヴィルジリオは端末を構えたままゆっくりと振り返る。そのままシャッターを押してもよかったのだが、やめた。

 黒い帽子の庇の下で、零れそうに大きな目が煌めいている。眉毛が濃く、睫毛もまた密集している。くるみ色の肌に黒マスク、同じ色のパーカー、ブラックジーンズに汚れたスニーカーと上から順に見る余裕がヴィルジリオにはあった。

 黒手袋の手には何もない。

 未成熟な雄らしく手足がやたら細くて長く、服のうちがわで身体が泳いでいる。帽子から零れる髪が縮れているのを見分け、ヴィルジリオは端末をポケットにしまう。

 それから額にかかる金髪を指ではらって斜めに見やる。

「名乗りもしない卑怯者にそんなことを言われる筋合いはないな」

「忠告だ。出てかないつもりなら」

「紡(つむぐ)、やめなさい」

 背中から届いたのはほとんど囁き声だった。されど空気が凝った。

 雪駄の跫(あしおと)が近づいてくる。振り返らずとも黒紋付の男だとわかった。

 ち、と舌打ちをして若い男が踵を返す。

 風雷神門と書いてある大提灯の向こうにその背が消えて、ようやく首を巡らした。

「あなたは」

 これは失礼を、と年のころ四十絡みの眼鏡の男は慇懃にこたえて名刺を差し出してきた。


 養蚕教師 大桑弼 OKUWA TADASHI


 あえかな花びら模様の浮かぶ和紙表面に、紋付と同じ扶桑紋がある。

 間違いない、夢使いだ。

 養蚕教師は夢使いの表向きの職業とされている。かつて養蚕を教え手伝いながら夢を売り歩く流浪の民であった彼らは「御一新」以降、政府に掬い上げられた。ちょうど開国期にヨーロッパの養蚕業がカイコの病気によって破滅的状況にあったため、生糸の輸出が激増したのが一因だ。殖産興業、外貨獲得のため政府は養蚕業や製糸業を積極的に推し進めた。世界遺産になった富岡製糸工場ができたのが明治五年のことだ。

 夢使いが黒紋付袴なのはその当時の養蚕教師の習いとも、かつて明治天皇に夢を供したときの正装からだとも言われている。彼らの立場改善には日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一の労があったのは事実だ。

 ヴィルジリオはじぶんの想像が外れていないと知った。おそらく笑ったのだろう。目の前の男が訝しげに彼を見た。ヴィルジリオは言い訳をした。

「いえ、すみません。あなた方に会うのにひと月もかかるとはおもっていなくてね」

 この一か月、彼は都内のありとあらゆる場所に潜りこみ破滅の種子について調べていた。

 オリンピックイヤーの東京は、それでもナポリに比べたら格段に治安がよい。金髪碧眼の彼は外国人として差別されないどころかことさらに親切にされた。きっちりと髪を撫でつけてイタリア製のスーツを着るとヴィルジリオはなかなか見栄えがした。いくらか背が低いところも愛嬌になった。

 陰陽師や昨今台頭しつつある力ある死霊魔術師にも会った。おうかがいを立てる姿勢で臨んだ結果、やはり彼らも東京に破滅の兆しのある事実を認めはした。されど、それをはっきりと名指すことは決してなかった。

 破滅の兆し、それは種子に似ていた。

 夢使いたちの御神木は、天空を覆う巨樹だ。

「おや、それはご不便をおかけしました。夢使い協同組合にご連絡いただければすぐお近くのものが行くよう手筈が整いますよ」

 大桑は、失礼しますと言ってヴィルジリオの手から端末をとりあげた。あ、という間に検索して『夢使い協同組合 香音庵(かのんあん)』の公式サイトをひらいてみせた。

「ほら、東京に本部がございますんで。むかしは東と西に支部があったんですがねえ、この不景気のせいで統合されましてね。しかも、しみったれてるんでフリーダイヤルもありませんが、このとおりメールフォームをご利用ください。お恥ずかしい話しですが組合費が高いんで個人で営業してる夢使いもいましてね、そういうのは『外れ』といいましてね、けしからんことをするやつがいないとも限りません。けどね、組合から申し込んでもらえばなんの心配いりません。夢を御入り用、または眠れぬ夜の話し相手に是非ご連絡を」

 大桑はまったく悪びれる様子もなくさらさらとそう述べて微笑んだ。ヴィルジリオは少々面食らったが、顔には出さなかった。夢使いがサーヴィス業である事実をおもいだす。魔術師もそうだ。依頼がなければ喰いっぱぐれる。

 初心に帰り、ヴィルジリオは居住まいを正して名刺を差し出した。

「申し遅れましたが」

 頂戴いたしますと大桑が作法通りに受け取った。織物でできた名刺入れにそれを挟みこんで顔をあげた大桑はもうすっかり親しげな笑みを浮かべていた。

「ヴィルジリオさん、身内の無礼のお詫びに朝ごはん、御馳走しますよ。このへんでもいいですが、あいつに見つかると面倒なんで、築地か、」

「あ、すいません、このところ築地でごはん食べてます」

「もしかしてギャラリーやってる宮入さん?」

「はい、彼女にいろいろと連れて行ってもらいました」

 それを聞いた大桑は、宮入さんはお洒落で美味しいお店をたくさん知ってるでしょうと続けた。ヴィルジリオが同意すると、大桑が提案した。

「じゃあもう新宿に出ちゃいましょうか」

「いいんですか?」

「いいんですよ、お互い、でなければ始まりませんでしょう」

 何が、とは言わなかった。

 瞳を見交わして微笑みあう。

 そして、黒衣の夢使いとスーツの魔術師は並んで朱い門を潜り抜けた。

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